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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

2 経済の活況

 地場産業の躍進

 自然の変化に富み気候条件がよい愛媛県は、近世以前からその風土に根づいた多種多様な産物に恵まれ、海辺の浦々では塩・干鰯・鰹節、山里の村々では茶・和紙・木蝋、平野部の農村では綿布・砂糖などの特産品が生産された。また地域によっては磁器・瓦・漆器・竹細工なども生産した。近世中期以降、伊予の諸藩は藩財源の確保と領民の生活安定を図る必要から、これらの生産を農・漁家の副業として保護奨励する一方、専売を実施して生産や販売上の統制を加えることが多かった。
 明治期に入ってそれまでの保護・統制が解かれると、県下の特産品産地では、マニュファクチュア・機械・蒸気機関などを導入して近代化を図るものがみられ、古くから一定地域に密着して発展してきたいわゆる地場産業に新しい動きが始まった。この新しい動きは明治後期~大正期にも常に更改されて本県の地場産業は大きく躍進し、各産業界では進取の気に満ちた指導者が活躍した。喜多郡の大洲半紙、周桑郡の奉書紙、東宇和郡の泉貨紙など伝統的な和紙生産が停滞したのに対し、郡内の一部で自給自足的生産にとどまっていた宇摩郡の和紙生産は、薦田篤平・篠原朔太郎らの努力で近代化され、川之江町・三島町一帯に広がって新しい産地を形成した。伊予木綿として大阪市場で好評であった今治地方の白木綿が泉州地方(大阪府南部)の製品に押されて衰退の兆候をみせると、今治の矢野七三郎はマニュファクチュアによる伊予綿ネルの製造を始め、紀州ネルに対抗した。その後、今治では白木綿から綿ネルに切り替える綿業家が増え、綿ネル業を営んでいた阿部平助はタオル生産を創始し、麓常三郎は改良織機を考案してその生産効率と品質を向上させた。こうして今治地方の綿業は明治後期には近代的地場産業に脱皮した。
 このほか松山市や温泉郡の伊予絣、伊予郡の砥部焼、上浮穴郡や東宇和郡の製茶、喜多郡の木蝋、西宇和郡や北宇和郡の伊予縞など伝統的な産業界でも、それぞれ中興の功労者が出て原料や製法の改良、販路の開拓などを行って、日清・日露戦争期に生産を増大させた。この間、県は農・工・商・水産の諸産業の育成と振興を図る課や係を設置し、特に地場産業だけを対象とするのではなく、県内諸産業を平等に発展させる勧業施策を実施した。明治三〇年代には、県立農事試験場・同水産試験場・同工業試験場を設置し、地方特産品の生産向上をも目指して講習会や実地指導をした。こうした中で、明治初期以来士族授産の中心となった養蚕及び製糸業は、国や県当局の保護育成策もあって明治後期に急成長した。主産地は、喜多・東宇和・西宇和・北宇和の四郡で、各郡の郡立農業学校では養蚕科を併設して技術者を養成、喜多郡では製糸業が木蝋生産に代わる主要産業となった。中世以来「塩の荘園」として有名な弓削島をもつ本県の製塩業は、新居郡・越智郡・温泉郡が中心であった。新居郡の多喜浜塩田、越智郡の波止浜塩田などでは新たな採塩技術が開発されて活況を呈したが、明治三八年「塩専売法」が施行されたため、西宇和・北宇和・温泉・伊予各郡の中小塩田は明治四四年までに整理された。
 日露戦争後、一時わが国の輸出が減少して産業が停滞したが、大正三年(一九一四)勃発の第一次世界大戦を契機に産業界は躍進した。本県の諸産業はこの時期、設備の拡大や電力エネルギーの導入を図り、大正八年には同元年に比べて蚕糸業で約七倍、綿織物業では約六倍、他の工業界でも四~五倍の生産増を記録した。県の産業振興策も積極化し、県歳出総額に占める産業振興費の割合は明治後期から少しずつ増えていたが、大正期には平均一二・一%となった。こうした中で、県は大正七年から八年にかけて県下で詳細な産業調査を行い、その後の産業政策の充実を期す一方、同八年四月には県物産陳列場や道後公園で第二回愛媛県重要物産共進会を開催した。共進会には県下各地の特産品が出品され、北宇和郡立間村(現吉田町)の温州みかん、上浮穴郡弘形村(現美川村)の緑茶、東宇和郡宇和町の生糸、南宇和郡西外海村(現西海町)の鰹節、その他砥部焼・綿織物・和紙・缶詰などの生産者に「名誉金牌」賞が送られた。

