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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

6 災害多発

 対策に追われる 終戦後荒廃した国土に追い討ちをかげた昭和二〇年の枕崎台風をはじめ、二つの台風、次い昭和二〇年代 で二一年七月の台風は県下に大被害をもたらしたが、災害多発は昭和二〇年代の特異現象の観があった。昭和九年以降二四年間の風水害死者数八五六人、全壊家屋八、二一九戸の内、半数は二〇年九月の枕崎台風及び二四年六月のデラ台風の戦後二つの台風によるものであった。その後三〇年ころまで本県は大型台風の直撃を毎年のように受けた。
 中でもデラ台風の被害は甚大で一、六五五隻の漁船が遭難し、八四九隻が沈没、死者・行方不明二三四人、重傷二八人と四国では最大の惨事となった。悲惨を極めたのは宇和海の小漁村日振島で、南予の人命被害の四分の一を占め「デラ未亡人対策」が県議会で論議を呼んだ。この台風で高浜―門司間定期旅客船青葉丸が大分県姫島東方で沈没し、死者八八人・行方不明五三人の大惨事となった。二五年九月のキジア台風も猛威を振い、全雨量平均は二〇〇ミリ以上、長浜町では六〇〇ミリを超え、海上は風速三〇メートルの風が荒れ海陸に大被害が発生した。翌二六年六月のルース台風もまた強烈で、佐田岬灯台では最大瞬間風速六八メートルを記録し、地上観測では我が国最大、死者・行方不明四四人、建物全壊一、一三一戸、堤防決壊九二六か所、山崩れ九四一か所、船舶の沈没四三一隻を数え、特に東予の水害、南予の暴風害が甚大であった。このように三〇年までに主な台風だけで二〇回、このほか季節外れの被害もあり、年間平均の気象災害額(愛媛県統計年鑑による)は土木被害二八億円、農業固定資産八億円、農作物(収量の七%被害)一五億円となり、これに家屋船舶被害額を加えると六〇億円前後と推定される。この額は県の年間総所得額の約六%にも及ぶ大きな損害であった。
 一方昭和二一年一二月南海地震(震源地熊野灘、震度四~五)に四国地方も襲われ、津波を伴う中強震であったが、県下では死者二七人、傷者三二人、全壊家屋六三四戸に達し、地震後の地殻変動による海岸線の地盤沈下は高潮被害などの後遺症を残し、予想を超える土木災害を誘発した。また、地震時には道後温泉の湧出が一時ストップしたが、二二年一月復旧して関係者は胸をなで下ろした。
 県では、二二年七月「愛媛県災害対策要綱」を改め、知事を本部長とする県災害対策本部を設置し、また地方事務所には地方本部を設け、災害時の救護、応急復旧、輸送などの活用動員体制を整えた。さらに災害救助法による実施機関として災害救助対策協議会(会長=知事)へと組織替え、知事を隊長とする災害救助隊(事務局=社会課)を実動部隊として地方機関がその下部組織となった。災害時には日赤救護班などの協力を得て被災者の収容援護、炊き出し、被服寝具や医療救助、学用品支給など応急業務に活躍した。二四年水防法に基づく水防協議会(水防本部事務局=河川課)も発足し、市町村、消防団などを実施部隊とする水害防除体制も逐次整い、三四年の水防無線所の設置へ発展していった。

 災害復旧

 終戦後新生の県土木部は昭和二一年三月誕生した。県土復興の懸案が山積する中、二一年九月の県会では肱川・重信川改修に関する意見書が採択され、水害に当面した実情が浮き彫りにされた。これと並行して災害により寸断された道路網の復旧、特に主要河川で流失・倒壊した橋梁の復旧が復興の主眼となった。
 初代土木部長池本泰二は、高名な橋梁技術者江戸良三(温泉郡川内町出身)を県に迎え入れ、県下の被害橋梁の本格的復旧に踏み切った。肱川水系の祇園大橋、冨土橋・逆*(投に石)橋・坊屋敷橋・鹿野川大橋など、また広見川水系では天神橋・三島橋・川上橋など、さらに重信川大橋などはその例である。当時はセメントや鋼材が乏しく、後任の土木部長青笹慶三郎は、山口県光市の旧海軍工廠の払い下げ廃用鉄材一〇〇トンを活用、五郎大橋・天神橋・長尾谷橋などの架橋用材にしたエピソードもある。
 終戦前後、台風被害の大きかった肱川水系の復旧については、戦後いち早く建設省肱川工事事務所が開設され、国の直轄事業で進められた。重信川水系も同省重信川工事事務所が設けられて下流の松山市地区を管轄、上流の重信町地区は県営の重信川復旧工事事務所が新設され、国・県の直営工事が並行して進められた。
 南海地震後県下の海岸線は全域に五〇~一〇〇㎝の地盤沈下を起こし、これが直接要因となって台風の度に波浪や高潮による二次被害が続発した。これに対し、国の補助事業として高潮対策事業が県下一円に実施された。県松山土木事務所管内の和気―浅海海岸は、災害復旧助成事業として特設の北温復旧事務所が工事を行い、六年がかりで完工した。高潮対策は昭和二〇年代を通じて継続して実施された。
 戦後の度重なる風水害の発生は、戦時以来放置してきたため、護岸、堤防が弱化した大中河川、水源涵養や砂防を怠ったまま強行した山林の乱伐などにも遠因があると思われる。県下の河川は、肱川・重信川の国直轄河川だけでなく、中小河川の河川改修、災害防除が急務とされ、県では二八年ころまで河川・砂防費の予算合計は道路橋梁費を上回る額に上っていた。これに水害による被害橋梁の復旧・新設を加えると、直接・間接の土木事業における災害負担の重さが歴然とする。二四年には土木費のうち災害土木費が四分の一の三億八、○○○万円を占めており、昭和三三年には「台風常襲地帯における災害防除関連法」の適用を受け、喜多・上浮穴二郡を含め南予の全郡市が指定を受けた。気象の平穏化と復旧工事の成果が現れてきた三〇年代には、台風災害県と呼ばれる芳しくない評価もようやく薄れ、災害土木費も二九年の一一億九、〇〇〇万円を峠に激減し、三六年には半減した。しかし二〇~三六年の災害復旧事業費の合計は国県市町村工事を合わせて二〇〇億円の巨額に上り、戦後の苦い「災害多発時代」の跡を残している(表3―8参照)。

表3-8 各年災害復旧事業費調

表3-8 各年災害復旧事業費調