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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

4 戦時下の県政

 国民精神総動員運動の展開

昭和一二年(一九三七)七月七日、大場鑑次郎勇退の後、古川静夫が本県知事に就任した。古川は、鹿児島県の士族の家に生まれ、大正三年東京帝国大学在学中に文官高等試験に合格、同四年静岡県警部になり、同県の郡長・理事官を経て、熊本県・兵庫県理事官、京都府学務部長、栃木県警察部長、福岡県学務部長を歴任、進んで警視庁保安部長・官房主事・警務部長などを経て、昭和六年神奈川県内務部長、同九年一一月佐賀県知事に就任して二年八か月在任した。
 古川が本県に任命された七月七日は日中戦争のきっかけとなった蘆溝橋事件勃発の日であり、七月二一日に開かれた市町村長会で知事は非常の時局に対処する努力を切望した。同年八月、近衛内閣は「国民精神総動員実施要綱」を閣議決定した。国民精神総動員運動は、戦時意識を高揚しようとする精神教化運動であり、国民を自発的に戦時体制に動員しようとするものであった。一〇月には精動運動の推進母体として国民精神総動員中央連盟が結成され、銃後援護団体など多くの民間団体がこれに加盟した。道府県単位の精動実行委員会は中央連盟の設置に先がけて結成され、本県でも九月二五日に精動愛媛県実行委員会が発足した。一〇月一日、古川知事は「国民精神総動員運動ノ告諭」を発して、日本精神の発揚、和親協同と心身の鍛錬、銃後の護りの強化持続、非常時経済政策への協力、資源の愛護を求めた。
 同一二年一〇月一三日から一週間、「戊申詔書」渙発を記念して第一回国民精神総動員強調週間が実施された。神社の参拝、戊申詔書奉読式、出征家族の慰問、労力扶助、慰問袋の募集、日の丸弁当持参などが全国の県庁・市町村役場の主催で展開された。翌一三年二月一一日の紀元節を期して実施された第二回強調週間では、県当局は「国民精神総動員実施要項」を示して、町内会・部落会を通じ時局認識を深め、銃後後援の強化持続、勤労報国・消費節約と貯蓄の奨励に努めるよう促した。
 この年七月には、各分野の代表者を集めた時局懇談会が設けられ、精動運動・貯蓄運動・戦時経済統制などの諸問題について意見開陳を求めた。以後、本県では、精動中央連盟の指示と時局懇談会の意見を参考に、銃後後援強化週間、国民精神作興週間、日本精神発揚週間、百億貯蓄強調週間などを設定して、国民精神総動員運動の運用と実行に努めた。
 昭和一四年(一九三五)七月一五日、古川静夫が結核予防会理事長に転じた後の本県知事には、持永義夫が就任した。持永は宮崎県に生まれ、京都帝国大学法科を卒業後、広島県事務官、内務省社会局の福利・保護・庶務の各課長を歴任して厚生省書記官、傷兵保護院の業務局長を務めていた。
 国民精神総動員運動は、この時期一層の推進が図られた。昭和一四年六月には「愛媛県国民総動員新運動方策」が定められ、時局認識、非常時生活の徹底、銃後後援を目標にした実施要項を示し、毎月一回県民総動員日を設けることにした。九月一日から毎月一日の「興亜奉公日」が設定されると、県民総動員日は興亜奉公日と改称された。同一五年六月一日県庁に国民精神総動員県本部が置かれ、精動に関する重要事項の企画と精動本部及び地方各種団体の連絡に当たることになった。この年は、皇紀二六〇〇年にあたり、二月一一日の紀元節に詔書が出された。同月一五日持永知事は、「此ノ時局二際シ、我等臣民深ク 聖諭ヲ心底二刻ミ肇国創業ノ理想ヲ新ニシ、億兆一心各々其ノ業務二精励シテ時艱ノ克服二邁進シ、以テ臣民輔賛ノ大義ヲ具現セサルベカラズ」と訓令した。皇紀二六〇〇年の記念事業として、県は造林事業と勤王神社の創建を計画した。また昭和一五年一〇月に竣工した県護国神社で大規模な慰霊祭・武運長久祈願祭が挙行された。市町村でも、様々な記念事業・式典が催された。
 昭和一五年七月二四日持永知事は厚生省労働局長に転じた。古川前知事は二年間、持永知事は一年間、本県の県政を担当したに過ぎなかった。「海南新聞」七月二五日付は、「地方官の異動が国家の大局に立って行ぱれるとすれば止むを得ないが、地方のために良吏であれば四、五年は止まつて貰ひたいものである」と論評した。古川・持永県政の時期には、県立中等学校の増設が進められ、私立北予中学校などの県立移管や北宇和農業学校・新居浜工業学校・吉田工業学校が新設された。また時局下工業生産の重要性に伴う技術指導者養成機関として昭和一四年五月に官立新居浜高等工業学校が設立され、翌一五年弓削商船学校が官立に移管された。

 産業報国会の結成

 戦争が長期化の様相を呈するのに伴い、産業界では「産業報国」・「労資一体」の理念のもとに産業報国運動が推進された。昭和一三年七月、その中心組織として産業報国連盟が結成された。同連盟は、昭和一五年、いわゆる近衛新体制の下で大日本産業報国会が結成されたのを受けて、これに吸収された。
 愛媛県内においても、既に昭和一三年八月ころより、警察署の指導のもとに産業報国運動が始められた。翌一四年四月、県は、厚生省・内務省の指示で、産業報国会結成への本格的な指導に乗り出し、各企業で報国会の結成が進められた。その結果、昭和一五年四月、産業報国会三五五、会員五万七、〇〇〇余人が参加して、愛媛県産業報国連合会が結成された。同連合会は、中央で大日本産業報国会が結成されると、昭和一六年一月、その下部組織として愛媛県産業報国会と改称された。同年一一月における県内産業報国会は四七七、会員は七万二、八五九人であった。
 また、政府は、昭和一七年九月、日雇い労働者の組織化を図り、各府県ごとに労務報国会を設立することを命じた。これへの愛媛県の対応は早く、同年一一月、住友各社の下請関係業者と労働者によって新居浜地方労務報国会が結成された。これは、労務報国会として全国最初の組織であった。以後も県の指導のもとに、県内各地で労務報国会の結成が進められた。
 一方、徴兵の強化、軍需産業の活発化により労働力不足が深刻化してきた。そのため、政府は、昭和一四年、「国民職業能力申告令」・「国民徴用令」を制定し、これに対処しようとした。愛媛県では、同年八月、大陸での建築技術者として、最初の徴用が行われた。昭和一八年七月時の県内登録者は、技能者六万一、九五三人、未経験労務者七万五、八〇九人、当時までの徴用命令数七一件、徴用人員一万〇、八四八人であった。
 さらに、政府は、労働力不足に対処して、昭和一六年一一月、「国民勤労報国協力令」を制定し、男子一四~四〇歳、未婚女子一四~二五歳の者に、勤労報国隊による勤労奉仕を義務付けた。愛媛県においても、昭和一六年ころから各種組織による勤労奉仕活動が活発化したが、県は、昭和一八年(一九四三)九月、「愛媛県勤労報国隊整備要綱」を制定し、さらにその充実を図った。これら勤労動員の対象は、食糧増産、造林、木炭増産、軍人遺家族援助、鉄工業増産など多分野に及んだが、その主な動員先は、農村、新居浜の住友各社、別子銅山、北九州地方の炭坑であった。