 電力事業の進展

通信用の発電を除くと、我が国の電力事業は明治二一年(一八八八)大都市の富裕者を対象にした電灯用電力供給事業に始まり、その電力は都市近郊の火力発電所から需要家へ送られていた。明治中期以降、産業革命が進展すると、電力は蒸気力に替わって工業生産の原動力となり、第一次世界大戦勃発に伴う産業界の躍進期には、中産都市民への電灯普及も加わって、その需要は飛躍的に伸びた。需要の増大に応じて大規模な水力発電と高圧送電の新技術が開発され、大正四年(一九一五)三月には福島県猪苗代~東京間二二五キロメートルに高圧送電線が敷設されて、電力供給範囲が拡大した。これは当時としては世界第三位の長距離送電線であった。
 明治二〇年代、愛媛県の電力事業は、別子銅山関連の電力事業を除いて、まだ調査と計画の段階にあり、本県と他県の実業家とが水利権や営業権をめぐって競合し、本県知事がその調停に当たることもあった。明治三〇年代は本県の電力事業形成期であった。日本の電気王といわれ京都市に電車を走らせた才賀藤吉が、仲田銀行頭取仲田伝之じょう、伊予鉄道㈱の創設者小林信近らと伊予水力電気㈱(伊予水電)を設立し、石手川上流の温泉郡湯山村(現松山市)に日本で二番目の水力発電所を設げた。同社は同三六年一月から電灯用電力、同年三月からは動力用電力の供給事業を始めた。本県で電力事業が始まったころ、電力の先進府県は既に火力発電から水力発電への移行期に入っていた。このため伊予水電の発電設備は水力発電業界の先駆的なものとなり、当時、内国勧業博覧会に出品された同社の発電機模型は、「水から火のでる機械」として評判となった。
 日露戦争後から大正初期にかけて、県下でもタングステン電球の普及と工業用動力の需要増加がみられ、電力事業は発展期に入った。この時期、県下各地の資産家が、今治電気㈱・宇和水電㈱・東予水力電気㈱・南予水力電気㈱・川上水力発電所など大小様々な会社を創設し、蒼社川・肱川・石手川・銅山川・僧都川などの上流で発電を行い、他県に比してほぼ半分の価格で電力を供給した。本県より先に電力事業を始めていた四国の他の三県では、石炭を燃料とする小出力の火力発電が主流であったため、電気料金は本県の約二倍であった。このような状況のもと、明治四〇年に一、八二四戸であった県下の電灯用電力利用家数は大正四年には三万八、六七七戸に激増し、動力用電力利用所数も紡績や織物業界を中心に急増して、同じく五二か所から三一四か所となった。松山・今治・宇和島など県下の都市部では街灯がともされ、宇和島街灯合資会社のように街灯設置と点火及び修理を専門とする会社が出現した。松山では、小林信近が電力のみを動力源とする伊予電力織布㈱を明治四一年に創設して注目された。
