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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

1 地方自治制度の成立

 日本法学の開拓者穂積兄弟

明治憲法と諸法典が編さんされた時期に、愛媛県は二人の日本法学のパイオニアを出した。宇和島出身の穂積陳重・八束兄弟である。
 陳重と八束は安政二年(一八五五)と万延元年(一八六〇)に宇和島藩士穂積重樹の子として誕生した。穂積家は、祖父の重麿以来国学者の家柄であり、父は藩校明倫館で国学を講じ、晩年は家塾を開いて子弟を養成した。
 陳重は、明治三年一六歳のとき藩の貢進生に選ばれて大学南校に入学し、同七年には開成学校に進学して法律学を専修した。当時の級友には小村寿太郎・鳩山和夫・杉浦重剛らがいたが、陳重は常に首席を占めて他の追随を許さぬ秀才であった。同九年文部省の海外留学生に選ばれてイギリスに留学、ついでベルリン大学でドイツ法学を修めた。同一四年帰国すると、東京帝国大学に迎えられ、翌一五年教授兼法学部長に任ぜられた。以後学生を教育すること三〇年に及び、平易な講義とやさしい人柄が学生に慕われた。陳重は、「法律というものは専門家だけのものであってはならない。学問のあるものもないものも誰もが守ってゆくべきものだ。そのためにはやさしい用語と平易なことばで、みんなに解かるようにすべきものだ」と常々語っていたというが、『法律進化論』『法窓夜話』など数多くの著書は、平易な解明を旨としていた。同二三年貴族院議員に勅選、翌二四年の大津事件裁判では犯人死刑論の非を論じて同郷の大審院長児島惟謙を励ました。
 四歳年下の八束は、藩校明倫館に学び、明治六年上京して共立学校・外国語学校・大学予備門を経て東京帝国大学に入った。大学卒業後、文部省留学生としてドイツに渡り、ベルリン大学・ハイデルベルグ大学などで国法学を専修した。八東が五年間のドイツ留学を終わって帰国したときは帝国憲法発布の直前であった。彼は直ちに 「新憲法ノ法理及ビ憲法解釈ノ心得」という論文を発表して、旧国体を滅ぼさず法律的連携を保つことができるのは君主によって発布される〝欽定憲法〟だけであり、憲法発布後の日本は議院制君主国でなく立憲制君主国でなければならぬと説いた。彼の「国家主権八万世一系ノ皇位二在ル、之ヲ我千古ノ国体トス」との天皇主権論は終生変わらず、「国家統括ノ権カノ本位ハ民意二在リト謂フナラバ、是レ皇位主権ノ否認デアル」と民権論と真っ向うから対決した。明治憲法のアポロジスト(弁護者)といわれるゆえんである。
 東京帝国大学教授となった八束は、明治二二年フランス民法を模範としたボアソナードの民法草案を見て、「我国ハ祖先教ノ国ナリ、家制ノ郷ナリ、権カト法トハ家二生レタリ」に始まる「民法出デヽ忠孝亡ブ」の論文を書き家族国家論を展開して〝民法典論争〟を起こした。このため政府は民法施行を無期延期し、あらためて法典調査会を設けて穂積陳重を主査として根本的検討を命じた。改正民法はドイツ民法に範をとり日本古来の家族制度を取り入れたものとなり、明治二九年と同三一年に分割して施行された。八束は帝国大学で憲法講座を担当すること二〇余年、兄についで法学部長にもなり多くの学徒を育てた。円満で包容力のある陳重、謹直で学究的な八束と、兄弟の性格学風は対象的であったが、民法・憲法学の開拓者として日本法学界の形成期に残した足跡は大きかった。但し兄陳重の柔軟な学風が息子重遠に受け継がれ〝穂積民法〟として大成したのに対し、八束の学説は絶対主義天皇制のイデオロギーとして進歩的学徒の攻撃の対象となった。