 経済統制

 日中戦争から太平洋戦争へと戦争が長期化する中で、国民生活の上には網の目のような統制が張りめぐらされていった。それは、欠乏する物資を戦争遂行のためにいかに活用するかを基本方針とするもので、軍需優先・民需抑制の原則に貫かれたものであった。
 日中戦争勃発直後の昭和一二年九月、政府は、「輸出入品等臨時措置法」以下のいわゆる統制三法を制定した。さらに、翌一三年四月、国家総力戦体制の実現を目指す「国家総動員法」が制定され、国民の経済活動・日常生活のすべてが政府の統制下におかれるようになった。
 中央におけるこのような統制強化の動きに対応して、県では、昭和一三年(一九三八)七月、戦時経済統制の中心組織として「愛媛県戦時経済統制即応部」を設置し、物資の統制及び物価騰貴抑制の任にあたらせた。県当局として、本格的な統制への第一歩を踏み出したもので、以後、諸物資に対する政府の統制が強化されるのに伴って、愛媛県においても、それに対応した取り組みが進められていった。
 諸物資の中で最も早く、かつ厳しい統制が加えられたのは綿製品であった。本県は、松山地方の伊予絣、今治地方の綿織物、タオルなど全国有数の綿織物生産地であり、日常生活のみならず、県内の経済活動の面からもその統制が及ぼした影響は深刻であった。
 政府は、昭和一三年三月、「綿糸配給統制規則」を公布、次いで六月、「綿製品ノ製造制限二関スル件」以下の綿製品非常管理措置を打ち出した。後者は、国内向一般消費を対象とする綿織物製造を一切禁止することを内容とした。
 こうして、代表的地場産業である県内綿織物業は存続の危機を迎えたが、伊予絣については、商工省と県当局との交渉の結果、特免織物として存続が認められることになった。しかし、特免綿糸の配給量はその後漸減して、企業整備も進められる中で、業界には転廃業が相次ぐようになった。今治を中心とする綿織物、タオル業界では、生産を輸出向け、軍需向けに転換することにより、この難局打開を目指した。しかし、戦局の悪化とともに輸出は減少してゆき、今治綿織物業も衰退の一途をたどっていった。
 石油は戦争に直結する重要物資であり、厳しい統制が加えられた。まず、昭和一二年一〇月に第一次消費規制がしかれ、次いで翌一三年三月、「揮発油及重油販売取締規則」により第二次消費規制が開始された。この第二次規制は、業者に購買券(切符)による販売を義務づけるもので、県では、同規則の施行細則を制定して、購買券交付の申請、その取り扱いなどについて具体的に規定した。
 一方、政府は、昭和一四年九月、「石油配給統制規則」を定め、石油の総合的・計画的配給統制を進めた。この結果、中央に一元的配給機構として石油共販㈱が設立され、そこから各府県ごとの地方卸売会社へ、地方卸売会社から小売業者に石油を供給するルートが定められた。県では、翌一五年三月、消費規制・配給統制に関する知事の諮問機関として愛媛県石油委員会を設けるとともに、石油共販から一元的に石油の供給を受ける機関として愛媛県石油販売㈱を設立した。そして、県内を三島・新居浜・今治・松山・郡中・長浜・八幡浜・宇和島・深浦の九地区に分け、それぞれに共同販売組合を組織させた。こうして、商工省の指示のもとに一か月の割当量を石油共販から供給された愛媛県石油販売が、石油委員会の審議及び知事の承認を得て各地区共同販売組合に割り当て、共同販売組合から購買券によって消費者に配給されるという組織ができあがった。
 また、消費規制も年とともに強められていった。特に、ガソリンの大口消費者である自動車業界に対しては、営業の改善、代用燃料の使用の両面から消費抑制が指導された。営業の改善策としては、バス・運送会社の統合、バスの路線整理や運行回数削減などが実施された。代用燃料は、木炭自動車への改造で、県では、自動車所有台数による規模に応じて改造すべき割合を定め、強制的に転換を命令した。
 各種物資への統制強化に伴う物価の値上りを抑え、その安定を図ることは、戦時経済体制を支えていくための最重要課題であった。
 政府は、昭和一二年七月から、六大都市を含む全国二四都市を対象に労働者生計費調査を実施した。二四都市の一つであった今治市の生計費指数は、一二年七月を一〇〇として、一三年四月が一〇九・四、同年一〇月には一一四・九を示し、一か月につき約一%の上昇となっていた。軍事費の支出増大によるインフレーションの傾向が早くも現われてきたといえる。こうした状況に対し、政府は、昭和一三年四月、中央・地方の物価委員会を発足させ、本格的な物価統制に乗り出した。愛媛県の第一回地方物価委員会は一三年七月に開催され、物価抑制のための対策が協議されるとともに、繊維製品、化学工業製品、ゴム製品、皮革製品について、本県最初の公定価格が定められた。同委員会は、以後も順次開かれ、公定価格は他分野の品物にも及ぶようになっていった。
 このような物価統制にもかかわらず、物価騰貴は続いた。日本銀行松山支店調査によると、昭和二年五月を一〇〇とした松山市内卸売物価指数は、一四年七月で一三一・二となり、前月比一・七、前年同月比一一・〇の上昇をみた。このような状況に対し、政府は、昭和一四年一〇月、「価格等統制令」を公布した。これは、同年九月一八日の水準に諸物価を固定し、そのうえで適切な公定価格を設けて物価の安定を図ろうとするものであった。また、翌一五年四月、より総合的な物価対策を立てることを目指して、従来の物価委員会を解散させ、物価対策審議会・価格形成委員会を設置した。これに倣って、愛媛県でも、物価委員会に代わって、愛媛県価格形成委員会が置かれ、公定価格の決定、改訂の任務を受け継いだ。
 昭和一六年一一月における、県内の公定価格は一七二品、七、〇〇五点、協定価格は七〇品、六、七八八点にのぼり、以後も必要に応じて追加・改訂が行われた。しかし、軍需インフレーションによる物価騰貴はおさまらず、一方では、公定価格を大幅に上回る闇物価が横行する中で、県民生活は深刻な打撃を受けた。

