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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

一 概説

 明 治 前 期〈中央集権への道〉

 明治政府による政権の基礎固めは、旧幕府勢力との戊辰戦争の推移に伴って進められた。
 政府は慶応四年(一八六八)閏四月に「政体書」を頒布し、太政官制を定め地方行政に対しては府・藩・県の三治制をしいた。明治二年(一八六九)には版籍奉還を実施した。各藩では財政が悪化していたため、薩長土肥四藩主導のこの改革は容易に受け入れられた。これによって知藩事に任命された旧藩主は一地方官に過ぎなくなり、藩士(士族)との間にあった君臣関係は制度の上ではなくなった。
 明治四年(一八七一)七月廃藩置県が断行され、全国には三府三〇六県が生まれた。同年一一月には県の統合が行われて三府七二県に整理された。伊予の八県は明治五年に石鐵・神山の二県となり、同六年二月愛媛県が誕生した。
 この時期の地方制度は大区小区制という画一的な行政区画で運営された。区制は明治四年の「戸籍法」施行に伴って設定されたが、旧石鐵・神山両県の区制は地形の広狭、人口の多少などが相違していて行政施行上不便であったので、愛媛県が誕生すると七年に改めて県内を一四大区三一三小区に分けた。大区には区長、小区には戸長が任命され、県の指令を受けて戸籍そのほかの行政事務、大小区費の徴収に当たるなどの任務が与えられた。明治六年に新設された内務省は、集権的な地方行政の推進を急務として、内務卿―府県知事―区長―戸長という中央から地方末端に至る指揮・命令系統の確立を目指した。
 内務省は、佐賀・鹿児島県などと並んで「七難治県」のひとつに数えられていた愛媛県に岩村高俊を権令(のち県令)として派遣した。岩村県政は、明治七~一三年の五か年余にわたり、地方有識者の登用による県治の円滑な運営、地方民会・特設県会の開設、地租改正事業の完成など内務卿大久保利通中心の改革路線に沿う諸政策を展開した。この間、明治九年(一八七六)に香川県が廃され、旧讃岐国が愛媛県の行政区域に入った。このとき、全国で面積が狭く財政的に弱小な一四県の隣県への併合が行われたが、古来伝統ある国域を超越しての合併は、机上の計画としては妥当であっても現実には問題が多く、明治二一年(一八八八)に旧香川県域は分離した。

 〈四民平等・地租改正〉

 国内の統一と並行して社会制度の改革も進められた。政府は旧藩主を上層公家ととも
に華族とし、旧藩士・幕臣を士族として、封建的な主従関係を解消した。同時に農工商は平民となり、また明治四年には、旧来のえた・非人の称をやめて、身分・職業ともに平民と同じにした。平民は苗字を許され、華・士族との通婚もできるようになり、移転や職業選択の自由も認められて、いわゆる四民平等の世となった。しかし身分差別の因習はその後も根強く残存した。
 地租改正を中心とする土地制度の改革は、明治維新における最も重要な政策であった。新政府の主要な財源は旧幕府時代の貢租を受け継いだ地租であったが、その地租は主として物納であり税率も地域によって異なり、収穫の状況で変動した。そこで政府は、明治六年(一八七三)「地租改正条例」を公布して、課税の標準を地価に変更し、物納を金納に改め、土地所有者を納税者とすることにした。これにより、地所取調べと地価算定の作業が各府県で実施され、約六か年の年月を費やして同一二年までにほぼ完了した。愛媛県では同八年八月に改租事業に着手、県当局は改租の成否は各区戸長の奮発と努力にかかるとしてその心得を配布するなど一〇年までに七五以上に及ぶ地租改正関係法令を公布した。また地域の有力者を地租改正総代人や地位等級を判定する委員に任じて地価評定に立ち会わせるなど一般農民の動揺と不安を解消させる手段をとった。本県における旧藩の税は高率であったので、新税が相対的に軽減されたとの印象を県民に与えて、地租改正に反対する騒擾は起こらなかった。
 政府は地租改正で国家財政の安定を図る一方で、財政上大きな負担となっていた士族の秩禄処分を断行した。まず家禄の削減さらにはその奉還が勧奨され、奉還者には産業資金として一時金と公債を下付することにした。小藩のため微禄者の多い本県士族は半数以上がこれに応じた。しかし全国的には予期した効果があがらなかったので、同九年「金禄公債証書条例」で公債を支給する代わりに家禄奉還を強制した。愛媛県では同一一年から一人平均五四五円(全国平均は約五〇〇円)の金禄公債証書が交付されたが、年収三〇円程度の利子ではインフレの中で生活を支えることはできず、元金償還を待たずして公債を売却する士族が多かった。こうして地租改正と秩禄処分により封建的な領有制は解体した。

