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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

3 政治・社会運動の展開と対応

 地方改良運動から民力涵養運動へ

明治末期から大正時代には、商品経済の浸透や地主・小作関係の対立から生ずる農村動揺の対策として、節倹勤労・風紀改善・親睦協和の気風を興こし上下一致の団結を鼓舞する地方改良運動が展開された。
 この改良運動は具体的には、表彰・模範例の収集、地方改良講習会という形ですすめられた。愛媛県は、明治四一年九月「市町村並二市町村吏員功績表彰規程」を定め、同四二年六月元温泉郡余土村長森恒太郎、周桑郡中川村長越智茂登太、越智郡桜井村長曽我部右吉ら一三人を知事表彰した。ついで同四三年二月温泉郡正岡村(現北条市)が団体の部で内務大臣表彰を受けた。同村は、施政、村民風紀、時間の励行、貯金組合の奨励、作法講習、巡回講話、尚歯会・婦人会・青年会・村農会の活動、耕地整理、道路改修、教育、納税成績の事例が顕著であるとして表彰の対象となった。
 本県は、地方改良運動の全国的な展開に対応して明治四五年七月新しい「市町村治績並二地方改良功労者表彰規程」を定め、市町村の模範例と地方改良功労者の顕彰を積極的に進めた。その結果、大正二年北宇和郡喜佐方村など六か村と功労者二人、同三年喜多郡新谷村など六か村と功労者三人が選ばれるなど、毎年市町村治績並びに功労者の表彰が行われてその事績と功労内容が模範例として印刷配布され、各市町村はそれに倣うよう勧奨された。その内容は、納税成績の優良、村風の改善、教育の進歩、民育施設の充実、共同組合活動などによる農業の改良、自治会の育成などであり、特に納税の完納が最重要視された。
 こうした模範例の収集と表彰で、地方改良運動は、「勤倹奮励」「協同一致」して各町村に「克ク自治ノ改良」を求めた。しかし、第一次世界大戦後不況の風が吹きまくり町村の経済が年々落ち込み、農民運動が勃興して地主小作人の対立が顕著になる中で、表彰に値する地方改良の模範町村も次第に少なくなり、この運動の限界が見えてきて、より強い指導が望まれるようになった。
 大正八年三月、内務大臣は国体の精華、自治の発達、日新の修養、相互諧和、生活安定の五大要綱を示して民力涵養運動を提唱した。愛媛県は、六月に郡市町村の関係者を招集して民力涵養に関する協議会を開催、五大要綱に基づく実行要目を示してその工夫実行方を期待した。同一〇年二月県がまとめた市町村の実行事項は、国体の精華(国体及び神徳講演会の開催、国旗掲揚、神社の清掃、神棚・祖先の礼拝など)、自治の発達(町村報の発行、町村是の確立、掲示板の利用、納税組合の設置など)、日新の修養(講話会の開催、通俗文庫の発達、補習教育の振興など)、相互諧和(戸主会・婦人会の設置発展、細民部落の改善、貧困児童の救助、互助会の組織化など)、生活の安定(会合時間の厳守、各種宴会の自粛と饗応の廃止、共同貯金組合による貯金励行、産業組合の普及発達など)であった。これを見ると、民力涵養運動は地方改良運動を拡大画一化して、大衆の国家観念の養成と自治精神の陶冶を図る国民運動として推し進めようとしたものであったといえよう。本県では、大正一一年(一九二二)一一月の皇太子殿下行啓を好機として民力涵養に関する施設経営を計画実行させた。大半の町村は、記念植林、各種貯金の実施、産業組合・納税組合の設置と拡充、読書文庫の設置充実、道路修繕、補習教育の普及、敬老会の結成などを行った。
