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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

5 労働三法の制定と労働運動

 解放された労働運動

 終戦後の自然発生的な労働組合結成のはしりは、昭和二〇年一二月、日本発送電西条火力発電所従業員組合(一四五人)といわれ、同年の労働組合組織化は四組合二千余人を数える。二一年、組合結成は急速化し、住友五社の工員・職員組合の結成と、これを中核とする一六組合二万人を結集する社会党系日本労働組合総同盟県連合会(総同盟県連)が二月に結成され、続いて六月までに一一八組合が生まれ、五月一日戦後初のメーデー行事が各地を彩った。一二月には全逓信従業員組合・国鉄・四電(のち電産)・愛媛新聞社などをメンバーとする愛媛県産業別労働組合会議(県産別会議一四組合一四、八八二人)が結成され、総同盟県連(四四組合二二、八四五人)と並んで県下の労働運動の方向を左右する二大組織体が顔をそろえた。生活権防衛を旗印に読売新聞社争議に端を発した新聞通信放送労組のゼネストで一〇月闘争の火蓋が切られた。愛媛新聞社は一〇月六日付け新聞のスト休刊、NHK松山中央放送局は全逓と共闘して五日から二二日間の放送ストに入り、「電産型賃金」を戦い取った電産労組は一般電灯の五分間停電スト、一八工場の三時間半停電ストなど公器公益産業労働者が先頭に立った。民間労組に触発されて官公職員労働組合(官公労)は低いベースの賃金(民間の四五%)改正が必須目標となり、賃金闘争は政治がらみに二二年の二・一ストヘなだれ込んだ。
 県下二・一ストの推進力は全逓、国鉄の官公労で、県教員組合、専売、日通などと共闘体制を強化した全国ゼネストの成り行きは「共産革命近し」の実感があった。教育現場の県教組も一八郡市のうち西宇和郡を除いて多数がスト賛成、学校管理権の忌避、児童の自習や授業の放棄と段階を用意したが、ストは寸前にGHQの命令で中止となった。当時父兄の世論は薄給教師の最低賃金六〇〇円の要求にむしろ同情的な面もあった。
 二一、二二年の賃金引上げの労働攻勢の激化は、スト・怠業など草創期組合の戦術の未熟さと相まって、経営者側も強硬に工場閉鎖等でこれに対抗した。倉敷紡績今治工場・大王製紙・伊予製紙村松工場などがそれで、桜井塩業労組のように生産管理闘争で組合が工場を運営する動きもあった。この深刻な事態に軍政部は「民主化政策」に乗り出し、両製紙の争議にはアラブ少佐、プリアリー准尉らが二二年八月三島町(現伊予三島市)に出張、六〇〇人の組合員に「過激行動を慎み交渉第一主義で行け」とさとし、組合役員の改選も要請した。九月にはGHQ経済科学局労働教育班長K・L・Qデヴエラルらが、松山市で県下四、〇〇〇人の労働者に講演を行った。これより先、四月には職員登用試験に端を発する別子労働組合の明治四〇年、大正一四年以来三度目かつ最後の大争議があった。ストは激化して保坑・排水も放棄され、廃坑の危機迫る中で円満解決を主張する職組に対し、なお労組が反対する様相は、住友王国の支柱である「身分制度」への反発が噴出したとみられる底の深い争議であった。県地方労働委員会・中央労働委員会の調停努力が奏功し一応組合に有利に解決したが、これを機に新たに職階制が導入された。
 昭和二二年には経営難から人員整理が多発、争議も深刻化し、八月に県経営者協会が結成された。二三年は活発化する官公労中心の「三月闘争」では、国鉄の安全運転と検査厳守の「遵法闘争」で貨物・旅客列車の運休が続発した。全逓は職階制賃金に反発して郵便・電信・電話業務の「地域闘争」に新展開を示しさらに県下一斉ストも決行した。同年七月マッカーサー書簡に基づく政令二〇一号「公務員の争議権、団体交渉権の禁止」に反発した全逓、国鉄は非常体制に入った。国鉄松山機関区乗務員会は「機関助手二人」を要求して、八月五日以降無期限ストを決意したが、松山機関区管理部は違法として会長山内元春ほか四人を懲戒処分した。このため旅客列車運休騒ぎがあり、七日松山地方検察庁は武装警官三〇〇人を指揮して山内ら一〇人を、続いて一一日には中田文一(国鉄・県産別会議議長)ら三人を検束収監した。これを機に新乗務員会が発足し、国鉄愛媛支部は八月県産別会議を脱退したため、県産別会議は瓦解し始め、二四年の解散への途を歩んだ。さらに二三年一一月の改正国家公務員法の網の下で、官公労は県下労働運動の第一線から退いていった。二四年はドッジ恐慌で人員整理の大波は中小から大企業に及んだ。三〇〇人を超える日新化学(後に住友化学と改称)を筆頭に、井華鉱業別子などは組合過激分子を含め不良社員一掃の名目で、また官公労は「定員法」で整理旋風が吹いた。国鉄五八七人、郵政三一五人、電通九〇人、県職二〇〇人などの整理が進み、反共と民主化を旗印とする愛媛県労働組合会議(愛労会議)が同年一二月結成された。

 労働三法の制定

 経済的弱者である労働者を活性化・民主化のエネルギーにしようとするGHQの強力な支援で、労働三法すなわち労働組合法(労組法、昭和二〇年)労働関係調整法(労調法、昭和二一年)労働基準法(労基法、昭和二二年)が相次いで施行された。これにより労働行政は戦前の「上からの保護、管理」とは異質の「下からの労働運動の自由化」と、保護や権利の国の保障が徹底された。
 労組法は団体交渉権及び労働協約権・争議権を保障される労働組合を法認し、労調法は地方労働委員会(地労委)による労使紛争の調整、仲裁、不当労働行為の審査などを制度化したものである。委員は使用者・労働者・中立各代表五人の三者構成となり、知事の任命は受けるが、独立の行政委員会制度となった。労基法は一日八時間労働制、一五歳未満の就労禁止、女子・年少者の保護、最低賃金制、強制労働や人身拘束の禁止、解雇の制限など、我が国としては画期的な労働条件の普遍的最低基準の確立を定めており、戦前の後進国的体質でもあった労働のソーシャルダンピングの歯止めを図る連合国のねらいが、そのまま制度化されたものである。
 労働省は昭和二二年厚生省から独立して新設された。県では二三年新発足の労働部に労政課・職業安定課が所属し、労政事務所が新居浜・今治・松山・八幡浜・宇和島の五か所に置かれて組合の指導育成に当たった。職業案定行政は県下七公共職業安定所が窓口となった。労働基準行政は労働省直轄の行政で、愛媛労働基準局(松山市)の下に県下六市及び三島町に監督署が置かれ、立入り検査などの強い権限を持った監督官らが配置された。
 二四年労働組合法の改正で地労委は審査権等権限が拡大強化され、本県地労委は二一年から六〇年までに斡旋一、三九七、調停五九、職権九七、仲裁四、計一、五五七件、終結一、五二七件の取扱いで、全国的に組合数等は中、下位にあるにかかわらず係争件数が多く、全国上位を占めている。取扱いのうち特異なものとして二二年の別子争議、二九年地方銀行の全国闘争の一環として長期化した伊予銀行争議、キャバレー銀馬車の争議、三七~三八年の県自交のタクシー「百日スト」などがあるが、いずれも斡旋解決をみている。運用上も珍しいといわれる三者構成の委員会合議制の運営には、初代会長中平常太郎以下歴代会長の苦心を要したところであった。