 〈文明開化・学制頒布〉

 この時期、欧米の新しい文化・思潮が取り入れられ、「文明開化」の世相が現出した。愛媛県にも、明治九年(一八七六)九月「愛媛新聞」が全国一三番目の新聞として創刊され、県当局もこれを「本県御用」として後援した。同新聞は翌一〇年四月「海南新聞」と改題し、啓蒙思想の紹介や政府・県の施策に対する論説などを掲載して、県民の開化に寄与した。県民の風俗習慣・生活様式については、男女混浴の禁止をはじめ立小便、若者組、盆踊りなどを文明開化の時代にふさわしくない「悪習」としてその改善方を促す布告がしばしば出された。こうした風俗改善の指導や犯罪予防・人民保護に当たる警察も、明治八年(一八七五)に屯所が置かれて巡査が配備されるなど漸次整備されていった。明治一〇~一二年にはコレラが大流行、とりわけ一二年のコレラは本県を中心にまん延し多くの死者を出した。これを機に防疫が強化され、同一三年には県庁に衛生課が置かれた。
 教育の面では、明治五年(一八七二)に全国統一的な「学制」が公布され、立身出世・実学主義の近代教育理念のもとに国民皆学を指向した。愛媛県では、内藤素行ら知識人を学区取締に任じて小学校設立と就学勧誘に当たらせた。その結果、明治九年末には六四〇校の小学校が設立されて、ほぼ全地域の児童に就学の機会が与えられた。しかし学齢児童の就学率は明治一〇年時で三二%と低迷し、県民の教育への関心の低さを示していた。中等教育は、明治八年に県立英学校が松山に設立され、その先駆けとなった。校長には慶応義塾出身の草間時福が赴任し、生徒たちは洋書中心の教育を受けて欧米文化に触れた。英学所は翌九年から北予中学校(のち松山中学校)に発展し、同時に宇和島に南予中学校が開校した。小学教員養成のための愛媛県師範学校もこの年に創設された。

 〈三新法体制〉

 明治一一年(一八七八)七月、政府は「郡区町村編制法」「地方税規則」「府県会規則」の地方三新法を公布した。これにより、従来の大区小区制が廃されて郡・町村が行政区域に復活した。また地方税制が整備され、収支予算を審議するための公選府県会が開かれることになった。本県三〇郡(うち伊予一八)には、二一の郡役所 (うち伊予一四)が設置された。岩村県令は郡長の人選を重視し、小林信近・長屋忠明・都築温・石原信樹ら各地域を代表する士族を配置して住民との密着を図り、行政の成果を期した。町村には一町村または数か村連合して戸長役場が置かれ、公選戸長が就任した。
 創成期の県政を担当して多くの事績をあげた岩村高俊は、明治一三年三月内務省に帰った。その開明施策を末広鉄腸・内藤鳴雪らと新聞が評価して、いつしか〝民権知事〟の名が定着した。岩村に代わって愛媛県令には関新平が就任した。関県令は官民協調路線を廃して官治支配を強化したので、県会と対立し圧政家と批判された。維新の改良政策推進のため人心を振起啓蒙する適度の開明性と自由裁量の施策が地方長官に容認された時代は過ぎ、政府は地方体制・教育などあらゆる分野で統制を強め、民権論の抑圧に努めていたので、この時代のほとんどの府県知事(明治一九年七月「地方官官制」で県令は県知事と改称)は圧政主義の傾向にあった。関知事は、松方デフレ下の財政難に苦しみながらも国策として期待された四国新道の開さくに奔走した。新道は明治一九年(一八八七)に着工二五年に完成するが、関はその完成を見ずして県知事在職のまま同二〇年に死亡した。