 大正二一年(一九二三)一一月「国民精神作興二関スル詔書」が発布されると、民力涵養運動は思想の善導と消費節約生活改善の実行が二大目標となった。同一三年二月から勤倹週間が全国一斉に開始され、翌一四年は二月、六月、九月、一一月に四度の強調週間がもたれた。本県では、週間中、時間尊重、早起励行、禁酒禁煙、虚礼廃止、予算生活の実行などが督励された。こうして民力涵養運動はデモクラシーの諸潮流がかもしだす社会情勢と対抗して、民衆を動員していく官製の国民運動として地域に根を下し定着していった。この運動は、昭和恐慌後、公私経済緊縮運動ついで農山漁村経済更生運動に様変わりし、戦時下の教化動員運動と結びついて国民精神総動員運動に発展していくことになる。
県内政党の系列化
明治時代末期の県政界は、明治三四年(一九〇一)に発足した政友会愛媛支部と同三六年(一九〇三)に結成された愛媛進歩党に二分されていた。政友会愛媛支部は、桂園時代における政友会の勢力を背景に党本部・県当局とのパイプによる地方利益誘致集団として、主として地主層に支持基盤を伸ばし、明治四〇年九月の県会議員選挙で絶対多数を獲得した。愛媛進歩党は中央政界での国民党につながりながらその支部を名乗らず、政友派の本部との系列化促進を批判して地方政社の独立性を誇示していた。安藤県政による大土木事業計画をめぐっての論戦は、両派の立場・政略の違いを際立たせた。安藤知事休職後、伊沢知事による政友会幹部の三津浜築港疑獄事件の摘発と土木事業の縮小は、明治四四年九月の県会議員選挙で進歩派に勝利をもたらした。
 この県議選による議会勢力の逆転は進歩派の権力指向を促した。進歩派は、伊沢知事とこれに続く深町知事の与党として正副議長・県参事会員を独占して県政に協力、同時に高須峯造ら幹部は中央政界の動きに敏感に対応して桂首相が推進した新党立憲同志会に同調し、大正四年一月その愛媛支部を結成して進歩派の大部分がこれに加わった。村松恒一郎ら進歩派の一部は同年七月に国民党愛媛支部を結成した。こうして、地方政社としての立場を堅持してきた愛媛進歩党は分裂・解体し、政友派に続いて非政友派の中央政党-地方政党の系列化が進んだ。
 愛媛支部三派は、県会での勢力措抗する政友会と立憲同志会-憲政会の対立を軸に国民党が両派にからみ、中央本部の意向や内閣の動きを反映しながら県政に対応した。伯仲県会は、原内閣の下での大正八年(一九一九)九月の県会議員定期改選で政友派がかろうじて過半数を制し、同一二年九月の選挙で絶対多数を確保して解消した。しかし大正一三年の政友会分裂-政友本党結成に伴い、本県でも成田栄信ら政友会脱党三代議士と小野寅吉ら一〇県議を中心に政友本党愛媛支部が結成され、県政界は再び混迷を深めた。県会は三派鼎立の状態になったが、大正一三年県会を前に憲政会・政友本党の両派が愛媛県政倶楽部を組織して連携を図り、多数を制そうとした。これに対し政友派は政友本党切り崩しを図り、県会の勢力関係は時々に変化して、予断を許さぬ事態が大正末年まで続いた。
 地方政派の中央政党への系列化に伴って衆議院議員の候補者にも変化が生じてきた。日露戦争後の衆議院議員選挙は、中央で活躍する実業家・官僚・新聞人・弁護士らが故郷に選挙区を求め帰省立候補する傾向が強まった。藤野政高・井上要・清水隆徳ら地方政界の領袖が退いて、加藤恒忠・高山長幸・武内作平・押川方義ら著名人が代議士に推され、河上哲太ら当時無名の新人を本部の指示で推挙する場合もあった。国政選挙と地方選挙との格差が出来、県会議員経験者が国会に進出する機会が少なくなったことから、地方有力者が議席を競った県会議員の地位は相対的に低下した。しかし、普通選挙の実施で選挙民が増大すると、地盤と知名度を持つ県会議員経験者の当選率が高くなり、議席獲得にしのぎを削る政友会・民政党ともに地方支部の推す候補者を優先公認した。清家吉次郎・村上紋四郎・武知勇記・小野寅吉ら県会で活躍した人々は次々と国会に進出していった。これに伴い、国会議員への野心を持ちそのステップとして県会議員に名乗りをあげ地盤づくりに励む地方政治家が現れるようになった。