 町村制の実施町村合併

明治二一年(一八八八)四月一七日、政府は「市制」「町村制」を公布した。すでに同一七年、戸長官
選と町村役場管轄区域の拡大で三新法体制は大幅に改められていた。この過渡的改革を経て立案された市制・町村制は、三年後の「府県制」「郡制」と一体をなす地方自治法規で、三新法の下での地方制度を大枠で継承しながらも、その実体を抜本的に変えようとするものであった。これを推進した内務卿山県有朋は、国家の基礎を強固にしようとすればまず町村自治の組織を樹立しなければならないと主張し、地主名望家中心の地方自治体制を早急に作りあげ、日本の支配構造の根底を安定させた後に、国会開設を迎えようとしたのである。市制・町村制の核心は制度のなかに自治制を注入しながら政府の完璧なまでの統制の下に置くことを狙った支配体制であった。その大綱は、町村を最下級区画として、郡市・府県という包括的な区画を上級の単位とする「三階級ノ自治体」で構成し、それぞれに「自主ノ権」を付与し、行政の事務を分担する義務を負わせて、政府監督下の独立法人とすることであった。この地方自治制度の実施は元老院や地方長官会議では、民度からする時期尚早論が強かったが、政府はそれを押し切った。
 本県は明治二二年一二月一五日から町村制を施行することにした。町村制は数個の町村を包括した地域を行政区域として設立することを前提としていたから、町村合併が強行された。合併の準備は早くから進められ、郡長が三〇〇戸以上を標準に従前の戸長役場管轄区域の継承を建て前として原案を練り、これを各町村の戸長・議長や名望家に諮問して意見を徴し調整のうえ県知事に上申した。県知事白根専一はこれをまとめて内務大臣に具申して認可を得、一一月一一日に新町村区域と名称を公表した。新町村数は一二
町二八四村で、明治一八年に一七四町九九七村あった町村は四分の一に減じた(表2-4)。町村名は旧町村名を組み合わせたものが多かったが、地形・地理や古い郷名などによったものもあった。北宇和郡愛治村・明治村などは数か村の合併で旧村名などを所用することが出来ないとして村民に公募した付名を付した。同郡の二名村は、この地にあった中世の岡本城にちなみ「岡本」を名乗るか都合一一か村の和合という意をもって「和土」と称するか戸長・総代の意見が分かれて結論が出なかったので、二つの名が候補に上がっただけの理由で「二名」村と称することにした(表2ー5)。
 町村合併は日常の生活圏を拡大する行政処分であったので、調整の段階で役場位置などをめぐって旧村間の利害がからみ不平不満がくすぶった。地区住民の抵抗や合併反対運動が表面化したところもある中で町村合併は強行されたが、無理な合併が摩擦を助長した。北宇和郡津島郷の各村、越智郡弓削村魚島、宇摩郡満崎村などで分村問題が起こり、明治二八年に津島村が岩松村と高近村、満崎村が天満村と蕪崎村にそれぞれ分離し、魚島が弓削村から独立した。
 岩松村と高近村の分村は、両村の中央に岩松川が貫流して公私の用務に不便であるのみならず職業・人心に差し違いがあって、彼我の人情和せず年ごとに調和を欠ぎ、常に円満な運行を妨げていたことが理由にあげられた。天満村と蕪崎村の分村嘆願書には、当初自治区を組織するのに必要な条件について精密な観察もせず皮相な考えにより単純に合併したが、今日に至り「軽挙事ヲ誤リタルヲ大イェ悔ユル所ナリ」とあった。弱小町村を組み合わせて人為的に国家の要求に沿った行政区域を作り出したことに対する住民の不満を垣間見ることができる。往古から自然に存在していた村々を適宜に分合することは容易なことではなかったのである。
 町村制施行に伴い、新町村では明治二三年一月四、五日に町村会議員選挙を実施した。選挙権・被選挙権がある者は公民と称せられ、満二五歳以上の一家を構える男子のうち地租・国税二円以上を納める住民であった。選挙は等級制が採用され、納税額の多少に応じて一級二級に振り分けられた有権者が半数ずつの議員を選んだ。議員定数は人口に応じて決められた。宇和島町は二四人、三津浜町は一八人、菊間町は一二人であった。議員の任期は六年で、三年ごとに半数を改選する定めであった。町村長は町村公民の中から選挙し、任期は四年で、名誉職を原則とするが、情況により条例を定めて有給とすることができるとされた。しかし報酬のない名誉職町村長は家事の都合を理由に辞退者が続出したので、有給制を採用するところが多かった。町村長は、町村民の和合、小学校の整備、里道の改修、耕地整理、植林事業、産業組合の設立、町村有財産の統一など職務多忙であった。町村長にはいきおい生活・時間に余裕のある豪商・地主階層の有力者が選ばれ、行政の支配者になった。町村制は、町村で名望と権威を持つ有力者を町村長・助役に選び、中小地主・商人の代表者を町村会議員にして、町村の支配体制を作ろうとしたのであった。それは、まさに寄生地主・地方資本家の形成と軌を一つにしていた。