 税制改革県財政

昭和五年の農村恐慌以後、日本の地方財政は行詰りの状態に陥った。この地方財政の窮状打開のため地租と営業税の委譲案が国会に上程されたが成立するに至らず、わずかに応急的な措置として昭和一一年以来臨時地方財政補給金を国庫から交付することによって窮乏町村を幾分救済してきた。昭和一二年七月に勃発した日中戦争は地方財政を一層逼迫させ、事変に対応すべき新財政体制の樹立がいよいよ緊要になったので、昭和一五年(一九四〇)四月中央・地方を通ずる大規模な税制改革が断行された。
 この税制改革のために「地方税法」・「地方分与税法」が制定されて、地租・家屋税・営業税が道府県の財源に還付され、所得税など国税の一部が地方団体に配付されて財政調整が図られた。これにより、地方財政の中央規制が一層顕著になり、各種の補助金と相まって国庫への依存度が高まった。国税は所得税・法人税などの所得課税中心の体系に変わり、税の弾力性がつき収入の増加も容易になった。また地方財源に移行した地租・家屋税・営業税もいったん国税として徴収されるので、県民の負担する国税は増伸し、府県税は軽減した(図2‐18)。
 図2-19で示しているように、本県財政の歳人中県税の占める割合は、税制改正の移行期が終わる昭和一八年度には全体の四・四%に下落して地方分与税の比重が高まった。さらに県税収入と税外収入の割合を見ると、昭和一五~一七年三・五対六・五程度の比率であったのが、同一八年には後者が八割台に達するという異常な割合に上昇している。しかも税外収人中県債などの県費収入には限度があり、そのほとんどを国庫支出金に頼っている。地方分与税と国庫補助金・下渡金の名目で政府から分与される歳入額は、昭和一五年度五三・三%、同一八年には七八・九%と、県財政の中で極めて高い比率を占めるに至った。
 ところで、国庫支出金の多くは教員給に充てられた。地方税財政制度の改革を機に同一五年三月「義務教育費国庫負担法」と「市町村立小学校教員ノ俸給及旅費ノ負担二関スル件」が制定され、小学校教員俸給は国庫と県費で半額ずつ負担することになった。これにより、市町村は教育費の重圧から解放されたが、今度は県財政が教育費の過重に苦しんだ。図2-20の円グラフは、昭和一四年度と同一八年度の愛媛県歳出予算のうち主要費目の構成を比較したものであるが、一四年度に全体の二七・五%であった教育費は、同一八年度には四〇%を占めた。昭和一五年度の画期的な税制改革も教育費負担と激増する国政委任事務のため地方財政の窮迫を緩和することは出来ず、これに加えて戦争の激化による時局対策・戦時関係費の支出で地方財政は麻痺状態に陥った。