 護憲・普選運動高須峰造

大正元年(一九一二)一二月、陸軍二個師団増設問題で西園寺内閣が倒れて第三次桂内閣が成立すると、尾崎行雄・犬養毅らが〝閥族打破・憲政擁護〟を叫ぶ護憲運動を起こし、新聞を通じて全国に喧伝された。ところが、本県の「海南新聞」・「愛媛新報」はこれにあまり関心を示さず、大洲や宇和島での憲政擁護大会を報道するにとどまった。県政界では、高須峯造ら愛媛進歩党主流がこの運動に対抗して生まれた桂新党-立憲同志会に賛同してその支部を結成した。
 慶応義塾出身で元来理想主義者の高須峯造は、真に民意にそう政党内閣を組織して世論を実行したいとこの時期立憲同志会に期待した。すでに同志会は、三月の衆議院議員選挙で大隅重信内閣の与党の立場を利し飛躍的な伸びをみせて政友会を破り第一党の地位を確保していたが、大隅内閣は軍部の圧力で二個師団増設を認め、第一次世界大戦に参戦して中国に対しいわゆる二一か条要求を押しつけるなどの外交に追われ、民意にかなった憲政擁護と普通選挙を具体化する政策はどこにも見当たらなかった。そのうえ、内相大浦兼武の選挙干渉と収賄問題で大隅内閣は動揺しやがて総辞職した。代わって成立した寺内正毅内閣に対し立憲同志会は野党の立場をとり、中正会などと合同して憲政会と改称した。大正六年一月、憲政会が国民党と共に寺内内閣不信任案を提出すると寺内首相は議会を解散し、総選挙に先だち地方長官の更迭を断行した。本県知事に就任した若林賚蔵は、帰省した大蔵大臣勝田主計と計って選挙干渉を行った。「知事が総選挙には総指揮官として乗り出して政府反対党の当選妨害をやったので、憲政会は手も足も出ぬ有様となった」と高須が述懐しているように、前回四人を国会に送った憲政会は押川方義一人が当選したのみの惨敗をこうむった。
 軍備拡張とシベリア出兵など大陸政策に終始して物価対策を怠った寺内内閣は、米騒動で示された民衆のエネルギーに圧倒されて瓦解、大正七年平民宰相原敬による最初の本格的政党内閣が成立した。国民は原内閣に普通選挙の実行を期待したが、原は有権者の納税資格を一〇円から三円に引き下げて、これを党勢拡張に利用しようとした。高須は、「頭脳明敏で果断性に富み、清濁併せ呑む抱容力を有し、剛腹であって所信に猛進するところ是れ皆彼の長所」と政治家としての原敬を称讃しながらも、「私の直視した原敬は極端な現実主義の人物で、政治は力なりとする信仰者であった。」「原内閣は平民内閣であったが、その政策は平民内閣らしいものではなかった。政党内閣でもなかった。則ち与論を尊重し、民意を容れるといふが如きは少しもないのみならず却て之を圧迫するの有様であった」と評した。
 若くして自由民権運動に参加して以来、政党内閣の実現を期した高須峰造であったが、ただ政権の争奪のみを展開する政党の現実に夢破れ、大正七年の還暦を機に政党との絶縁を決心し、苦心経営の衝に当たった憲政会機関紙の愛媛新報社長の椅子を捨て、三五年間の弁護士業も廃業して、政治的・社会的地位を自ら投げ棄てた。「一介の市民」に戻った高須は、大正八年秋に森肇・夏井保四郎・大関信一郎・近藤鑑・岩泉泰らと愛媛県普通選挙期成同盟会を結成して普選運動にまい進した。同会の発会式を兼ねて開かれた大正九年一月一一日の普選促進演説会には、普選運動の先頭に立ち〝普選博士〟と称せられた今井嘉幸(周桑郡小松町出身)が出席、「普選がモノになるか何うかは民衆の気勢が挙がるか何うかと云ふ点である。侍むべきは民衆運動より外にない」と県民に期待した。普選期成同盟会は、二月二一日にも労働団体と共催で普選促進大会を開き、「普通選挙の実行は今や挙国一致の要求にして国運民命の繋る所極めて重大なれば、速に法案通過に御尽力あらんことを切望す」との決議文を可決して、これを総理大臣・貴衆両院議長・本県選出代議士に打電した。同夜、普選大会参加者一〇〇余人が「普通選挙促進」「デモクラシー」の大提灯を先頭に街頭デモを行って気勢をあげた。
