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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

1 民主主義の新時代

 終戦以来日本の最高権力となったGHQから出される指令は昭和二〇年九月ころから矢継ぎ早となり、これに基づくポツダム命令により戦後初期の「処罰と改革の時代」に入った。軍の解体、戦犯逮捕、公職追放、超国家主義的思想、教育の改革などの処罰重点の「非軍事化」が早期に徹底実施された。続いて国民生活を抜本的な「民主化」改革へ方向づげをした五大改革、すなわち「男女同権」「労働組合の助長」「経済機構の民主化」「教育の自由主義化」「人権侵害の圧制諸法の改正」と憲法改正を根幹とする「上からの民主化、近代化」が強行された。GHQは地方自治の強化にも関心が強く、従来中央集権の下で国の出先機関的な性格の「県」機関を改革して、民意を導入した公選知事をトップに、権限の強化される県議会と相補って、完全自治体として位置づげたのである。そして完全自治体となる市町村を統轄し、民意を尊重しつつ中央・地方のパイプ役、調整役となり、より分権的自治的性格を強めることが志向された。
 「非軍事化」は、まず陸海軍の武装解除から進められ、松山・宇和島市など大半は自主解除したが、最大の兵力を擁し三島町旧敷島紡績に駐屯した「あかつき部隊」も二〇年一〇月ころには遂に解散した。海軍の決戦陣地として要塞化した宿毛湾岸の城辺・御荘町の海岸線には特殊潜水艦、自爆兵器などの基地群が密集していたが、数千人の軍人が復員した後、米軍の手により施設の撤去、兵器弾薬の処分が三か月を要して行われた。国民軍と銘打った県義勇隊は八月末解散、大政翼賛会、産業報国会、労務報国会等の戦時組織も相次いで解散した。工場の戦時動員は解除され、動員学徒、徴用工らもすでに帰郷し、戦時体制は全くここに終わりを告げた。戦犯逮捕、公職追放、治安維持法廃止(特高警察の廃止)など旧体制の指導者への狙い撃ちは、早々に九月から実施され、特に二一年初頭の公職追放は政・官界の戦時指導者を一掃するに至り、民主化は予想を越える衝撃から幕開けを迎えた。
 男女同権を保障された婦人。自由と地位の向上、婦人参政権、男女共学、職場への進出など「強くなった女」は戦前と戦後を画する一指標となる。労働組合は法律による承認と保護を受け、画期的な団体交渉権や争議権が確立され、さらに労働条件や失業の保障と相まって労働者の組織は戦後の経済体制を支える大きな柱となった。経済機構の民主化のうち農地改革は、当時半農業国の日本から旧地主層を一掃し革命的な激動を起こしつつも、一応平穏裏に「自作農中心」の農業構造への改革を成し遂げ、農村と都市との格差を縮小した。また財閥解体、過度経済力集中排除法、独占禁止法などは戦前の閉鎖的独占的な財閥勢力に致命傷を与えたが、若返った企業スタッフの潜在的なパワーはしぶとく温存され、次の「経済の時代」への企業そのものの力を蓄えた。教育の六・三・三制の単線型、男女共学の新学制は県民に教育機会の拡大と平等化への明るい希望を膨らませ、将来の国力発展の基礎を築いた。戦前の警察による政治犯・思想犯への人権侵害、拷問をはじめ言論・出版・結社・信教・学問の自由への圧迫統制は戦時下特にエスカレートしていた。人権擁護とこれらの自由を守るため、警察の民主化の徹底と同時に治安維持法など思想取締り法規は直ちに廃止された。これと並行して新憲法制定により戦後日本の平和・民主・自由の骨組みは徐々に形成されていった。