 電力需要が急増する中で、西条水力電気㈱(明治四〇年開業許可を申請)、松山瓦斯㈱(同四五年開業)、今治瓦斯㈱(大正二年開業)のように、新たにエネルギー業界に参入する会社が出現した。既存の会社は水力発電所や火力発電所を増設して需要増に対処したが、同一河川での水利権や隣接する会社との営業境界をめぐる紛争が生じた。こうした会社の経営陣は県会議員などを兼ねている者が多く、それぞれの会社は進歩派系・政友会系に大別されたから、会社間の紛争を一段と激しくした。西条水力電気㈱は開業申請書を出したものの営業範囲の問題で今治電気㈱と対立し、開業に漕ぎつけることができないまま、県知事伊沢多喜男や高須峯造の調停で、両社は明治四四年一〇月に合併して愛媛水力電気㈱となった。伊予水電と石手川上流の水利権を争い、県知事安藤謙介の裁可を得て発電と電車輸送事業を行った松山電気軌道㈱は、明治四五年以降伊予鉄道と激烈な乗客争奪競争を展開する一方、余剰電力の販売をめぐって伊予水電と対立した。
 すでに政府は、会社間の紛争多発、さらには国民生活や産業の発展に不可欠となり、公益性が増してきた電力事業に対応するため、明治四四年一〇月に「電気事業法」を施行していた。これにより、電力行政は保護育成を基本にしはじめ、本県では大正元年一二月三日「水力使用取締規則」を公布して水力発電事業の円滑化を図り、電力事業の進展を期した。特に電力会社の中には、過当競争や第一次世界大戦後の不況によりその経営が不安定となるものがあり、同五年(一九一六)一二月、伊予水電は伊予鉄道㈱と合併して伊予鉄道電気㈱(伊予鉄電)となった。当時、愛媛県は小規模電力事業の経営を排し、電力事業界の統一を進めて発電計画、電力相互流用、料金などの面で合理化を図る方針であったため、前述の松山電気軌道㈱は、数次の話し合いの後、大正一〇年四月三井物産、松山市の各銀行主、県関係者の斡旋で伊予鉄電と合併した。本県の鉄道及び電力事業の中心となった伊予鉄電は、その後も東予地方最大の愛媛水力電気㈱、南予地方最大の宇和水電㈱、また他県の実業家に買収譲渡されていた宇摩郡の燧洋電気㈱(もと東予水力電気㈱)など県下すべての電力会社を、県知事や県政財界人の斡旋により昭和三年六月までに買収または吸収合併していった。
 この間、電気技術の革新はめざましく、明治三六年建設の伊予水電湯山発電所の出力は二六〇キロワットであったのに対し、大正一二年竣工の伊予鉄電第二黒川発電所(上浮穴郡柳谷村)の出力は四、〇〇〇キロワットとなっていた。この電力は改良を加えられた変圧器で三万ボトルに上げられて松山市の藤原変
電所に送られ、減圧して需要家に供給された。こうして、昭和初期、伊予鉄電によってほぼ県下全域に電力が普及し、それは産業界の近代化を促進するとともに県民生活に新たな文明の光を与えた。

