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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

3 地方制度の改革

 第一次改革

 マーク・ゲインは『ニッポン日記』の中で、終戦直後の日本について「民主主義勢力がこのひからびた日本の土の上に成長するのには、幾月かではなく幾年かがかかるだろう」と述べている。
 確かに、民主主義に基づく諸改革が中央集権的な政治体制に代わって、この風土に活着し、根を張り葉を繁らすまでには長い年月を要した。
 昭和二一年二月、政府に手交されたマッカーサー憲法草案は、その中に地方自治に関する一章を含んでいた。
戦後における地方制度の改革は、「東京都制」・「府県制」・「市制」・「町村制」の改正(昭和二一・九・二七公布、一〇・五施行)から始められた。
 この改正は、まず地方制度を改革し、そのあとで新憲法を施行するという明治の先例に倣ったものである。
 改正法は、憲法草案の理念を織り込んで、(1)地方公共団体の自主性・自律性の強化、(2)住民参政範囲の拡大による住民自治の確立、(3)事務処理の公正確保を基本方針とし、選挙権・被選挙権の拡大、知事・市町村長の直接公選、直接請求制度、地方議会の権限拡充と地位の強化、選挙管理委員会、監査委員制度の創設などを骨子とする画期的なものであった。しかし、旧憲法下における制定であり、かつまた、新憲法との同時施行を意図したため、例えば公選知事の身分を官吏とするなど、若干の手直し作業を後に残した改正であったことは否めない。

 第二次改革(地方自治法の制定)

 昭和二一年九月二七日、「東京都制」、「府県制」など一部改正法律の公布が終わると、政府は直ちに地方制度調査会を設置して第二次改革の作業にとりかかった。GHQの強い要望と帝国議会の付帯決議によるものである。
 地方制度調査会の答申は一二月一五日内務大臣に対して行われ、法案は翌二二年三月一六日第九二帝国議会に提出され、四月一七日「地方自治法」(法律第六七号)として公布、新憲法と同じく五月三日から施行された。これにより、都道府県は国の地方行政機関であると同時に、一方では自治体でもあるという二重性格を改め、完全自治体として発足し、その職員の身分も警察官など一部の者を除き、知事以下官吏から公吏へと切り替えられた。地方自治法の特色は、従前の東京都制、府県制、市制、町村制のほか「地方官官制」(明治以来府県の組織及び官制を定めていた)などを一本の法律に統合集約したことにある。
 主な改正事項としては、第一次改革の基本方針をさらに徹底させるとともに(1)議会の地位を強化したこと(常任、特別委員会制度その他)、(2)参事会制度を廃止したこと、(3)都道府県や市町村に対する監督権を制限したこと、(4)知事・市町村長に拒否権を認めたこと、(5)都道府県に副知事・出納長の制度を設けたこと等をあげることができる。それと同時に従前用いられていた都道府県会・市町村会の呼称もそれぞれ「議会」と改められることとなった。
 第一回の愛媛県議会は二二年五月二二日県庁本館四階の第一会議室で開かれた。
 この年一二月、GHQの強い意向により明治以来地方行政を統括してきた内務省が廃止された。
 地方制度は、基本法である地方自治法のほか一般行政に関するものとして地方税法、地方財政法、地方財政平衡交付金法(現在の地方交付税法)、地方公務員法、公職選挙法、また特別行政に関するものとして警察法、消防組織法、消防法、教育委員会法(現在の地方教育行政の組織及び運営に関する法律)、労働組合法、生活保護法、保健所法、児童福祉法など多くの法律をもって構成されている。これらの根幹をなすとみられるものの大部分は、おおむね昭和二〇年代前半には制定せられ、後半から三〇年代初めにかけて、その「見直しと修正」が行われた。つまり終戦後からこの時期までを「新しい地方制度の骨組形成期」とみることができるのである。

「県会」と「県議会」

「県会」と「県議会」