 松山市制の施行

明治二二年(一八八九)一二月一五日松山市が本県最初の市として誕生した。この年には全国で三九の都市に市制が施行された。松山市は温泉郡の旧市街地一〇〇町に周辺の村々の一部を加えて構成され、戸数七、五一九戸、人口三万二、九一六人であった。市制では人口二万五、〇〇〇以上の市街地であることが標準であったから、松山市は十分な資格を持っていた。
 市制施行に伴い明治二三年一月四、五日に第一回の市会議員選挙が実施された。選挙民を納税額の多少に応じて三区分し、各等級から各々議員定数の三分の一を選挙させる等級選挙制であった。選挙の結果、一級から山本盛信(四九票)、仲田伝之じょう(四七票)ら、二級から堀内畔治郎(二三八票)、栗田卯三郎(二三五票)ら、三級から長屋忠明(六一九票)、小林信近(六一五票)、藤野政高(四〇三票)、井手正光(四〇〇票)、木村利武(三九六票)ら各等級一〇人、計三〇人の議員が選ばれた。山本・仲田らは実業家、堀内・栗田らは豪商であった。長屋・小林・藤野らは県政界での著名人であったが、多額納税者でなかったので三級で選ばれている。有権者は市民人口の三~四%であった。
 一月一八日に召集された松山市会は、議長に小林信近、議長代理に藤野政高を選んだ後、市長候補者を小林・土屋正蒙・木村利武の順位で推挙することにした。しかし開設したばかりの伊予鉄道の経営に従事していた小林と温泉郡長の地位にあった土屋が固辞したので、木村が最適任者であるとの意見を添えて内務大臣山県有朋に申請した。二月五日天皇の裁可が下りて、木村利武が初代松山市長に就任した。
 市役所は湊町四丁目円光寺に仮庁舎を設けて、四月一日から開庁した。当時の吏員は市書記六人、市属員二二人、使丁一〇人であった。市庁舎は明治二四年一二月になって、出淵町二丁目に新築落成した。松山市長には木村の後に白川福儀・浅野長道・長井政光が就任した。いずれも旧松山藩士族で県会・市会議員や郡長を務めた知識人であった。市長の任期は六年であったが、大正三年の改正で四年となった。木村・白川・浅野の市長在職は一期ずつ、長井は三期一四年におよんだ。その間、市会が三人の候補者を推薦し内務大臣が天皇に上奏裁可を請う市長の選任方法は大正一五年の市制改正まで変わらなかった。この推薦上奏裁可方式は市制施行時の市長官選・民選論の妥協策であり、その後大正デモクラシーの風潮の中で市長公選の要望が高まるが、政府は郡長公選・府県知事民選への波及を恐れてこれを長く改めなかった。
 市役所が開庁した明治二三年度の一般会計は一万二、七六九円、歳入の六四%は市税であった。市の財源は市民の負担に依存する面が大きかったといえよう。歳出は役所費・教育費・土木費・勧業費・衛生費などで構成された。このうち教育費は明治二三年時で全体の四二%を占め、小学校経営のための教育費が市財政の大きな重荷になっていたことがうかがわれる。