 新興実業家「成金」の出現

第一次世界大戦による好景気で、実業界にはブームに乗じて巨富を得る者も現れた。「成金」と呼ばれた人々であり、本県出身の山下亀三郎・勝田銀次郎は船成金として有名であった。成金とは、将棋の歩が敵陣地に乗り込むと「金」に「成」るところから生まれた言葉で、一手まちがえば「歩」になる宿命が待っていた。
 山下亀三郎は、慶応三年(一八六七)北宇和郡河内村(現吉田町)に生まれ、一六歳で宇和島の南予中学校を中退して郷里を出奔した。商店員を経て明治三〇年山下石炭商会を作ったが、このころから海運に関心を持ち始め、同三六年喜佐方丸を所有して四四年山下汽船合名会社を設立した。山下の船舶経営は、日露戦後の落ち込み、第一次大戦勃発による浮上と、彼の自伝名『沈みつ浮きつ』通りの曲折を続けた。七転八起の実業人生から得た海運市況に対する読みの深さと情報入手の早さは〝ハヤ亀〟と呼ばれ、的確な情報を基に大きな手を打って出るところから〝ヤマ亀〟ともあだ名された。山下五〇歳の大正六年五月山下汽船㈱を設立したころには、所有船舶四〇隻、総トン数にして一二万四、〇〇〇トンに達していた。人々から成金・ドロ亀などと言われながらも我が国海運界に一地歩を築き上げた山下亀三郎は、昭和一九年七七歳でこの世を去った。親交のあった徳富蘇峰は、山下の自伝序文で、「君の一生の結論から言えば、一、公益を本位とした。一、事業を本位とした。一、自力を本位とした。以上三点は君をして今日あらしめたゆえんと認む」と評したが、郷里に山下実科高等女学校(吉田町)、第二山下実科高等女学校(三瓶町)を設立するなど、利益を公共・育英面に還元した。
 山下亀三郎と共に船成金の代表者とされる勝田銀次郎は、明治六年(一八七三)一〇月松山市の米穀商に生まれ、松山中学校・東京英和学校に学んだ後、阪神の貿易店に就職、やがて船舶仲介業を始め、大正六年には資本金一、〇〇〇万円の勝田汽船㈱にまで成長した。海運ブームの中で、勝田は船舶の新造、中古船の買収、傭船に全力を投じて巨利を得た。ブームが終わって恐慌が到来すると、海運業から政界に方向を変え、大正七年貴族院議員、昭和五年衆議院議員、同八年神戸市長に就任して、転身の妙を示した。
 この時期、関西財界で活躍した本県出身の実業家に今西林三郎・新田長次郎・菊池恭三らがいる。今西は北宇和郡国遠村(現広見町)出身で、大坂で回漕店を開業、明治一五年大阪同盟汽船取扱会社を興し、ついで大阪商船設立に尽力した。やがて石炭商で巨富を築き大阪興業銀行を創立、三一年阪神電鉄を設立して同社の基礎を築き、山陽鉄道・大阪三品取引所・大阪ガス会社などの創設にもかかわり、大正一〇年大阪商工会議所会頭になった。同四年には郷里から推されて衆議院議員に選ばれた。
 新田長次郎は温泉郡山西村(現松山市)で生まれ、二〇歳のとき大阪に出て商店雇から実業家としての道を歩み始めた。製革所に勤めた後二九歳の年に独立して新田製革会社を興し、やがてこの業界におけるトップ企業にまで発展させた。松山市長加藤恒忠に依頼されて松山高等商業学校(現松山商科大学)創設資金全部を寄付したことはよく知られている。
 菊池恭三は西宇和郡川上村(現八幡浜市)出身で、工部大学校を卒業、海軍横須賀造船所・大阪造幣局の技師を経てマンチェスター大学に留学した。帰国後、平野紡績の支配人兼工務長となり、大正五年大日紡績連合会委員長に就任した。彼は会社の経理にも強く、大正一三年第三十四銀行頭取に推され、昭和八年には第三十四・山口・鴻池の三大銀行の合併を実現して三和銀行の基を築いた。
 このほか、日本陶器会社創立の実業家村井保固は、郷里吉田町に幼稚園を設け町立病院設立を援助するなど育英・社会事業に尽した。この時代の実業家は、「成金」と呼ばれた人々も含めて自己の努力で築いた富を教育・社会事業に投じ、公益に貢献した慈善家が多かった。