 大政翼賛会県支部の発足

持永義夫の後任として本県知事に就任した中村敬之進は、山口県生まれ、東京帝国大学法学部を卒業後、福岡県警視を振り出しに神奈川県・兵庫県警察部長、内閣調査局、企画庁調査官、警保局保安課長を歴任した。八月下旬上京した中村知事は、中央で具体化している新体制に触れ、「上御一人と国民の関係という上下のつながりをはっきりさすことが枢軸になる」と記者会見で述べたが、その国民組織である大政翼賛会が昭和一五年(一九四〇)一〇月一二日に発足、これを提唱した近衛首相が総裁に就任した。本部組織と並行して地方支部の設置が進められた。県は一一月一八日付で「愛媛県部落会町内会等整備運営要領」を令達して、翼賛会の下部組織である部落会・町内会・隣保班(十人組)の整備運営を図った。二〇日には県支部の役員及び機構が発表され、中村知事以下一一人が常務委員に任じた。ついで顧問一八人・参与二一人・理事三人が委嘱され、庶務部と組織部の機構を整えて、一二月六日発会式をあげた。二四日には郡市・町村支部長に市町村長がそれぞれ指名された。翌一六年二月末までには郡支部一二・市支部五・町村支部二四八の下部組織が完了した。
 中央本部では、中央・地方の有機的一体の活動を促進展開する必要から全国を九地方ブロックに分け地方組織本部を設置した。四国地方組織本部は松山に置かれ、昭和一六年二月二日翼賛会四国四県支部長会議を愛媛県会議事堂で開催して、地方組織の方針・各級支部協力会議のあり方などについて協議を重ねた。四月二二日には、県協力会議が発足、議員は郡市支部長と県会議員・各界代表・学識経験者四〇人からなり、議長には陸軍中将烏谷章が選ばれた。五月五、六日に開かれた第一回会合では、四部制に分かれて大政翼賛運動の育成強化、食糧増産確保、経済統制、生活改善並びに文化に関する事項について協議、それぞれの部会で実情報告と意見具申を行った。九月一六、一七日の第二回会合では、時局認識を徹底させるためには真相を最大限度に知らせねばならない、新婦人団体下部組織と町内会・部落会・婦人部との連絡協調を密にする必要がある。生活新体制運動を全県下に押し広めねばならないなどと要望、食糧の集荷、配給の円滑化を期待した。
 こうして大政翼賛会は、中央・府県の協力会を協議機関として活用しながら、昭和一七年には壮年団・青少年団・婦人会・農業報国会・産業報国会を傘下に組み入れて翼賛体制の一元化を図った。愛媛県でもこれら各種団体の支部が結成され、翼賛県支部と一体となった活動を展開していった。
 中村県政は、翼賛体制づくりとともに高度国防国家完成のための「人的資源」の増強と「物的資源」の確保を施政方針とした。前者については、人口対策と県民体位の向上、教職員の充足と教育内容の改善、中等学校の県立移管と実業学校の昇格など、後者については、食糧農産物の増産、水産物生産の発達助長、木炭・木材増産と配給、蚕糸業対策、輸出工業の諸分野にわたって予算措置をしたと昭和一五年通常県会で説明している。
 この年末には、加茂川河水統制事業が多目的ダムを建設する最初の国庫補助統水事業に指定された。中村知事は、この事業によって道前平野六、〇〇〇町歩の干水害の心配がなくなって食糧の増産を確保することができ、国防国家完成の基本である工業生産力の拡充を図り、用水の落差を利用して相当量の発電も可能になると、事業費審議のための臨時県会で強調した。県会が承認した加茂川統水事業予算は総工費六七七万円で、うち国庫補助一二三万三、〇〇〇円、地元寄付七〇万円、県債四八三万七、〇〇〇円の内訳であり、四年継続事業として着工することになった。
 昭和一六年一一月四日、中村知事は厚生省人口局長に転じた。転任に際し、中村自身が「本県に在任して一年三ヶ月、多少勝手がわかり、だんだん見当もっき、これからいろいろの問題を片付けたいと思ふとき此の異動に会し心残りが甚だ多い。全く店をひろげ過ぎて、これと云ふ目鼻のついたものもなく去ることはまことに地方民の方々に御迷惑千万である。」「知事たるものは少くとも四、五年は一定の個所に居るべきでなくてはならぬとつくづく思はされる」と語っている。浮草稼業といわれて久しい知事の任期はさらに短かくなって一年が定着し、内務官僚が地方の事情に通ずる暇もなく時局下翼賛体制の実行者として赴任・離任の定期異動を繰り返した。

 県行政改革

 中村知事の後には、畠田昌福が内務省地方局から本県知事に就任した。畠田は兵庫県に生まれ、東京帝国大学法学部を卒業、福井県属を振り出しに、群馬・愛知・東京事務官、秋田・福島・神奈川各県の警察部長を歴任して内務省書記官になった。
 昭和一六年(一九四一)一二月八日、我が国は米英両国に宣戦を布告して太平洋戦争を開始した。折から開会中の愛媛県会は、九日緊急動議で「吾等百二十万県民愈々鉄石ノ団結ヲ固クシ、各自各々其本分ヲ尽シ益々職域二於ケル奉公二努メ、銃後ノ完璧ヲ期シ以テ聖慮二副ヒ奉ランコトヲ期ス」との時局に対する決意表明を行った。一〇日、畠田知事は「県民須ク東亜解放戦ノ淵源卜使命トニ思ヲ致シ、皇国隆替ノ懸リテ此ノ一戦二在ルヲ深ク察シ、政府ト皇軍二絶対ノ信頼ヲ捧ゲ、真二本県一体鉄石ノ団結ヲ以テ各其ノ職分ノ遂行二邁進セザルベカラズ」と、決戦遂行・挙県一致の覚悟を強調する告諭を発した。昭和一七年元旦の年頭所感で、畠田知事は増産に努力し貯蓄を促進したいと語り、県民には戦争の長期化を覚悟して生産に励み消費節約して防衛に任じ、必勝の信念を堅持して鉄石の団結を固め総力傾倒して聖旨に応えなければならないと要望した。大政翼賛会県支部では、運動方針を貯蓄増強・生産拡充・戦時生活徹底を三大目標にして県民運動を盛り上げることにした。この目標達成の推進団体として、一月一〇日全国に先がけて愛媛県翼賛壮年団が結成された。
 開戦時の県政を慌ただしく担当して、畠田昌福は昭和一七年七月七日陸軍司政長官に栄転した。本県知事の後任には内閣情勢局第四部長の福本柳一が就任した。福本は岡山県生まれで東京帝国大学法学部卒、一〇年間神奈川県官を務めた後、福井・新潟の警察部長を経て内務省の社会局軍事扶助課長、土木局道路課長、警保局図書館長を歴任して内閣情報局に入った。
 福本赴任時の一一月一日行政簡素化実施のための一連の勅令が公布され、府県官制は知事官房と内政部・経済部・警察部の三部制になった。昭和一〇年(一九三五)一月の改正で府県官制は大正一五年(一九二六)以来の知事官房と内務部・学務部・警察部の三部制が知事官房と総務部・学務部・経済部・警察部の四部制に改められたが、行政簡素化を理由に再び三部制に統合された。本県は一一月一日付で機構改革を行った(表2‐14)。
 この行政機構の改革に伴い、県は政府の指示による本庁二割・作業庁一割の定員削減を断行、官吏・雇四八六人を減じて、本庁一、六六二人・作業庁一、六一一人に整理した。
 この行政機構改革に先だち、本県は昭和一六年一〇月二八日に「愛媛県地方事務所規程」を定めて松山・今治・西条・大洲・八幡浜・卯之町の六地方事務所を設置した。地方事務所は部落会・町内会の指導や大政翼賛運動など時局関係事務の指導及び税務を処理するための県出先機関であったが、今回の行政機構改革で同一七年七月一日に六地方事務所を各郡単位の九地方事務所(但し北宇和・南宇和両郡は宇和支庁管轄)に増設して、所内に総務課・軍事厚生課・経済課と視学室を置いて総合出先機関に拡充した。九月からは宇和支庁と九地方事務所に各種団体関係者・学識経験者の参与委員が配置され、大政翼賛運動など戦時体制の適正な運営が図られた。
 こうした一連の機構改革の後、昭和一八年三月府県制・市制・町村制を一部改正して、知事の市町村長及び市町村行政に対する監督権拡大、知事・市町村長の吏員統率力強化、府県会・市町村会の権限の大幅な縮少、国政委任事務の命令による実行など、地方行政の総合団体化・集権化を進めて戦時体制の国策遂行・徹底を期した。さらに昭和一九年七月、本県は「警視庁官制外九勅令中改正」に基づき経済部を経済第一部・経済第二部に分割する機構改革を行った(表2‐14)。
 ところで、当時の県庁職員は、内務省に直属する高等官(勅任官・奏任官)と県で任用される属・書記・技手・工手・雇・傭人などで構成されていた。昭和一七年当時の愛媛県庁には、勅任官(知事)一人と奏任官一五五人(書記官-官房長・部長四、地方事務官四一、地方視学官一、地方警視六、地方小作官一、地方職業官四、地方技師九六、その他二、うち地方事務官一五人と地方技師二一人は県費負担奏任官待遇)が高等官で、以下県属七〇人、主事補二九人、県書記四五人、技手八二人、工手一九人、砂防・河川監視員九人、機関士二人、雇四六人、嘱託など傭人八一人の内訳で、合計五三九人の県職員が勤務していた。