 〈士族授産・殖産興業〉

 秩禄処分によって家禄を失った士族は、新しい職業を求めねばならなかった。貧困に追いつめられた士族の多くは政府に反感を持ち、不平士族の反乱の一因となった。愛媛県でも、明治一〇年(一八七七)西郷隆盛の西南戦争に呼応して大洲・吉田・宇和島の不平士族が徒党して国事犯事件を起こした。西南戦争鎮圧後、政府は事業資金の貸付げなどを行って、士族授産事業の後援に乗り出した。すでに本県では各地の有志士族により養蚕製糸業などが起こされ、明治一〇年代のこの時期、旧藩の士族団単位に起業基金貸付け申請が相次いだ。その多くは「士族の商法」で失敗に終わったが、県内製糸業発展の先駆的役割を果たした。養蚕業は、関新平の後本県知事に就任した藤村紫朗の振興策で地場産業として定着していった。またこの時期、政府の開墾事業勧奨に、旧松山藩士族などが応じて福島県安積地方への入植、北海道の屯田兵として移住する者たちもいた。
 近代愛媛における士族授産・殖産興業面で活躍した先駆者は少なくないが、その代表が小林信近であった。小林は県会議長・郡長など政官界の重責を務めるかたわら士族授産会社牛行舎や松山米商会社を設立、第五十二国立銀行を創設して初代頭取に就任するなど新事業の開発に常に興味と意欲を持ち、明治二一年(一八八八)にはわが国最初の軽便鉄道伊予鉄道を敷設し、また電気会社を起こした。

 〈自由民権運動〉

 明治七年(一八七四)板垣退助らの民撰議院設立建白を契機に始まった自由民権運動は全国に広がり、各地に政社が生まれた。愛媛県では長屋忠明らが公共社を結成したが、あまり振わなかった。この時期には愛媛に併合されて不利益をこうむったとして、讃岐人の反政府・県感情が根強く、民権運動を分県運動とからませて展開した。愛媛に民権運動が浸透するのは明治二〇年(一八八七)の三大事件建白以後であり、藤野政高・鈴木重遠ら大同派(自由党)と小林・高須峯造らの改進党系が来るべき国会進出に備えて激しい政治運動を展開した。これを理論面で指導したのが宇和島出身の末広鉄腸であった。

 明 治 後 期〈地方制度の成立〉

 明治二二年(一八八九)二月一一日、大日本帝国憲法が発布された。帝国憲法は欽定憲法であり、天皇と行政府の権限が極めて強いものではあったが、日本はアジアではじめての近代的立憲国家になった。刑法・民法・商法などの諸法典の編さんも同二三年ころまでに終わったが、このうち民法は帝国大学教授穂積八束が家族道徳などの伝統的な倫理を破壊すると批判して民法典論争を起こした。この結果、民法は帝国大学教授穂積陳重(八束の兄)を主任とする法典調査会で大幅に修正され、古来の家族制度を容認したものとなった。宇和島出身の穂積兄弟は、わが国法学界のパイオニアとして大きな足跡を残した。
 地方制度の整備も憲法の制定に対応して進められた。明治二一年(一八八八)に「市制」・「町村制」が、同二三年(一八九〇)に「府県制」・「郡制」が憲法発布前後に公布され、政府の強い統制の下の中央集権体制ではあったが、地方自治制が部分的に確立した。愛媛県では明治二二年一二月一五日から町村制を施行し、この法規の意図する行政区域拡大のため大規模な町村合併が実施された。また同日の市制施行に伴い松山市が本県最初の市として誕生した。県政は、明治二一年二月内務大書記官の白根専一が本県知事となって香川県分離の事務を処理した。ついで勝間田稔が四年、小牧昌業が三年間県知事に在職して県道改修事業などを計画実行した。明治末年までの県内の国道は二路線、県道は二二路線であった。
 この時期、教育の統制が強まった。明治一九年(一八八六)に公布された「小学校令」「中学校令」「師範学校令」で、学校制度は各学校種別に規制されることになった。これらの教育法令は勅令の形式で出されて、同二三年の「教育勅語」と相まって天皇制国民教育制度が成立した。小学校は義務教育四年の尋常小学校と高等小学校四年の二段階に分けられたが、国力の伸張に伴う国民皆学の実現で、同四〇年からは尋常小学校の義務教育年限は六年に延長された。師範学校では順良・信愛・威重の気質を備えた教師像の育成が要請された。中学校は本県では県立学校のない時期がしばらく続き、明治二五年に伊予教育義会の経営になる伊予尋常中学校が県立に移管されて愛媛県尋常中学校(のち松山中学校)と称し、同二九年には東予分校(のち西条中学校)と南予分校(のち宇和島中学校)が併設された。社会環境の発展で中等教育の振興が要求される中で、同三二年には「高等女学校令」「実業学校令」が制定されて、本県でも中学校の増設とともに高等女学校・実業学校の新設が図られた。