 白根・勝間田・小牧県政と県道改修事業

藤村紫朗が辞職した後、明治二一年二月二九日内務大書記官の白根専一が本県知事に就圧した。白根は山口県士族で慶応義塾に学んだのち明治一二年以来内務省の役職を歴任、内務大臣山県有朋の四天王と称せられ、市制・町村制などの草案に従事した。山県から町村制実施直前の地方の事情を実際に見て来いと言われて本県に赴任したというが、「海南新聞」三月三日付は「内務省より赴任せらるゝ白根知事なれば我が地方に益することも多からん歟」とこのエリート官僚に期待した。
 白根知事は、藤村県政の秕政といわれた師範学校敷地紛争を解決し、批判を受けた同校建築費の内訳を県会で公表して協力を求めた。また讃岐国分離・香川県再置前後の事務分割・引継ぎの職責を果たし、市制・町村制施行に伴う町村合併の陣頭指揮をして、同二二年一二月二六日愛知県知事に転出した。ほどなく内務省次官になり、同二八年には伊藤博文内閣の逓信大臣に抜擢された。
 白根専一の履歴は愛媛県の歴代知事中秀逸であり、後世新聞などでの知事論では「本県歴代の知事の内誰が一番地方官として県治をよくし人物がしつかりしていたかと云ふと先づ指を白根知事に屈しなければならない」としている。四〇歳の若い白根知事は少しも威張らず、友達のような柔らかい感じのする人であったと当時の県官手島正誼などが述懐しているように、独断的であった藤村時代に比べ県庁内の空気が随分明るくなったという。いわば現場見習いの形で赴任した白根は、香川分県・町村合併のかたわら、市ノ川アンチモニー鉱山を藤田組の手から離して地元に返し、赤十字事業を広めて愛媛支部の結成を促すなどの県政を遂行して本県を去った。
 白根知事との交代人事で本県知事には勝間田稔が愛知県知事から転出した。山口県士族で、明治一二年以来同一八年愛知県令に就任するまで内務省に勤務した官僚であった。本県に赴任当時四八歳、郷里・職場ともに白根の先輩であるが、愛媛県ののち宮城・新潟の県知事を歴任、同三三年休職になった。勝間田は、前任地愛知県では民業の振興に努力を傾け、道路拡張を図ったり新田の開発を積極的に推進するなどの事績を挙げたが、施策の急ぎ過ぎが県民の反感をあおって転出を余儀なくされたといわれていた。これを反省してか、本県知事在任四年余は専ら着実主義を貫ぎ英断をもって起業に着手することはなく、円満な知事としての印象を残した。
 前知事から引き継いだ重要案件は四国新道の完成であったが、これとは別に県内主要県道大改修事業を起こそうとした。それは、松山―来見(通称「桜三里」)、松山-八幡浜(犬寄峠・泉峠・夜昼峠など)、大洲-宇和島(鳥坂峠・法華津峠・高串越など)の県道改修を六八万余円の費用で、明治二六年度より七か年継続事業として施行しようとするものであった。この事業は、すでに白根知事が計画、県会でもその測量費を認めていた。明治二四年九月臨時県会を開いて勝間田知事がその提案理由の説明に立ち、今回の改修事業は本県の一大工事であって多額の費用を要するため県民の負担も大きく、四国新道の開さくが終わらないうちにこの事業を進めることは世論あるいは「疑懼ノ念」を持つであろう、しかし交通運輸の便を興し経済の富源を培養して各人の幸福を増進することになりこれを姑息に付し去ることはできないと弁舌を振って、議員の了解を求めた。議場ではこれの是か非かの論議が交々起こり、改修延期と推進の二派に分裂して紛糾した。延期論者は、四国新道が完工しない状況のままで一大継続土木事業を開始するのは民力に堪えないと主張すれば、推進論者は運輸交通の発達は県下の富を増すうえで不可欠であり、土木工事は生産的な消費に属するものであると反論した。採決の結果、改修・延期が相半ばしたため議長小林信近の裁断で改修延期と決定した。県知事も議会の議決を認め、この結果、勝間田がその施政中最大の熱意をもって推進しようとした県道改修の大事業は先送りされた。
 勝間田の施政中に政府の命令で本県の農事調査が行われ、明治二四年四月「愛媛県農事概要」としてまとめられた。この農事概要はこの時期の農業事情を知る基本資料となっているが、知事はこの結果を利用して農事奨励に力を入れ県下各地で農事集談会・米穀品評会などを開き、同二五年には県農会の前身である一市六郡農会の設置を促しその会長に推されて就任した。
 明治二七年一月二〇日、勝間田稔が宮城県知事に転出した後、小牧昌業が本県知事に就任した。小牧は鹿児島県士族で、開拓使・太政官・文部省書記官を歴任して内閣総理大臣書記官長になり、同二二年一二月奈良県知事を拝命、続いて本県知事に任ぜられた。
 赴任早々、小牧が取り組まねばならなかった問題は、明治二六年一〇月本県を襲った未曽有の大風水害の復旧工事であった。同二七年二月知事は臨時県会を召集して総額七〇万余円の水害復旧土木費を計上し、その支弁には税の増徴と国庫補助金を充てたが、増税は極力抑える必要があるとして初の県債を発行した。
 日清戦争後、政府は軍備拡張と内政充実を目標とする戦後経営を打ち出し、特に内政面では、経済の発達と民産の増殖を図るため勧業・教育と金融機関・交通機関の発達などに重点を置く方針をとった。本県でも、小牧知事が県内主要道路・河川の改修のための一〇か年継続土木事業計画を策定、同二九年七月の臨時県会に総工費六三万円余の審議を求めた。その内容は、勝間田知事の時代の国県道改修計画をほぼ再生したもので、新たに県道阿波街道・卯之町街道・城辺街道を加えたほか、蒼社・中山・大明神の三河川の治水事業を入れていた。議会は、継続事業を六か年に短縮して早期完工を期待し、さらに重信川架橋などの工事追加を要求したから、当初の事業費は七六万円に増額された。小牧は明治三〇年四月貴族院議員に勅選されて本県知事を辞した。