 相川県政地方行政協議会

戦時下、上意下達の命令系統が府県単位では対応できなくなったので、東条英機内閣は広域行政を進めるため九地域ブロックごとに地方行政協議会を設置、昭和一八年七月一日にその協議会長と知事をはじめとする地方官大異動を断行した。愛媛県知事には四国地方行政協議会長を兼務する相川勝六が就任、協議会の事務局長に当たる勅任参事官として土肥米之が鳥取県知事から転じ着任した。相川は、佐賀県に生まれ、東京帝国大学法学部を卒業して千葉県属になり、以来警視庁警視・刑事部長、京都府・神奈川県警察部長、内務省保安課長、朝鮮総督府外事課長などを歴任、宮崎県・広島県・愛知県知事を経て同一七年六月から大政翼賛会実践局長を務めていた。「苦労多かった翼賛会の経験を生かして本当の意味の官民一体の地方行政をやって見たい」との抱負を持って相川は本県に赴任、七月二一日夜から三昼夜連続した大雨による災害復旧が初仕事になった。
 台風停滞による記録的豪雨で、肱川・重信川・石手川その他の河川が氾濫して、死者一一四人・負傷者一二七人・行方不明二〇人、家屋全壊一、一三二戸、同流失九一一戸、堤防決壊二、〇一二か所、田畑流失五、八九六町歩という大災害をもたらした。相川知事の指示で県臨時対策本部が迅速に設置され、翼賛会県支部と傘下の各種団体に協力を求めた。各中等学校も直ちにこれに対応して、各災害個所に学徒を動員、松山地区では二七~三一日の五日間に中等学校・愛媛師範学校・松山高等学校生徒延べ九、七五〇人が出動した。相川知事は災害激甚地を視察して自らモッコをかついで石を運び、熱弁を振るって作業員を激励した。一面湖と化した大洲では、大洲中学校・青年学校生徒総出で肱川堤防の復旧に従事した。
 こうして学徒隊・勤労報国隊による奉仕で応急作業が進められたが、九月二〇日の台風で本県は再び風水害に見舞われ、復旧個所の多くが再度崩壊した。相川知事は直ちに水害対策本部を設置、「百二十万県民は真の非常時を身辺に体験する秋が来たのである。不退転の勇気をもって起ち上れ」と県民に呼びかけた。この試練を機に、官民一体の戦力増強対策本部が設置されて、県行政の総合運営を図り、全庁員と一二○万県民の総力を緊急動員・結集できる方策が講じられた。
 相川知事は、災害の惨状を政府に報告して復旧助成を求めた。この結果、一〇月二五日に「風水害二因ル愛媛県災害土木費国庫補助規程」が勅令で公布されて高率補助が得られ、昭和一八年二、八四五万円、同一九年一、四六六万円の国庫金が支給された。非常時国家財政にもかかわらず多額の補助を政府から引き出した相川知事の手腕に県民の信頼が高まった。愛媛合同新聞は、「この決戦必勝下の愛媛県政を運営するにはまさに人を得たりといふべく、相川知事は充分信頼し、任せて置いて少しもあぶなげない」と、全面的な傾倒ぶりを示した。
 相川知事が会長を務める四国地方行政協議会の第一回会議は、八月九、一〇日愛媛県庁で開かれた。協議会には四県知事と広島財務局長ら政府出先機関の局長が出席した。協議案件は、食糧増産及び需給確保、重点産業の生産増強、海陸輸送力の強化、戦力増強並びに災害復旧に関する事項などであった。そのうち食糧関係では、甘藷の加工、畑作の転換、湿田の改良、郷土食の徹底などについて各県の実績交換があり、四国四県が各々食糧自給圏を確立するとともに物資を融通し合い、輸送力についても協力態勢をとることを確認した。協議会の初日には相川会長の発案で四国四県産業経済界の代表八五人が招かれて戦力増強懇談会が開かれ、それぞれの立場で意見発表した。第二回会議は九月一七日に開かれ、陸上運送の強化に関する具体的方策、戦力増強資材・労力・技術などの相互融通援助に関する事項などが協議された。
 「愛媛合同新聞」昭和一八年一二月三〇日付は、社説「県紙としての歳末辞」で、「古今未曽有と称せらるゝ両度の大水害に対する善処の快腕」「中央を動かす偉力」「四国三県を引ずる威力」をあげて相川知事の人格と施政を称讃し、知事の長期在任を期待した。相川は昭和一九年(一九四四)四月一八日厚生次官に栄転して本県を去り、翌二〇年小磯内閣の厚生大臣に抜擢された。