 〈近代産業の形成〉

 文明開化の象徴である鉄道事業は、明治二〇年代には民間資本による鉄道会社設立のブームが起こった。愛媛県でも、伊予鉄道の成功に刺激されて道後鉄道・南予鉄道がそれぞれ開業した。両社はやがて伊予鉄道と合併したが、明治四五年(一九一二)に設立された松山電気軌道会社は道後・三津浜間に電車を走らせ、伊予鉄道と激しい客引き競争を演じた。長い海岸線を持ち本土との交流を海上に依存しなければならない本県の地理的条件で、海運業が早い時期から発達し、大阪商船、宇和島運輸、住友鉱山汽船部、東予汽船、石崎汽船などの各社が大阪・九州・中国との定期航路を開設した。また県内の沿岸航路や島しょ部との航路も頻繁に運航した。
 民間産業の新しい動きは、貿易の影響を強く受けた繊維産業部門を中心に明治一〇年代中ころから活発になりはじめた。製糸業は、農村の養蚕業を基盤とし、欧米向げの輸出産業として急速に発達した。輸入機械に学んで在来技術を改良した器械製糸による小工場が、明治二〇年代から農村地帯に続々と生まれた。愛媛県でも、県の振興策と民間有志の努力によって養蚕製糸業が地場産業として定着、明治二二年には蒸気機関を導入した南予製糸㈱が宇和島に創立した。紡績業では、明治一六年(一八八三)大阪紡績会社が開業し、輸入の紡績機械・蒸気機関を用いた大規模経営に成功した。これに刺激されて紡績会社を設立する動きが高まり、明治二三年にはその生産量が輸入量を上回った。愛媛県には川之石の宇和紡績会社ほかに工場が生まれたが、中央の大資本工場に押されて業績は伸び悩み、明治末期までに松山紡績会社以外は解散した。綿織物業は、輸入品に圧迫されて一時衰えたが、農村家内工業において、飛び杼をとりいれて手織機を改良し、原料糸に輸入綿糸を用いるようになり、生産は次第に回復した。今治の白木綿や松山地方の伊予絣はこの時期に急速に発達して、その生産高は全国的に上位を占め品質も好評であった。
 繊維産業の発達は、明治期以後の日本農業にとって最大の副業である養蚕業をなりたさせたが、依然として米作に依存する零細経営形態は変わらなかった。明治一〇年代には本県でも全国同様に農事の改良熱が高まり、農談会が各地に開催され、勧業試験場・各種伝習所が設立された。輸入種苗や農具の試作試用が各地に置かれた勧業掛や農事巡回教師を中心に行われ、米質改良組合・農会なども結成されるようになった。今日の愛媛の農業を特色づける果樹農業は、明治中期から各地の先覚者が試作し、西宇和郡での柑橘類、温泉郡の梨は、明治末期から伸びていった。在来の地場産業である和紙・木蝋・砥部焼・菊間瓦・桜井漆器なども明治一〇年代から二〇年代にかけてマニュファクチュアの形式とその一部では機械制工場への展開が見られ、日清戦争後地場産業として定着していった。愛媛の農業と工業の特性はこの時期に確立した。
 愛媛県では、明治二〇年ころ地主的土地所有が成立した。大地主の手に集積された資本は勃興する商工業及び銀行の資金源となった。明治一〇年代本県では、第二十九(川之石)、第五十二(松山)、第百四十一(西条)の三国立銀行をはじめ多くの私立銀行、銀行類似の金融会社が生まれた。その後三国立銀行などは「国立銀行条例」改正と「普通銀行条例」制定により普通銀行に改組昇格して存続した。日清戦争以後の産業革命期には繊維産業などの進展に伴い、銀行の増設が続き明治三三年には五三行に達した。しかし、明治三三~三四年の経済恐慌以後、中小銀行は次第に統合の方向に進んだ。
 日清戦争前から紡績業を中心として開始されていた産業革命は、戦後に大きく進展し、繊維産業を主体とした資本主義が成立した。愛媛県の場合、明治二〇年代に器械製糸マニュファクチュアから蒸気機関による機械製糸工場に発展した。また政商住友の別子銅山は明治一〇~二〇年代に機械化の道を歩んだ。さらに明治三〇年代初めに始まる今治綿ネルの産業革命がやがて宇摩地方の製紙業その他に波及して電力の普及と並行して進展した。こうして近代愛媛は、政治面に続いて産業経済面でも離陸をとげた。

