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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

3 食糧の確保

 食糧の供出促進

 終戦前の食糧需給状態は極端に窮迫していた。麦、いも類などの増産と供出増も追いつかず、国民の志気に影響することを恐れて、一日延ばしにしていた配給量の一割削減が昭和二〇年七月一一日から実施された。
 終戦直後食糧事情はさらに悪化し、占領下の食糧統制は引き続き食糧管理法によって実施された。そのうえ、二〇年産米は平年作の三〇%減という大凶作となり、戦時中の食糧管理に対する不満と、敗戦による政府の威信の失墜、国民道義の低下などが相乗して、需給関係はますます悪化してきた。
 このような事態の下で食糧の供出は前年までの部落割当制を改めて、市町村から部落を通じて個人に割り当てる個人責任制がとられた。また、米に替えてくず米、二〇年産の麦類、食用切干甘藷は無制限に認められ、生いもと未利用資源(澱粉かす、甘藷茎葉、どんぐり)などによる代替供出は一定限度まで認められることとなった。
 昭和二〇年一一月「第一次供出対策」が閣議決定され、価格の引き上げ、供出完了者への肥料、農機具、衣料、酒などの報奨物資の特配が行われることとなり、一方ヤミ行為の取締りも強化された。続いて食糧管理の強化(二一年一月)の閣議決定や、食糧緊急措置令(二一年二月)、隠匿物資等緊急措置令(二一年二月)などの施行で、供出促進の施策がとられたが、それにもかかわらず二一年四月時の供出達成率は七一%に過ぎなかった。
 このような供出の不振、食料輸入の困難などが加わって翌二二年一月ころから遅配が始まり、五月一九日には、皇居前広場で食糧メーデーが行われるにいたり、六月農林省は食糧非常対策を決定、食糧非常時を宣言した。
 本県でも、二〇年産米は六万六、八一一トンで、昭和一〇~一三年の平均生産量の四七%に過ぎなかった。したがって、端境期には米飯率が二〇%を切るという状況の上、遅配・欠配が続いていた。県では二一年に新設した食糧課を中心に県政を挙げて食糧の確保と公正な配給に当たった。
 二一年八月都道府県に食糧委員会、市町村に食糧調整委員会の設置が決まり、二一年産米からは民主的にこれら委員会の議を経て割り当てを行うこととなった。このころ豊島・青木・第一期久松知事の時期は国に対して、市町村長は県に対して、いかに供出割り当てを少なくするかで政治力が問われるほどであった。二一年産米は豊作で九〇〇万トンの生産が見込まれていたが、県側が強く出て八六二万トン余りの生産に対して四二一万トンの供出割当を決定した。そのうえGHQのバックアップもあって、一一〇%の供出を確保することができた。それは、特別報償金制度とともにいわゆる「ジープ供出」といわれるようにGHQの力が大きく影響したとみられる。
 二二年産米は順調な生産であったが、生産見積りを強化したためと、初めての公選知事と食糧調整委員の抵抗で折衝は難行した。しかしこのときもGHQの指示で原案どおりの割り当てが行われた。これを契機に生産と供出を一体とする事前割当制に移行することとなった。その後食糧生産の回復と輸入食糧の増加もあって、需給事情はかなり緩和したが、供出に対する農民の不満は依然として強かった。二三年七月食糧確保臨時措置法が制定され、事前割当制による供出の強化と輸入食糧の放出の増加によって食糧需給状況は著しく緩和した。このような状況の中で、一二月から甘藷が供出を完了した後は自由販売となり、また、二五年三月にはいも類、続いて雑穀類の統制が撤廃され、事実上米麦のみの配給となった。しかし、供出については、行政側と農民との強い対立がまだまだ続いた。
 ちなみに、二〇年本県産米の供出割当量はわずかに三万七、〇五〇トンであったが、二一年四万五、九四五トン、二二年五万七、〇〇〇トン、二三年からの事前割当は五万二、四〇〇トン、二四年五万一、三七〇トンと増加している。
 また、二四年度の本県産主要食糧の生産・供出の状態は表3-7に示すように、さしもの食糧窮迫も終わりを告げようとしていた。

 増産対策

 戦後の食糧危機は、戦時下の資材・労力不足による生産量の低下によるほか、復員や、海外からの引揚者の増加もその原因の一つであった。しかも一般産業も破壊的な被害を受けて、失業や戦災者などの農村への還流も多かった。そのため何よりも食糧と定住地を確保するため、昭和二〇年一一月、「緊急開拓事業実施要領」が閣議決定された。本県においても、開墾適地の取得一万ヘクタール余、入植二、五〇〇戸、増反戸数三万戸の計画を立て、一万五、〇〇〇トンの食糧を増産することとした。その結果二七年末までに買収面積九、九六七ヘクタール、入植一、八〇六戸、増反一万七、三四八戸となり、開墾面積で四、〇〇〇ヘクタール、米換算の増産高は八、二五〇トンに達し、目標のそれぞれ四〇・一%、五五%を達成した。現在四国カルスト地帯の酪農の中心地として成功している大野ケ原開拓地は、昭和二二年三四戸の入植に始まったもので、昭和六三年現在二二戸が定着している。
 また、昭和二三年制定の食糧確保臨時措置法は、農業計画に基づいて生産数量を指示し、その生産実績に対して供出割当を決定することが目的となっていた。この指示目標達成のため知事・市町村長は各種の施策を講じなければならなかった。
 一方、食糧増産の国策に沿って、農業改良助長法(二三年)と土地改良法(二四年)が制定された。二三年九月、県では農業改良課を設置して、とりあえず八〇人の食糧増産技術員を嘱託として採用し、その後、資格試験に合格した者から農業改良普及員を任用した。普及員は食糧の増産、生産力の向上を使命として活動した。
 土地改良法は、農地の改良・開発などにより食糧その他農産物の生産力の向上を図ることを目的としていた。二四年の県調査によれば、水田のうち用水不足地が一万四、九二〇ヘクタール、排水不良地八、二一一ヘクタールか、老朽化水田七、一三五ヘクタール、その他を含めて延三万九、〇〇〇ヘクタールもあった。ただし実数は、改良を必要とする面積が二万五、〇〇〇ヘクタール余りで全水田の六三%を占めていた。この法律に基づいて国営・県営・国体営などの土地改良事業がすべて法的根拠をもって推進されることとなった。
 二五年七月「食糧増産興農運動要綱」が閣議決定された。これに基づいて県では、「愛媛県食糧増産興農運動要綱」を作り強力な運動を展開した。当面主要食糧の一割増産を目標とし、土地改良、災害防除、技術の改良普及、優良種苗の普及のほか有効な諸施策を総合的に実施している。
 これに呼応して、本県農業の総合生産力の向上と恒久的繁栄を求めて愛媛県農業基本対策審議会を二五年七月発足させたが、食糧増産の本格的な対策が整うのは二六年以降のことであった。

表3-7 昭和24年度主要食糧の生産、供出割当状況

表3-7 昭和24年度主要食糧の生産、供出割当状況