非常時県政

相川の後任には、京都府知事の雪沢千代治が四国地方行政協議会長・愛媛県知事に就任した。雪沢は長崎県に生まれ、東京帝国大学法学部を卒業して内務省に入り、新潟県学務部長、内務省上木局港湾課長、大臣官房都市計画課長などを経て、岩手県・熊本県・愛知県・京都府の知事を歴任していた。
 戦局が厳しくなる中で、雪沢知事は昭和一九年八月二九日に「神州護持ノ告諭」を発し、「本県伝統ノ剛健不撓ノ精神ヲ昂揚シテ凡ユル苦難ヲ克服シ如何ナル窮乏ニモ耐ユルト共ニ、県ノ総カヲ軍需並二食糧ノ増産ト国土防衛ノ完璧二結集」することを呼びかけた。そして物心両面にわたる戦力の増強のため、知事の創意になる「挙県航空機増産突撃運動」を九月五日から一〇月二〇日までの一か月半にわたり実施した。この運動は、一二○万県民が飯米の一部を工員・学徒に提供して航空機の増産に挺身してもらおうという趣旨で、農家一人一合・一戸五合、一般一人一合・一戸二〇銭をきょ出割り当て、米麦一、七〇〇石を集めて産業戦士に一日一合の増配と副食物を支給しようとするものであった。九月三〇日には、県戦力増強本部の下に戦時生活指導部・食糧増産部・木材薪炭増産部・軍需生産増強部・勤労機動配置部を設置して県民の非常時態勢を強化した。
 雪沢が会長を務めたこのころの地方行政協議会は官制上では毎月開会するのを原則としたが、各県ともに非常時県政に追われてほぼ二か月ごとになった。協議会は、戦力増強と国民生活確保のため府県割拠や各官庁ごとのばらばらな個別行政に修正を求める意義をもっていた。しかし会合を重ねるにしたがって各県・官庁から提出される議題は重複事項が多くなった。「四国四県の相互が自力で起たんとする問題よりも、特別官庁に対し或ひは政府に対する要望事項の方が多い、特別官庁の提出問題の如きは殆んど依頼事項に終始しており、自家の仕事の便利都合からの四県に対する協力方の依頼である」と「愛媛新聞」昭和一九年七月三日付が指摘しているように、依頼・要望事項が多く、どれほどの成果があったか疑問であった。
 昭和二〇年に入ると本土各地で米機の空襲があり、二月一三日の第一四回四国行政協議会では、大規模空襲の熾烈化にかんがみ警防、罹災者援護、防空訓練、官庁の決戦態勢などについて意見交換が行われた。三月一八日には本県も初めて空襲を受けた。雪沢知事は、「敵機襲来は、大東亜戦の勝利に到達するための天の試錬にして全県民よろしく奮激励精、生産の実を挙げ協心戮力時艱克服に遺憾なからしめんことを望む」と新聞を通じて県民の動揺を抑えようとした。
 本土決戦が叫ばれる非常時下、政府は四月二一日付で地方長官の異動を行い本県知事雪沢千代治は勇退、後任には四国地方行政協議会参事官として相川・雪沢両会長を補佐してきた土肥米之が昇格した。土肥は、広島県出身で、島根・新潟・北海道の警察部長と宮城・兵庫・大阪の総務部長を歴任した後、鳥取県知事を経て四国地方行政協議会参事官になった。なお四国地方行政協議会は軍管区の関係で高松に移ったが、六月に廃止され、代わりに四国地方総監府が置かれた。土肥知事は「戦局いよいよ苛烈凄愴を極める現状であるから必勝態勢をますます固めて最大の努力を重ねて行きたい」と就任の弁を述べた。
 空襲が日夜激しくなる中で、五月二七日国民義勇隊県本部の結成式が護国神社で挙行され、土肥本部長は「皇国の興廃をこの一戦に賭し、重大危局突破のため戦ひぬかねばならぬ」と檄を飛ばした。県義勇隊は、本部長土肥米之・副本部長山中義貞以下郡市連合隊長が置かれ、男女成人と学徒はそれぞれの職場・学校・住居区で義勇戦闘隊を結成した。これに伴い、従来の大政翼賛会愛媛県支部は六月一二日に解散した。国民義勇隊は本土防衛に備えたものの、大空襲には何らなすところなかった。

 銃後の県民生活学徒勤労動員

県民は大政翼賛体制下、出征兵士の見送り、勤倹貯蓄など銃後奉公の日々に追われたが、戦争の長期化に伴って、前途が容易でないことを痛感するようになり、物資統制や米穀需給の停滞に対する不満もうっ積するようになった。農村部では労働力の不足と諸物価の騰貴、殊に肥料不足についての不満が多かった。都市部では、商業関係者が物資統制による営業の不振を憂え、一般人は物価高騰による生活の窮乏化、物資不足による生活の不安などについて不満を漏らした。太平洋戦争開始に際し県知事畠田昌福が告諭を発し、「私ヲ去リテ公二就キ義二倚リ憤二燃へ必勝ノ信念ヲ堅持シテ生産二励ミ消費ヲ節シ援護二努メ防衛二任ズルト共ニ、苟モ或ハ流言浮説二惑ハサレ或ハ敵国ノ謀略二乗ゼラルルガ如キコトナキヲ期シ、以テ聖旨二応へ奉リ政府ノ期待二副ハンコトヲ努ムベシ」と滅私奉公・挙県一体を訴えて、軽佻浮薄の利己主義に対する自粛自戒を求めた。
 経済統制下のこの時期には、〝ぜいたくは敵だ〟のスローガンの下に生活の切りつめが強要された。昭和一五年一九四〇)には砂糖・マッチ・木炭などの切符制がしかれ翌一六年からは米が配給制になった。本県でも一般消費者一日一人平均二合四勺以内を基準とし、従来の消費実績、補助食糧の生産状況などを勘案して市町村別に段階を設けて割り当てた。その後、食糧事情の悪化で同二〇年二月配給配当量が削減され。一般消費者は一人一日二合二勺(三三〇グラム)と定められた。また、豆類・とうもろこしが混入されたり、馬鈴藷・小麦・脱脂大豆・甘藷などが代用食として支給されることも多くなった。食糧増産応急対策が叫ばれ、甘藷倍加大増産、空地利用による報国農場の開墾利用が促されて、学校の運動場も家の庭も菜園と化した。闇取引は跡を絶たず警察は取締りに躍起となった。
 戦争の長期化に伴う徴兵の拡大で労働力の不足はますます深刻になってきた。このため、国民皆働の方針の下に若年・女子を含めた労働力の根こそぎ動員を目指す総力戦体制が推進された。すでに日中戦争下で国民精神総動員運動の一環として行われていた学徒による勤労奉仕も、戦局の悪化の中で「学徒勤労動員令」として制度化された。昭和一六年の「国民勤労報国協力令」に基づいて学校勤労報国隊の結成が進められ、本県でも中等学校以上の学徒が食糧増産などに出動した。同一八年「学徒戦時動員体制確立要綱」が制定され、本土防衛のための学徒の軍事訓練と勤労動員の徹底が図られた。愛媛県ではこれに基づいて「学徒動員二関スル件」を示達し、一年間のうち、中等学校五〇日以内、青年学校四〇日以内、国民学校上級生二〇~三〇日以内を農作業その他に出動させることを決めた。これにより、学徒は同年七月本県に来襲して未曽有の被害をもたらした台風災害復旧作業に従事し、一〇月から翌年三月にかけて延べ約一六万人の学徒が別子鉱業・住友各社・東洋レーヨンなどへ産業戦士として出
動した。
 昭和一九年に入り、戦局がますます悪化する中で労働力の動員体制はさらに強化された。同年四月、「愛媛県学徒勤労動員要綱」が制定され、学徒動員は二か月(必要な場合は四か月)に延長された。さらに同年八月、政府は「学徒動員令」を制定して原則として通年動員の体制を整えた。同二〇年四月から国民学校高等科以上の全学校の授業は一年間停止することが決定されて学徒隊は軍需生産・食糧増産・防空防
衛などに動員され、学校教育はその機能を失った。本県の学徒は、阪神・名古屋・広島方面や新居浜・今治・松山・八幡浜・宇和島などの軍需工場に動員され、八月一五日の終戦に至るまで砲弾や魚雷などの製造に当たった。その間、昭和二〇年(一九四五)八月五日、倉敷紡績今治工場に動員されていた松山城北・松山高等女学校の学徒二四人が今治空襲の犠牲となる悲しい出来ごとも起こった。