 普選運動が全国的に盛りあがる中で、大正九年二月、原内閣は憲政会・国民党の提出した普通選挙法案審議中の衆議院を解散した。選挙に当たり、「普選組が何事をしようぞ」と政友会・憲政会両支部から嘲笑されていた高須らは、前回の選挙当選後憲政会を離れて普選運動に理解を示していた押川方義(無所属)を推挙し、松山で最初の街頭演説を行うなど専ら言論戦の理想選挙を展開、大方の予想をくつがえして押川を当選させた。「海南新聞」五月一二日付は、「意外も意外!!遂に押川氏当選の栄を担ふ、言論戦に狂奔した甲斐ありて乎」の大見出しで、「市内至る処で萬歳を高唱して歓喜に熱狂してゐた」と普選派の喜びを報じた。しかし本県の選挙結果は当選者九人中六人が政友会所属で、全国的にも政友会が圧勝した。
 大正一三年一月枢密院副議長清浦奎吾が内閣を組閣し、本県出身の勝田主計が再び大蔵大臣に起用された。政友会・憲政会・革新倶楽部の三党はこの内閣に反対して護憲三派を形成した。政友会の一派はこれを不満として脱党、政友本党を結成して清浦内閣唯一の与党になった。本県でも三代議士と一〇人の県会議員が新党に加わった。政友会分裂後の混とんとした情勢の中で、六月に行われた総選挙には定員九人に対し二四人の候補者が乱立して激しい選挙戦を展開した。この選挙には、政治的関心に目覚めた青年・学生が理想選挙を標榜して選挙運動に参加、無党派農学者の岡田温を当選に導いた。大正デモクラシーの風潮の下、第一次護憲運動・普選運動などを通じてはぐくまれた国民の政治的関心と意識の向上は、第二次護憲運動を盛り上げて護憲三派を勝利させ、普通選挙実現と政党内閣継続の原動力となった。
 高須峰造は、普通選挙の実現を目指し民衆の覚醒を促すために「四国毎日新聞」を発行したりしたが、この選挙に〝政界廓清・普選即行〟を掲げて実業同志会から立候補、落選した。以後、高須は「政治研究会」を主宰して社会・労働運動に関心を示し、松山高等学校生徒の同盟休校・倉敷紡績松山工場争議などを支援し、昭和三年三月の普選法に基づく初の総選挙では労働農民党候補小岩井浄の応援に老体をいとわずかけ回った。同年夏、七〇歳の古稀を迎えた峰造は、ひっそりと松山を離れ神戸の長男のもとに旅立った。
 高須峰造は、大正デモクラシーを理想主義の信念で体現して見せた先覚者であった。水野広徳は、その伝記を著述するに当たり、「時代に容れられざるは先覚者の持つ誇りである。彼れ老ひて轗軻不遇、終にさすらひの異郷に逝く。時に年七十七。生きて思想に老ひず。死して後世に生く。敢て〝古稀の新人〟と呼ぶ」と評して、その表題を『古稀新人高須峰造先生』とした。

 小作争議と社会運動の展開