 〈県政と政党〉

 明治後半の県政界は藤野政高と井上要を両軸にして、政友会県支部と愛媛進歩党の二大政党が国政選挙・県会議員選挙にその議席数を争い、日常の政治活動と論戦を通じて県政上での政党の存在を定着化し、その勢力を浸透拡大していった。愛媛県では明治三〇年四月一日から「郡制」、一〇月一日から「府県制」を施行した。「郡制」施行で従来の一八郡は一二郡に分合再編成され、野間・風早・和気・久米・下浮穴郡が消失し周布と桑村両郡は周桑郡になった。新しい郡役所は各郡に置かれたが、その位置をめぐって宇摩・周桑郡内で紛争が起こった。「府県制」では、府県会の議員を郡市会議員の互選による間接選挙としたが、明治三二年の「府県制」改正で市町村公民の直接選挙が復活したので、本県での間接選挙による県会議員選挙は明治三〇年一〇月実施の一回のみで終わった。
 明治三〇~三二年にかけて愛媛県知事は小牧昌業・室孝次郎・牧朴真・篠崎五郎・大庭寛一と五人の知事が頻繁に交代した。うち、室と牧は政党人知事であったが、室は七か月、牧は三か月の在任に過ぎなかった。大庭は帝国大学法科卒業という本県最初の学士知事であり、西条・宇和島中学校、松山・今治・宇和島高等女学校、農業学校、愛媛県師範学校女子部を新設するなど中等教育の振興をすすめた。
 明治三三年四月から同三七年一月までの三年九か月本県知事を務めた本部泰は、県下主要道路・河川・港湾施設を一挙に改修完成する目的での新土木事業計画、県立中等学校の増設、農事試験場など各種試験場開設といった土木・教育・勧業策を推進した。この三本柱は、戦後経営として国の勧奨に沿った施策であった。県会議員たちは選挙地盤に立脚して道路改修や県立学校設置など地域への利益誘導に熱心になった。このことは県財政の膨張をもたらし、県民の税負担を増大させた。

 〈日清・日露戦争〉

 明治後期に近代日本は二つの対外戦争を経験した。明治二七~二八年(一八九四~五)の日清戦争と同三七~三八年(一九〇四~五)の日露戦争である。この両戦争で清国に勝利し大国ロシアを破って、日本は国際的地位を高め、台湾・朝鮮を植民地とし満州にも進出した。我が国の産業界は産業革命を達成して資本主義社会へ飛躍的に発展した。その代償に、国民は日清戦争で一万七、〇〇〇人、日露戦争で一二万人の戦死者を出し、戦費と軍備拡大・戦後経営のため増税を課せられた。本県特に松山は両戦争に深いかかわりを持った。正岡子規は日清戦争に従軍して「陣中日記」を残し、桜井忠温と水野広徳は陸と海との戦争体験を基に『肉弾』と『此一戦』を著わし戦記文学の双璧とされた。秋山好古・真之兄弟は騎兵旅団長と連合艦隊先任参謀として日露戦争の勝利に貢献した。松山には清国ついでロシアの俘虜収容所が置かれ、〝俘虜景気〟が地域経済の活性化をもたらした。

 〈俳聖正岡子規〉

 正岡子規は、日清戦争取材の帰途喀血して松山に帰り、愛媛県尋常中学校の教師として赴任していた夏目漱石の下宿「愚陀仏庵」に同居して、郷里の人々に新俳句の指導をし、共に吟行して『散策集』を残した。明治文化を代表して後に〝俳聖〟〝文豪〟と讃えられる子規と漱石の松山での出会いは、愛媛の文化を象徴する出来事となった。子規は、その後『病牀六尺』を我が世界として、俳句・短歌・文章の革新に身を燃焼し尽くして三六歳の若さで病没した。伊予の文学的風土から育った写生文の提唱は自然への共感を表したものであり、郷党の指導と高浜虚子・河東碧梧桐ら後輩の育成は集いの精神を俳句の世界で見事に具現していた。