 府県制・郡制の施行

愛媛県は、明治三〇年(一八九七)四月一日に「郡制」、同年一〇月一日に「府県制」を施行した。府県制・郡制は明治二三年(一八九〇)五月に公布されていたが、施行の時期は府県知事の具申により内務大臣がこれを定めるとされた。
 府県制の施行は郡制施行が前提となっていたが、法律制定当時の郡は小規模なものが多く、区域も錯雑していたので、これをそのままにして郡制を実施することはできなかった。そこで政府は、小郡のうち独立自治の力がないものはこれを合併、地形・民情において共同一致の目途のないもので独立に堪え得る場合はこれを分割することにして、それらの事情の調査具申を府県に命じた。このため両法の施行は順次遅れ、郡制は明治二四年に青森県以下一一県、府県制は長野県以下一〇県のいずれも郡の分合を必要としない府県に施行されるにとどまった。その後、郡制は同二七年に一県、二九年に一一県、三〇年には愛媛県など一三県、三一年には一府二県に施行された。府県制は同二五年に一県、二九年に五県、三〇年に愛媛県など一四県、三一年には七県で施行された。しかし大阪府は郡制を実施したにとどまり、東京・京都の二府と神奈川・岡山・広島・香川の四県は府県制・郡制ともに同三二年の全文改正まで施行されなかった。
 本県には、明治二九年四月一八日法律第八七号で「愛媛県下郡廃置法律」が公布され、従来の一八郡は宇摩・新居・周桑・越智・温泉・上浮穴・伊予・喜多・西宇和・東宇和・北宇和・南宇和の一二郡に分合再編成された。旧下浮穴郡に属した村々は温泉郡と伊予郡に分割され、伊予郡の垣生村・余土村も温泉郡に移管された。新郡の設定に伴い郡役所の位置が告示されたが、川之江村から三島村へ移転した宇摩郡役所、福岡村(現丹原町)に新設された周桑郡役所については、郡内で激しい反対運動が起こった。
 郡制によると、郡長が郡の行政を執行し、府県知事と内務大臣が監督した。議決機関である郡会は、郡内町村会において選挙した議員及び大地主が互選した議員で組織された。大地主とは、郡内で町村税の賦課を受ける所有地の地価が合計一万円以上を有する者をいい、町村選出議員定数の三分の一に相当する議員数を互選した。郡会は、大地主・豪農層の利益を代弁する機関という性格を強く持っていた。議員資格は、町村会の選挙権を有する者及び大地主中選挙権を有する者で、町村選出議員は任期六年で三年ごとに半数改選、大地主議員は任期三年であった。郡会の議決すべき事件は、郡歳入歳出と関係案件の審議や決算報告の認定などであった。郡会のほか、副議決機関として郡参事会があり、郡長及び郡会の代表者である名誉職参事会員をもって組織された。郡には課税権がなかったので、郡の支出に充てる費用は郡有財産などの収入の外は郡内各町村に分賦した。
