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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

4 総合開発事業の推進

 銅山川総合開発事業

 銅山川総合開発事業は、吉野川(徳島県)からの分水を前提とした水資源総合開発事業であって、吉野川からの分水は遠く安政年間以来の宇摩地域住民の永年の悲願であった。
 これらの経緯については、「吉野川分水問題」の項で説明しているが、銅山川総合開発事業として具体化されたのは、昭和二二年三月に徳島県と合意した第三次分水協定に始まる。河川総合開発は治水・利水(農工用水の確保)と発電の一石三鳥の効果をねらったアメリカのテネシー川の開発、すなわちTVAプランをモデルとして戦後我が国の主流の開発方式であった。
 本県では、この方式開発第一号として、宇摩郡金砂村(現伊予三島市金砂)小川地区に柳瀬ダムを建設することが決定、工期六年、工費一四億円を投じて昭和二八年に完成した。
 吉野川下流(徳島県)の水害を抑える洪水調節及び宇摩平野の三島町(現伊予三島市)外八か町村の農耕地約一、二〇〇町歩を潤し、七、〇〇〇石の米増収を図るかんがい用水、上水道用水三万トン/日、三島・川之江製紙業発展の原動力ともなる工業用水二〇万トン/日を供給する多目的ダムである。また銅山川第一・第二の両発電所による年間五、九〇〇万KWHの発電は、本県での発電能力三一%増、四国全体では五%増と水力に頼る電源開発を主要施策としたこの時期、工業の発展に大きく貢献した。

 四国西南特定地域総合開発計画

 戦後の我が国は、経済の復興を早期に図ることが主要な課題であった。食糧の窮乏、エネルギー等の基礎的物資の不足と自然災害の多発という深刻な社会状況の下で、これに対する緊急かつ恒久的な対策の樹立が必要となっていた。
 昭和二五年五月国土総合開発法が制定されたが、具体的な地域開発施策として「特定地域総合開発計画」が登場した。この特定地域は全国で五一の候補地があったが、二六年一二月、指定一九地域(その後二地域追加)の中に愛媛・高知両県にまたがる四国西南部が指定された。本県は八幡浜市・宇和島市・東宇和郡・西宇和郡・北宇和郡・南宇和郡が地域に編入され、三〇年八月には「四国西南特定地域総合開発計画」が閣議決定された。
 開発計画の基本方針は「地域内における生産の増強と民生の安定並びにこれによる生活水準の向上を図ることにおく。」とされており、開発計画の大綱として国土保全、林産資源開発、水産資源開発、電源開発、交通施設の整備があげられ、開発計画達成期間の目標おおむね一〇年とされていた。
 この大綱に沿って、肱川総合開発事業、鹿野川ダムの建設による発電施設(一万KWH)、三浦・細木航路開削事業、八幡浜港、宇和島港の重要港湾昇格、二級国道松山―宇和島―高知線の一級国道への昇格、主要地方道大洲―八幡浜線、三崎―保内―八幡浜線の二級国道への昇格等諸事業が実現への歩みを続けることとなった。
 この計画は国庫補助率のアップなどの財政措置がとられていたが、三六年以降は後進地域振興法に基づく個別政策に一元化され、本法及び本計画は指定や計画のみにとどまって四〇年以降実効を失ってしまった。
 その後は四国地方開発促進計画の中で大洲市・喜多郡を含めた西南地域の位置づけが行われており、関係県が特定未開発地域促進協議会を結成、法制化運動を続け、五二年第三次全国総合開発計画の中で「開発可能性はありながら諸々の要因により未開発地域で残された課題地域」として西部西南部の名があげられているにとどまっている。