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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

9 社会保障の始まり

 福祉三法の制定

 戦時下では当然軍事援護一色、次に労働力保全と健民政策が主な厚生施策で、県では内務部兵事厚生課が所管した。
 様相一変した戦後、激増する生活困窮者(引揚者、戦災者、留守宅家族、傷痍軍人及び家族、遺族等)の救済援護に当たり旧来の制限の多い救護法などでは間に合わず制度の改革を迫られた。
 昭和二一年九月制定の生活保護法及び同時に発足した方面委員改め民生(児童)委員制度は、生活保護そのものを生活権とみて、国家責任の明確化などの新理念に基づき旧来の「お上」や民間篤志家による慈恵思想、あるいは大づかみ方式などを一新し、肉体維持の必要なカロリー計算に基づく科学的最低生活基準を賄うよう、国の責任で保障することが基本となり、近代的公的扶助の輪郭が出来上がった。二五年に抜本的に制度が改革され、生活保護の認定事務は有給専門職の社会福祉主事(県・市の職員)が当たることとなり、民生委員は奉仕者として協力機関に位置づけられた。
 県行政では民生部社会課及び福祉課がその所管課となった。二一年度生活保護開始早々の半年間(二一年一〇月~二二年三月)で生活扶助四万七千余人、総扶助五万三千余人と驚くべき多数(今日までの生活保護の歴史で最大)を示し、二、〇〇〇人未満の昭和六年の調査数と比べ最低生活のあり方に今昔の感がある。
 児童保護については戦時下「人的資源」としての保護政策が推し進められたが、本格的な児童福祉の発足は昭和二二年一二月の児童福祉法の公布に始まる。児童を寛厳よろしく包容して来た旧家族制度の動揺変質を背景に、社会の激動で保護者を失った要保護児童や、いわゆる「はみ出しっ子」など国家社会が生み出したともいえるこれらの児童に対する施策が急務となった。児童の判定、保護や相談指導の第一線機関としてまず県中央児童相談所が二三年松山市に、二七年には南予(宇和島市)、二八年には東予(新居浜市)と三相談所が設置された。二四年の取り扱い約一、〇〇〇件のうち浮浪児三七、不良児二五〇、窃盗一七二、家出三九、被虐待一九、環境不適一八六、孤児二四などが主で、二五年度の措置件数では養護施設四〇、教護施設四七、里親委託一六などとなっており、養護施設(当時二か所)教護施設(県立家庭実業学校)母子寮(当時二か所)などを増設することが緊要となり、県立家庭学園など県及び公私の施設整備が図られた。二五年には児童憲章も公布され、市町村での保育事業が活発化し、一般児童の健全育成も次第に活動が軌道に乗っていった。
 昭和二四年身体障害者福祉法が制定され、戦傷病者特別援護法とともに更生医療、補装具の交付修理、手帳交付及び船車割引証交付などの事業が実施されていった。障害者には障害別の専門的対策が必要で、二五年身体障害者の更生援護施設として盲人授産の松山光明寮(あんま、はり、きゅう)、二六年ろうあ授産場(木工)、二七年身障者更生指導所(電気、時計、洋裁など)などの県立施設が逐年松山市に設置され、自立を目指して更生援護が図られた。二七年県内の一般身障者は一万四、五七三人、戦傷者は二、一五八人であり、障害部位では肢体不自由と視覚障害で八五%(一般)を占めた。また、補装具交付で多いのは補聴器、装具、車椅子、義肢であった。
 こうして二五年には生活保護、児童、身障のいわゆる福祉三法が出揃い、戦後福祉行政の根幹が整えられたが、昭和二六年社会福祉事業法に基づき各市には四月から市福祉事務所を、県では一〇月から地方事務所に福祉事務を専管する「民生課」を設置し、三法に基づく事務は町村から県・市に移管された。さらに三〇年県地方事務所の縦割り再編を機に、県下一一か所(宇摩・新居郡で一か所)、おおむね各郡単位に県の福祉事務所を設け、三法の事務は県市ともに独立事務所で行う体制が整えられた。