明治政府は地租改正事業を進める必要から農民に土地所有権を認めたが、地主・小作関係の改革は行わず、農村では半封建的土地所有形態が残存し、それは昭和二一年の農地改革まで続いた。小作人が地主に対して小作条件の維持・改善を要求して組織的な運動を行うようになったのは明治三〇年代以降であり、明治末期から大正初期にかけては、米穀検査実施に伴う小作人の負担増加を問題とした小作争議が増加した。第一次世界大戦勃をによる経済変動は農村社会に打撃を与え、地主と小作人の格差を拡大したばかりでなく、戦後は米価と繭価暴落によって、中小地主の中にもその所有地を手放して小作人化する者が目立った。労働界では、労資協調主義的性格をもっていた友愛会がロシア革命や米騒動の影響を受けて急進化し、大正一〇年には日本労働総同盟と改称して全国の労働争議を指導した。大正デモクラシーの潮流は婦人運動や部落解放運動にも波及し、この時期、新婦人協会や全国水平社が結成され、また日本社会主義同盟や日本共産党などの社会主義運動も進展した。このような状況下、寄生地主制の下で苦しんでいた小作人による争議も頻発し、大正一一年(一九二二)四月賀川豊彦らの指導下に日本農民組合が結成され、全国各地の小作争議を指導するようになった。
 本県最初の組織化された小作争議は、大正三年に起こった宇摩郡関川村(現土居町)の争議である。これは小作料の増額を求めた不在地主に対し、同村の小作人七〇人が小作地返還という手段で対抗したものであった。大正四年一〇月県は「米穀検査規則」を施行して産米改良を進めたが、この年県下に三件の小作争議が起こった。新居郡では約五〇〇人の地主と約四、五〇〇人の小作人が、産米改良に要する手間料として支給される奨励米の多寡をめぐって争い、両者の対立は続いた。これらの争議は解決するまでに二~三年の歳月を要したが、その調停には村内有志・町村長・郡長が当たることが多く、県当局も地主と小作人とが意思疎通を図って融和し、地主は産米改良によって受ける利益を適切に配分することを期待した。
 米穀検査実施に伴う争議の後、愛媛県下の小作争議は一時鎮静し、小作人組合の結成も他府県に比して少なかった。しかし周桑郡小松町の林田哲雄が大正一一年京都で開かれた社会問題講習会に出席して、日本農民組合(日農)の杉山元治郎の講演を聞いたのが契機となり、その年本県でも農民組合結成の気運が盛り上がった。同一三年九月、日農香川県連合会の指導と林田らの奔走で周桑郡壬生川町(現東予市)に本県初の農民組合である日農香川県連壬生川支部が誕生、同年一一月北宇和郡明治村(現松野町)に目黒支部も結成された。その後も組織の拡大が図られ小作争議が頻発するなか、同一五年四月日農愛媛県連合会が結成されて、県下の農民組合がここに結集した。一方、北宇和郡日吉村では井谷正吉が「新しい村」の運動を起こして革新的な農村文化運動を行っていたが、後に日農の運動に参加した。日農は結成以来、小作人組合の統一、小作人の地位向上、小作料永久減免を目標に運動を進めていたが、運動方針をめぐる内部対立と地主の攻勢及び政府の取締りにより、大正一五年以後分裂と統合を繰り返した。
 県下の小作人組合結成・小作争議の年度別推移は表2‐10に示したが、争議の頻発にっれて地主組合の結成が相次ぎ、大正一三年には「小作人ノ横暴二対抗スル」目的の地主組合が結成され、識者の間では階級的対立の深まりが憂慮された。こうした状況下、政府は大正一〇年一一月農商務省内に小作制度調査委員会を設置して小作慣行調査をまとめ、翌年の争議激増を機に同一二年五月には小作制度改善・自作農維持方策を講じる小作制度調査会を設置、同一三年七月には「小作調停法」を公布した。この法の施行に伴い各府県に小作官が設置され、本県にも大正一四年地方警視藤井伝三郎が小作官として赴任し、争議の調査と和解に力を発揮した。ただ小作調停法は小作人の団結や団体交渉を許さず、農民組合を調停に関与させなかったから、地主の優位性を保障するものとなった。この間、温泉郡余土村・桑原村(現松山市)など明治期以来地主・小作間の融和が保たれていた村々では、小作農の自作農化を促進して農村社会の安定を図ろうとする協調組合が結成されていた。米騒動の後、デモクラシーを求める民衆運動の過激化を防止し、種々の融和策をとっていた県や警察当局は、小作争議の未然防止策として昭和二年以降小作人組合や地主組合の解散を奨励し、協調組合の結成を指導した。