 警察行政の強化

国民生活の統制と取締りに当たる内務省警視庁・府県警察部は「警察国家」と呼ばれるまでにその機構を拡充強化した。表2‐15は大正末期から昭和に至る愛媛県警察部の沿革を表示したものであり、課の増設とそれに伴う職務の拡大が進められた。この下に一七警察署(松山・三津・今治・壬生川・西条・角野・三島・久万・郡中・大洲・内子・八幡浜・卯之町・野村・宇和島・松丸・御荘)が配置されたが、三津と角野警察署は昭和一七年二月に松山西と新居浜警察署に改称した。
 県警察部機構のうち、昭和三年七月に新設された特別高等課は、思想警察、労働農民団体並びに争議その他社会運動、新聞紙並びに出版物、宗教警察、治安上注目すべき経済政治その他の運動、不穏言動取締り、海外渡航に関する事項を管掌する職責を担った。同一一年末の本県警察特高係員は特高課一五人(警視一、警部三、警部補六、巡査部長一、巡査四)、各署配置を加えると四三人にのぼり、その峻厳な取締りと情報収集は警察国家の象徴として恐れられた。
 経済保安課は、経済統制諸法令の円滑な運営を図るために昭和一二年一二月に設置され、物価取締り、物資需給調整取締り、産金及金使用取締り、石油消費規制などを職務とした。同課は、昭和一六年三月新設の警防課、同一七年一一月移管の職業課(のも国民動員課)、同一九年一月新設の輸送課とともに、戦時下の警察活動機能を代表するものであった。
 こうして、戦局が緊迫の度合いを深めるに従って警察部の所掌事務は広範な領域にわたった。昭和一九年七月一一日に改正された「愛媛県処務細則」では、特別高等課に翼賛運動に関する事項、警防課に非常警備並びに総動員警備に関する事項、輸送課に海陸輸送統制に関する事項、経済保安課に物価取締りに関する事項、国民動員課に国民徴用令の施行、学徒の勤労配置に関する事項、労政課に賃金統制令・価格等統制令の施行、産業報国・労務報国運動に関する事項など、戦争遂行のための行政事務が数多く加えられた。

