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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

4 選挙制度の改革

 制度の変遷

 近代的な選挙制度のはじまりといえば、いうまでもなく明治二二年(一八八九)帝国憲法と同時に公布された衆議院議員選挙法をあげることができる。
 戦後、政治の民主化とともに選挙関係法規も多岐にわたるようになった。加えてその規定にも準用が多く、一般の人には理解しにくいところから、それらを一つにまとめて選挙の基本法とでもいうべきものをつくってはどうかとの声が起こり、従前の衆議院議員選挙法、参議院議員選挙法のほか地方自治法や教育委員会法等にある選挙関係規定を統合集約し、議員立法によって制定されたものが公職選挙法で、この法律は昭和二五年四月一五日に公布された。戦後衆議院議員選挙法の改正に始まり、公職選挙法の制定に至るまでの経過(選挙関係法規の統合関連、選挙執行と関連法規等)は次の図3-1に示すとおりである。

 婦人参政権

 明治一一年(一八七八)、東京で開かれた第二回地方官会議において、鹿児島県出身の平山靖彦は婦人にも選挙権を与えるべきであるとして、「女戸主も地租五円以上を納むる者に男子と同じく選挙権を得せしむべし」と述べている。
 明治一一年といえばニュージーランドが世界で初めて婦人に参政権を認めた一八九三年に先立つ一五年も前のことであった。我が国における婦人参政権が多年にわたる辛抱強い運動の結果得られたものか、それとも終戦によって得たものかは議論の分かれるところであるが、後者によるとしたほうがより明快であろう。マッカーサー元帥回顧録によると、昭和二〇年八月三〇日マニラから神奈川県厚木に飛ぶ米軍用機「バターン」号の中で彼はこう考えたとある。「まず、軍事力を粉砕する。次いで戦争犯罪者を処罰し、代表権に基づく政治形態を築き上げる。憲法を近代化し自由選挙を行い、婦人に参政権を与え……」。
 このように連合国側では、終戦直後早くも日本の婦人に参政権を与えることを考えていた。一般県民が婦人参政権について知ったのは、これより三週間ほど後のこと、二〇年九月二四日付けの愛媛新聞は「多数の者に選挙権、マ元帥指令、婦人にも実現?」と報ずるチューリッヒ特電を載せている。
 この後、一〇月四日マッカーサー元帥に面接した東久遠内閣の近衛国務大臣は婦人参政権について示唆をうけ、次いで一一日就任あいさつのためGHQを訪れた幣原首相は、その際、五大改革の要求を示されているが、婦人参政権はその冒頭に取り上げられていた。婦人参政権を取り入れた衆議院議員選挙法は昭和二〇年一二月一七日公布された。
 婦人が参加する戦後初めての衆議院議員選挙は二一年四月一〇日に行われたが、本県では、選挙当日の有権者数は六九万三、四〇九人で女子が男子を八万七千余人も上回っていた。婦人に対する参政権は、このあと「府県制」、「市制」、「町村制」の改正や参議院議員選挙法の制定で地方政治、国政の全分野について認められることとなった。

〔表3-1の解説〕
 食糧難やインフレにあえいでいた昭和二〇年代前半、衆議院議員選挙の投票率は一〇%台の差をもって男性の方が女性の方よりも上位にあった。婦人はまだ選挙どころではなかったのである。
 昭和二五年に朝鮮戦争が勃発し、軍需景気にあおられて景気が上向きに転じ始めると婦人の投票率も次第に上昇、二六年から三〇年代にかけて男女の差が接近する。
 そして四三年、日本のGNPは自由主義世界で第二位になるが、この年を境に男女の投票率は逆転する。それは本県のみならず、全国的な傾向でもあった。ただ、すべての都道府県が一律にそうなったというわけではない。
 東京都、大阪府のほか神奈川、静岡、愛知県など、いわゆる太平洋ベルト地帯と瀬戸内海沿岸の中国各県、四国四県、九州の福岡県などにかけて四四年ころからそうした傾向が見え始めるようになった。

 選挙管理委員会

 昭和二四年(一九四九)一月三一日、県庁第一会議室で愛媛軍政部司令官シャールス中佐、ローレンス法務官が出席し、県選挙管理委員会(委員長・東郷一郎県総務部長)に対する表彰式が行われた。表彰状に、次のような言葉で結ばれていた。
 「普通予期し得ないほど見事にその職務を遂行されたことは、県民のみならず日本国民全体に対して民主的忠実な貢献をなしたものといえる」。
 選挙管理委員会制度は、婦人参政権、知事公選、公職選挙法の制定などとともに戦後、選挙制度改革の大きな柱をなすもので、その意図するところは選挙管理の民主化と公正の確保にあった。特に首長公選制が制度採用の
重要なきっかけとなっている。
 二一年九月、第一次地方制度改革において都道府県に都道府県会議員選挙管理委員会(市町村に市町村会議員選挙管理委員会)が設置されることとなり、本県でも同年一一月の臨時県会で大森通孝(県内務部長)・森秀雄・伊達茂利・米岡伊太郎・伊藤秀夫・長井慶太郎の六人が委員に選出されている。この委員会は、当初自治行政に関係の深い学識経験者をもって構成されていたが第二回目(昭二三)からは、法曹関係者、第三回目(昭二六)からは報道関係者を加えて現在に至っている(事務局は県地方課内に置かれ書記は同課職員が兼務)。
 昭和二二年五月、地方自治法の施行により名称も「選挙管理委員会」と改められた。
 県選挙管理委員会の職務権限は各種選挙の管理執行にあるが、それのみにとどまらず市町村選挙管理委員会の行った決定に対する訴願の裁決や、直接請求に基づく投票、政治資金規制法に定める届出の受理公表など、広い範囲に及んでいる。特に二九年からは公職選挙法の一部改正によって「常時啓発」に関する事務が加わり、棄権防止や「明るく正しい選挙運動」の推進もその重要な責務の一つとなった。

図3-1 選挙制度の変遷(昭和20~25年)

図3-1 選挙制度の変遷(昭和20~25年)


表3-1 衆議院議員選挙における投票率の推移(昭和21年以降)

表3-1 衆議院議員選挙における投票率の推移(昭和21年以降)