 米騒動

米騒動は、大正七年(一九一八)七月二三日、米価の騰貴に苦しむ富山県魚津町の漁民の女房連中が県外移出米の積み込み拒否に端を発し、集団となって米商人・町村役場に対して米価引き下げ、困窮者救済を要求した。この事件が新聞などで伝えられると、八月一〇日~一五日の間に全国主要都市に、さらに八月中旬以降には農村・地方都市に波及し、全国的な暴動と化した。愛媛県下でも、八月一四日の伊予郡郡中町の暴動をはじめ、約半か月にわたり各地に米騒動が起こった。
 米騒動の直接の引き金となったのは米価の暴騰であった。米麦の不作に加えてシベリア出兵による米穀の政府買い入れを見越しての米商の買い占めと売り惜しみで松山でも米の小売値が騰貴、八月四日に一升四〇銭であったのが、一週間後の一〇日には五〇銭に上るという狂騰振りであった。生活難は県民各層に及び、また他県の米騒動の影響を受けて越智郡今治町など県下各地で不穏な動きが現われはじめた。県警察では非番巡査を召集して夜間警備体制を強化する一方、八月一三日若林知事は緊急告諭を発して、米の貯蔵は十分であり政府は現在その分配方法を検討中であるので、危惧の念を抱くことなく「宜シク平静ノ態度ヲ持シ苟クモ常道ヲ逸スルカ如キ行為ナキヲ期スヘシ」と県民に呼びかけた。
 ところが皮肉にもこの告諭が発せられた翌一四日夜、米騒動が伊予郡郡中町で勃発した。暴動の中心となったのは漁民で、平素暴利を貪っていると評判されていた米穀商を攻撃の対象とした。郡中署では応援の派遣を求め、県警察部長大森吉五郎は保安課長以下二八人の警官を引き連れて現地に急行し、鎮圧・検挙に当たった。
 翌一五日、松山市では、市役所の玄関前で市内の富豪から寄附米五石余の廉売を行ったほか、緊急臨時市会を開催して外米公設市場設置の議案を可決するなどの対応を講じたが、時機を失しこの夕刻松山市にも米騒動が発生した。松山市東南郊にある温泉郡素鵞村の米穀商に押し入った群衆は、米一升二〇銭の廉売の貼紙をさせた後、市街に入り米の廉売を叫んで小唐人町・湊町・末広町などの米商・商店を襲撃した。大森警察部長は部下を率いて郡中から急ぎ帰松し、松山署で鎮圧・検挙を指揮した。騒動はわずか三時間で終息したが、様々の風説が乱れ飛んで物情騒然たるものがあり、警察当局は松山署・巡査教習所の署員・生徒に加え、西条・角野・丹原・内子・卯之町・久万の六警察署署員計一二○人を松山市に集め、厳戒体制をしいた。また松山歩兵22連隊に交渉して一六日午後には武装した三個中隊を市内街路で示威行進させ、人心の鎮静化を図った。
 松山の騒動から一週間後の八月二二日に北宇和郡宇和島町で米騒動が勃発した。この日の夕刻、鶴島埋立地に集まった約三〇〇人の群衆のうち半数が町内の一一軒の米商を次々に襲った。さらに道々の醤油・酒店などを威嚇して、廉売を強要、承諾させた。残りの一隊は、町に隣接した北宇和郡八幡村藤江にある鈴木商店経営の日本酒類醸造会社を襲撃し、一部の暴徒が放火した。火の手が上ったのを見て、先の一隊や雷同する群衆が加わり、事務所・倉庫を破壊、放火を続け、警察・消防組も手をつけられないままに同会社の建物二〇棟及び在庫品を焼き尽くす結果となった。翌二三日午前八時急報によって大森県警察部長以下三七人の警官が駆けつけたころには群衆は解散状態となっていたが、依然として不穏な動きもあり、警察側は総員一一〇人を三隊に分けて町内に配置して警備に当たった。日本酒類醸造会社が焼打ちされた原因につき、大阪朝日新聞は神戸の鈴木商店が同社を強圧的に買収したので地方民の憤怨が爆発したのだと報じた。鈴木商店の買収を斡旋した山下亀三郎は、山村豊次郎ら宇和島関係者の依頼で鈴木に仲介したのであり、無理に鈴木が買ったのではないと反ばく、「今回のような不幸に遭って誠に鈴木に気の毒で、あんな事をしては地方の為に大いに不利益である」(「愛媛新聞」大正七・九・三付)と語っている。
 騒動参加者の検挙・取り調べの結果、郡中関係では五一人、松山関係では三一人、宇和島関係では六一人の者が起訴された。以上のように暴動化したのは三件であったが、それに近い騒擾が県下各地で見られた。
 米騒動は全国三六市・一二九町・一四六村で起こり参加人員七〇万人といわれ、その後の社会運動の勃興に大きな影響を与えたと評価されているが、当時の知識人にも大きな衝撃を与えた。本県の農学者岡田温は、『米騒動観』と題する手記で、騒動の真の煽動者は貧民の心理を刺激した新聞にあるとして、物価の高さに苦しむ暴民に同情の念を示しながらも、「米の生産者たる百姓は麦を常食とし野菜・漬物・醤油実等を副食として居る者なり、されば全食糧の不足して高価なれハ真に同情すへきも、贅沢(最良の食糧たる米)の要求を満足せんがための暴挙は同情すへきにあらす、況んや強盗化せるに於てをや」との所感を記述している。

表2-9 大正初年の愛媛県特産品の概況

表2-9 大正初年の愛媛県特産品の概況