 防空・戦災

防空演習は、満州事変前後から実施されるようになった。本県では昭和六年八月に西宇和郡八幡浜町で、九月に松山市で行われた演習が最初であった。その後、同九年七月の第一一師団と呉鎮守府連合で愛媛・高知の両県全域にわたる演習、同一一年九月四国四県の大演習など軍民あげての防空演習は大規模化していった。しかしこれらの演習には法的根拠はなく統制力も欠いでいた。このため、政府は昭和一二年(一九三七)四月に「防空法」を制定して、防空に関する一定の計画を立てこれに基づいて平素から統制のある訓練を行うよう府県に指示した。また国民に対して防空活動の義務を課した。
 「防空法」は、日中戦争の勃発によって同年一〇月一日から繰り上げ施行され、防空演習の用語も防空訓練と改称された。この法の施行に伴い、本県は一一月に知事を長とする防空委員会を結成し、この年の防空計画実施案を作成した。一二月には県庁に防空部が特設されて指令・監視系統の本部となった。
 長い伝統を持つ消防組は、同一四年一月の「警防団令」で、水火消防に加えて防空に従事する警防団に衣替えした。本県は、三月に「警防団令施行規則」を定め、二六四の警防団設置を告示した。また「防護団設置規則」を制定して、工場・事務所・会社・病院・学校などに自衛のための防護団設置を勧めた。同一五年一〇月には防空協会愛媛支部が結成され、防空体制の一層の徹底が図られた。県内二五か所に監視哨が設けられ、その本部が県会議事堂内と宇和島警察署に置かれた。同一六年一一月の「防空法」改正では、住民による応急防火義務や建物疎開などを規定して実戦的色彩の濃いものになった。
 昭和一七年(一九四二)四月一八日、東京が米軍機によって爆撃された。この本土初空襲は、防空関係者だけでなく県民も空襲が現実になったことを悟った。県警察部では、「防空訓練指導要綱」を作成して全警察官及び防空従事者に配布し、八月には「県民防空必携」を県下全域に配って実戦的防空訓練の反復実行を促した。県下各地域では家庭婦女子を動員しての防火訓練が頻繁に実施されるようになった。また人命保護の立場から防空待避施設の指定や防空壕掘りが行われ、県庁構内にも三か所に防空壕を設けた。
 愛媛県下の空襲は、昭和二〇年(一九四五)一月三一日夜西宇和郡宮内村の山中に爆弾が投下されたのが最初であった。その後、豊後水道は京阪神や東京爆撃に向かう米軍機の〝空襲銀座〟の観を呈し、昼夜を問わずひっきりなしに警報が発令される日が続くようになった。三月一八日艦載機の松山市銃撃を皮切りに本格的な爆撃を受けはじめ、今治、松山、新居浜、宇和島の順に空爆にさらされた。県防空本部は、市の密集地帯、工場などの重要施設周辺、待避所・防空道路造成のための建物疎開について検討を重ねていたが、四月に松山・新居浜の両市を疎開地域に指定した。新居浜では住友関係工場及び国鉄周辺の建物疎開、松山市では花園町~南堀端を避難・防空道路とするための建物疎開が、警防団・防護団・学徒など勤労報国隊のほかに県下の大工・左官を動員して実行された。
 四月二六日午前九時ころの今治空襲は、上空に現れたB29の編隊のうち四機が急旋回して日吉地区に第一弾を投下した後、市の中心地帯を波状的に攻撃し、大型爆弾六〇数発を投下した。この時の爆撃で防空活動の第一線で働いていた四人の巡査と警防団員五人、軍人一人が殉職し、今治郵便局での電話交換手一〇人、明徳高等女学校でも校長はじめ教職員・生徒九人がそれぞれ直撃弾を受けて即死するなど九〇人が死亡し、重軽傷者は三〇〇人を超えた。五月四日には松山海軍航空隊基地が爆撃され、民間人七人を含む海軍甲種予科練習生ら七六人が死亡、重軽傷一六九人、行方不明三人という被害をこうむった。同月八日早朝今治市が再び爆撃され、姫坂山に避難した今治高等女学校生徒一一人など死者二
九人を出した。五月一〇日午前八時五〇分ころ宇和島市上空に現れたB29一機は、同市朝日町・須賀通り・寿町に爆弾一八個を投下した。この空襲で死者一〇七人・重軽傷者七五人・行方不明二人という被害を受けた。宇和島市は〝空襲銀座〟の下にあり米軍機が爆撃しないままに通過していたため、市民が安易な考えを持って警察官らの避難命令に従わなかったのが、死傷者を多く出した原因であったといわれる。
 愛媛県には、大阪からの学童疎開をはじめ都会からの戦災罹災者が疎開していたが、主要都市が次々と被爆するに及んで市街地周辺の町村長に指示して疎開の受入態勢確保を求め、各市に居住する老幼婦女子に対し縁故疎開を勧めた。松山市は、国民学校の教室疎開を行って寺院・神社・公会堂などで分散授業を開始した。七月二六日午後一〇時三五分、松山市に空襲警報が発令された。一一時五分、松山上空に現れたB29の編隊は、城北地区に第一波攻撃を加え、城南・城東・城西地区と松山城を取り巻くように焼夷弾を無数に投下、全市は炎に包まれた。婦女子まで動員して続けられてきた防空訓練も、すさまじい焼夷弾
の雨の前にはひとたまりもなかった。市民は続々と避難を始め、郊外へ逃れようとする者でごった返しパニック状態に陥った。空襲は約二時間半に及び、市街は道後・新立・立花・小栗・持田の各町の一部を残して完全な焦土と化した。罹災戸数約一万四、三〇〇戸、死者二五一人であった。
 「愛媛新聞」七月二八日付号外は「敵機遂に県都松山を焼爆、B29六十機二時間半夜襲、軍官民敢闘重要施設は殆ど無事」の見出しで、「市民の敢闘にかかわらず市内に相当の被害を生じたるが、幸ひ軍官民の敢闘により午前五時に至り火災は完全に鎮火し、また人員の死傷極めて軽微なり、既に市民は余燼の内に逞ましく起ち上り復興に全力を尽しつゝあり」と報じた。県知事土肥米之は「県民各位はいやしくも流言飛語に惑はされることなく不撓不屈、あくまでも冷静沈着、なお今後再び生起することあるべき空襲に対して万全の対策を講ずるとともに、ますます必勝の信念を昴揚して職域に邁進し以つて皇土の防衛、聖戦の完勝に遺漏なきを期すべし」といった「百二十万県民に告ぐ」告諭を発した。
 七月二九日夜の宇和島の空襲は、これまでの爆撃のうち最大の規模であった。無数に投下された焼夷弾は至る所を火の海と化し市の中心部は焦土となった。前後九回にわたる宇和島の被害は、死者二七八人・重軽傷者三七一人、家屋全焼全壊六、三七一戸、戦災者は六、五八一世帯・二万五、一四〇人に達した。今治市は八月五日と六日の空爆で市の重要施設はほとんど破壊された。同市の被害総数は、死者三四二人・重傷者二二五人・軽傷者一八二人に及び、家屋全焼八、一〇〇戸・同全壊九八戸、罹災者は三万四、二三六人であった。県下全般の被害状況は死者一、二五一人・重傷四九六人・行方不明二八人・罹災者一二万四、九〇二人に達した。
 罹災者は死亡した肉親の埋葬や負傷者の手当て、焼け跡の片付けに追われるうちに、八月六日広島、九日長崎に原子爆弾が投下され、八月一五日終戦の日を迎えた。愛媛県民は、長い間の物心両面にわたる戦時生活の圧迫から解放された。しかし逼迫した生活の危機で解放にひたる余裕はなく、将来の我が国の進路への不安と期待を抱きながら、日々生活の立て直しに懸命であった。

図2-18 愛媛県民の租税負担の推移(昭和14~18年)

図2-18 愛媛県民の租税負担の推移(昭和14~18年)


図2-19 戦時下愛媛県歳入の構成(昭和15年~19年)

図2-19 戦時下愛媛県歳入の構成(昭和15年~19年)


図2-20 愛媛県歳出の構成(昭和14・18年度)

図2-20 愛媛県歳出の構成(昭和14・18年度)


表2-14 昭和一〇・一七・一九年の愛媛県行政機構

表2-14 昭和一〇・一七・一九年の愛媛県行政機構


表2-15 愛媛県警察部 機構の沿革

表2-15 愛媛県警察部 機構の沿革