 郡制施行後半年遅れて本県で施行された府県制の内容は次のようであった。府県会の議員は各郡市の間接選挙で選ばれ、市町村会議員の選挙権を有し直接国税一〇円以上を納める者を被選挙権資格要件とした。任期は四年で二年ごとの半数改選であった。府県会は毎年一回秋季の通常会と臨時会とがあり、府県の歳入出予算・決算、府県税の賦課徴収方法、府県有財産・営造物の管理維持方法などを議決事項とし、ほかに官庁の諮問に応じた意見陳述や府県知事・内務大臣への建議が認められていた。臨時急施を要する場合に府県会に代わり議決する機関が府県参事会で、府県知事と高等官二人及び名誉職参事会員四人で組織され、府県会に付議する前の予算審査権なども有していた。府県の執行機関の長は国の行政官である府県知事であり、その職務は「地方官官制」で定められた。府県知事は内務大臣の監督を受けながら、府県会・府県参事会に対し再議・取消・原案執行・専決処分などの強大な権限を持っていた。
 府県制施行に伴う県会議員選挙は明治三〇年一〇月一五日に県内各郡市で実施されたが、郡市会の互選にょる間接選挙であったので、従来の直接選挙とは様相を異にしていた。松山市は市公会堂で選挙会を開き、市会議員三一人が投票、藤野政高(自由党)が一四票を集め、山本盛信(愛媛同志会)一三票を僅か一票差で破り当選した。喜多郡では郡会議員二七人中二六人が出席して県会議員三人を選び、井上要が二
〇票、有友正親が一九票、近田綾次郎が一八票で当選した。喜多郡のような複数定員区では議員数に対応した連記式がとられたので、郡会を構成する議員の党派状況で県会党派の勢力が決定した。喜多郡の当選者は三人とも進歩党系愛媛同志会に所属しており、ほかに宇摩・新居・越智・喜多・東宇和で同派が議席を独占、自由党は周桑・伊予・北宇和で議席を専有するに留まった。この結果、これまで少数党であった愛媛同志会が二一議席を確保して一三議席の自由党を圧倒した。
 このように府県会議員は郡市会議員が、郡会議員は町村会議員が互選する複選制(間接選挙)が採用されると、政党間の勝敗は一に市町村議員の選挙の結果に係ることになり、党争が市町村行政にまで波及した。これは山県有朋ら地方自治立案者の予期しなかったことであり、「党争ノ弊」を除くため明治三二年山県内閣は「府県制」「郡制」を全面改正して府県会・郡会議員の複選制と郡会での大地主議員を廃止した。これにより、府県会と郡会議員は、直接国税年額三円を納める市町村公民の直接選挙で選ばれ、四年ごとに総改選されることになった。これとともに、今回の改正では府県の法人性を明確にしてその統轄代表者としての知事の権限地位を強化した。日清戦争後の戦後経営として、土木・教育・勧業などの分野で急速に増加してきた府県委任事務を的確に処理できる強力な府県行政機構の整備が必要であったのである。しかし各地方議会議員の選挙における「党争ノ弊」を除去することはできず、地方政治への政党勢力の浸透は時代の流れであった。

表2-4 町村合併前後の町村数

表2-4 町村合併前後の町村数


表2-5 明治22年の町村合併による新町村名の例

表2-5 明治22年の町村合併による新町村名の例