 保健・医療の活動

 戦前の衛生行政は、軍国体制の下「健民政策」すなわち強健な兵隊・たくましい産業戦士の養成維持を意図して検疫、結核対策などに重点が置かれた。劣悪な衣食住や生活環境の中で昭和一二年には宇和島を始めとして松山など一五保健所が設置され、結核検診はじめ保健指導のサービス機関として一応の成果を上げてきた。保健所は昭和二二年の法改正により広範な衛生行政事務を併せて行うこととなり、地域の主要な公衆衛生の第一線センターとして新発足した。
 二三年度はまず標準保健所である松山保健所の整備を主に、二五年度から全般の整備に入り壬生川・郡中・野村・岩松・八幡浜の新築、宇和島・西条の増改築、壬生川など四保健所の三〇〇ミリX線装置、今治の保健所船ちどり丸など新鋭機器や機動力の拡充、試験検査施設の整備が図られた。二五年の実績件数は健康相談約五万一、〇〇〇、保健婦訪問約二万五、〇〇〇、集団検診約一三万九、〇〇〇、患者治療約二万二、〇〇〇、予防接種約一五万六、〇〇〇、防疫約九、八〇〇で、そのほか各種試験検査を実施、二三年と比べほぼ倍増と活発な活動ぶりが見られる。
 終戦後悪化した医療・衛生状況に追い討ちして二〇~二一年度の進駐・復員・引揚に伴う海外からの伝染病侵入の危険にさらされ、防疫陣はこれら悪疫との戦いに明け暮れた。一九~二五年の県内死亡数はコレラ一七人、発疹チフス三五人、痘瘡三九人などで、久しく日本では見馴れない特殊伝染病が多発した。二二年ころから防疫陣の活躍と生活の正常化で一応下火に向かったが、なお赤痢一、三〇一人、ジフテリヤ三三六人、腸チフス一九八人、疫痢六一三人と死亡数も多く予断を許さぬ状況が続いた。跳梁する伝染病に対し、愛媛軍政部はアメリカ的な衛生環境をモデルに伝染病を媒介する有害昆虫(シラミや蚊など)の絶滅を強く指導した。二三年度から米軍放出のDDT薬剤散布移動班が街頭、盛り場に出動、発疹チフス予防のシラミ退治のため、頭から白い粉をかげる風景が日常化し、都市部保健所にはDDTを常置した。また軍政部は蚊の発生源絶滅を期し墓地の花立て使用を禁止したり、二四年には松山城の堀埋め立てを松山市に示唆したが、水利農民の猛反対で沙汰やみとなった。
 性病蔓延は戦争につきもので二四年度四、一九一人に及んだが、道後診療所のほか八保健所に性病診療所を併設し公的治療に努めた成果と、特効薬ペニシリン普及による素人療法も加わり二五年には二、九四五人に激減した。隔離療養を勧めるライ(ハンセン病)予防事業は、二五年国立療養所青松園(香川県)の協力下に県下検診で一六人の新患を発見し、未収容四八人のうち一五人を収容した。同年度で全収容数一九〇大・未収容三五人で、本県患者数は合計二二五人であった。母子衛生は児童福祉法施行後一段と強化され早・流・死産防止、疾病予防のための妊産婦や乳幼児の検診が進められた。
 県立病院は昭和二三年日本医療団から県営に移管されたが、近代化を急務としながら特別会計の枠内で窮屈な運営が行われた。二五年当時、愛媛病院(松山)はベッド一二〇床、外来患者年計六七、〇一四人・入院患者年計一八、〇六〇人、今治病院は三四床、二五、五七八人・九、五〇二人、三島病院は七五床、三七、六四〇人・一〇、六四七人、南宇和病院は五〇床、一二、〇二八人・二三九人となっていた。草創期のこの四病院に県立新居浜(結核)療養所の改組発展した新居浜病院、北宇和郡三町村立組合病院から三七年に県立移管した北宇和病院と合わせて六県立病院のネットワークへと発展していく素地がつくられた時期といえよう。