 農民運動のほか、大正~昭和初期、本県でも水平社愛媛県本部(大正一二年四月結成)、別子労働組合(同一三年一〇月結成)、今治労働組合・松山合同労働組合などが組織され、労働者と小作農が一体となって労働条件の改善を求める運動を展開した。特に大正一四年一二月から翌年二月までの別子労働争議には、日本労働総同盟が乗り出して大規模化し、多くの解雇者と組合脱退者を出した後、県知事香坂昌康の調停で争議は終止した。
 政府はこうした労働運動や社会運動の高揚に対応して〝アメとムチ〟の政策をとり、大正一四年四月「治安維持法」、同年五月「普通選挙法」を公布した。また貧困者や失業者の救済策にも力を入れるとともに、思想善導などの社会教化政策を推進、この時期、全国に方面委員(民生委員の前身)や府県単位の社会事業協会の活動を促して民生の安定に努めた。なお「治安維持法」による処罰範囲は昭和三年に拡大されて刑罰に死刑が加えられ、反体制運動の抑圧が強化された。またこの年、特別高等警察(特高)制度も拡充され、本県は同年七月警察部内に従来の高等警察課に加えて特別高等課を設置し、思想統制、労働運動・農民運動・社会運動の取締り、新聞及び出版物の取締りなどを強化した。

 社会事業の開始

我が国で、いわゆる社会的弱者に対する公的救済制度が体系化したのは、大正七年(一九一八)の米騒動以後である。明治七年(一八七四)以来、政府は「恤救規則」などを布達して窮民救済方法を講じていたが、それはまだ慈恵的・制限扶助的なものであった。日清・日露の二つの戦争を経て資本主義が成長し、経済や社会が急速に近代化すると、時代の波に乗り切れず生活に窮乏する者も多く出現した。
 大正六年八月、政府は内務省地方局に救護課を新設して、社会問題化してきた生活困窮者の救護に乗り出し、翌七年六月には勅令をもって救済事業調査会を設置した。調査会は官民二〇人の委員で構成され、生活状態改良、窮民救済、児童保護、救済的衛生、教化、労働保護、小農保護、救済事業の助成及び監督など、多角的視野から社会救済事業の体系化に取り組んだ。その後、政府は、米騒動を機に高まった社会運動に対応するとともに民力涵養運動を推進させるため、大正八年二一月に救護課を社会課と改称、翌九年八月には同課を地方局から独立昇格させて内務省社会局を設置した。こうして、社会局や救済事業調査会(大正一五年より社会事業調査会と改称)を中心に、救貧行政に加え防貧という新たな福祉理念をもった社会事業行政を展開した。また明治四一年、全国の民間慈善事業団体連絡機関として創立した中央慈善協会は、大正一〇年に中央社会事業協会と改称し、内務省社会局と協調しながら社会事業の進展に尽力した。
 大正一〇年(一九二一)四月、愛媛県は内務部に社会課を新設した。これは、第一次世界大戦以来本県でも顕著になった「思想界ノ激変」や「頻々トシテ台頭」してきた社会問題に対応するものであった。同課は、それまで内務部庶務課や同学務課などに分散していた感化、賑恤救済、行旅病人及び同死亡人、軍事救護、民力涵養、地方改良、男女青年団体、免囚保護などに関する事項のほか、失業者保護、職業紹介、住宅及び公設市場、幼児保育、妊産婦保護、生活改善、思想善導など、米騒動以降、社会事業の中心的分野となった事項を担当した。
