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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

1 公選知事の登場と県政

 官僚からの転身

 昭和二二年の県知事選挙は官僚三つ巴戦といわれ、青木重臣(内務省)、加藤雄一(逓信省)、宮崎忠義(司法省)と有力候補三人の官僚出身者が顔をそろえていた。現職知事青木重臣は持ち前の実行力で着々と行政実績を重ね、順風満帆、正に潮待ちの構えで臨んでいた。当時二二年の二・一ストで革新勢力の予想を超える行動力を見せつけられた保守陣営の長老元代議士佐々木長治らは、知事候補に青木現知事が最適任と判断、結党早々の全県的な保守系地方政党愛媛民主党(愛民党)による青木公認推薦が強まった。これに対し同党松山支部(幹事長立川明)では「官僚政治打破の党綱領に反する」として反発、若干の曲折はあったが結局青木公認と決定し、三月一五日告示の知事選挙へと突入した。
 加藤雄一は松山市出身、終戦直前の松山逓信局長を務め同局の高松市移転を阻止した功労者で、中予の保守系が支持するほか、県教組、全逓従組の一部も加わり、元県農業会長岡本馬太郎、松山経済専門学校長田中忠夫、後の代議士菅太郎、後の県議白石春樹及び愛民党松山支部の後の県議大西弘、阿部孫次らもその陣営に投じた。このように愛民党は全県一枚岩ではなく中予には無所属の加藤支持がかなり多かった。
 社会党は新居浜市出身、朝鮮総督府で検事歴のある宮崎忠義を公認、代議士安平鹿一、後の県議合田伊勢造、山中丑之助、石原類蔵らが戦列に加わって活躍した。
 開票の結果は青木が中予を除く東、南予を制して二三万余票を獲得、これに対して次点の加藤一二万票、三位の宮崎一一万票余、加藤・宮崎の得票を合わせてようやく青木に並ぶという青木の圧勝ぶりであった。

 知事と県議会

 終戦直後の旧制度下の県会議員は、昭和一四年当選組で二期八年の戦時県会を経て二一年一一月定例県会後、公職追放のため定員三八人の中二一人が辞任、残留わずかに一二人で異例の少人数県会となった。議長には越智直三郎、参事会員には宇和川浜蔵・魚本義若ら一〇人を選出し県会制度最後の一役を担って過渡期の政界に活躍した。昭和二二年の新制度下の県議選では新定数五一人の全員に新人が当選し、しばらくは新人議会とベテラン知事を取り合わせた議会運営が続くことになる。

表3-6 天皇陛下県下御下御巡幸日程

表3-6 天皇陛下県下御下御巡幸日程