 社会的弱者を救済することは、大正初期まで政治の中心課題とはならず、それは、村落共同体の相互扶助、皇室や民間篤志家あるいは宗教家による慈善救済に頼ることが多かった。このため国・県ともに一般会計歳出総額に占める救貧事業費率は低く、大正元年から同九年までの本県のそれは〇・一~〇・二%であり、社会課設置以後その率は上昇したが、それでも〇・四~〇・八%であった。ただ、当時は特別会計中の罹災救助・慈恵救済・賑恤・軍人遺家族廃兵救護などの基金から実情に即して必要額を支出したから、実際の社会事業関係費は一般会計における社会事業関係費の七~八倍に達していた。
 米騒動を機に、細民問題の解決を図ろうとする社会問題研究会・愛媛救済事業同盟会・松山臨時救済会など多くの団体が結成された。これらの団体の中には、米価のほかに住宅、失業、部落改善、民力涵養などの問題を採り上げるものもあった。愛媛救済事業同盟会には、明治期以来本県の細民救済に尽くしてきた松山同情館の大本新次郎、愛媛慈恵会の本城徹心、私立松山夜学校の西村清雄らが参画した。大正一一年三月、同会の事業を継承する形で、愛媛県社会事業協会が発足しその事務所を県社会課内に置いた。同協会の設立発起人には、本城徹心・西村清雄のほか日本赤十字社愛媛支部・愛媛保護場・県立自彊学園・私立愛媛盲唖学校・愛国婦人会愛媛支部・県社会課の各代表者が名を連ねたが、大本新次郎は発起人に加わらなかった。県知事宮崎通之助を総裁とする同協会の目的は、県内各社会事業団体の連絡調整を図りながら、社会事業と思想善導など社会教化事業の発展を期すことにあった。
 本県は、大正一三年三月より方面委員制度を開始し、今日の民生委員に当たる方面委員を松山市・今治市・宇和島市に置いた。この年二九人だった委員数は、その後徐々に増え、昭和五年度には三市一七町村に一五八人の委員を委嘱した。この間、方面委員設置の市町村は方面委員後援団体の結成に努め、互福会・助成会・共済会などの名称で後援団体を組織した。方面委員はそれぞれの受け持ち区域で、住民の生活情況を調査し生活改善や生活安定の方法を講じ、県社会事業協会や各種社会事業団体と連絡をとりあって生活困窮者の救護に努めた。県下の方面委員大会もほぼ毎年開催され、困窮者の自活力を回復させる救貧事業のあり方、社会の連帯意識に立脚した防貧事業のあり方などについて討議・研究した。
 こうしたなかで、大正一一年(一九二二)以降、喜多郡大洲町(現大洲市)・松山市・今治市・宇和島市・八幡浜町・三津浜町が職業紹介所を開設して失業者保護に当たり、県はこれらに毎年補助金を出してその事業を助成した。児童保護事業も進展し、大正一一年より開始した「児童愛護デー」を期して、県社会課や県社会事業協会はその啓発活動を行うとともに、県下で乳幼児審査会を開催した。また、宇和島済美婦人会・今治市キリスト教婦人会・川之石町婦人会などは常設の託児所を設置して勤労婦人の乳幼児を保育した。農作業や蚕の世話で農家が忙しくなる時だけ臨時に設置した季節託児所も、大正一〇年以降は活況を呈した。各町村役場・農会・婦人会・小学校などが一体となる季節託児所事業は、県当局の勧奨もあってその数が増え、昭和二年度は八八か所、同八年度は二五九か所で延ベ一万四、五〇〇余人を受託した。この間、授産事業も活発化した。特に昭和二年一〇月、中平常太郎ら宇和島市の方面委員が中心になって宇和島市民共済会を結成したが、同会授産場に通う要救護者が製作した和霊団扇や宇和島人形などの授産品は台湾でも販売された。また、昭和三年以降、県下の市町村の中には国庫や県費の補助を得て公益質屋を設置するものが増え、低所得者への低利金融の道を開いた。
 なお、政府は昭和七年一月より従来の「恤救規則」に代わる「救護法」を施行して、公的扶助の範囲を拡大したが、同法は救護を必要とする者にその請求権を認めなかった。

表2-10 愛媛県下の小作人組合結成・小作争議発生等の推移

表2-10 愛媛県下の小作人組合結成・小作争議発生等の推移