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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

4 勤務評定

 全国初の勤務評定

 吉田内閣時代から鳩山内閣時代にかけて、政府・与党は教育改革を重要課題とした。その意図は、教育の場における政治的中立性の確保にあった。
 この時期、日本教職員組合(日教組)は、全国の小中学校教員の大多数と一部の高校・大学教員五〇万人前後を組織する強大な団体に発展していた。そして労働組合本来の役割である教員の経済的要求に関して交渉力を持ったばかりでなく、総評系労働組合の一つとして選挙に際して大きな力を発揮し、保守の政治的基盤を危うくするほどの力があった。
 このため、昭和二九年六月「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する法律」と「教育公務員特例法の一部を改正する法律」の、いわゆる教育二法が公布された。
 ついで保守合同後の鳩山内閣のもとで、政府・与党が第一に着手したのは、教育委員会法の改正であった。教育委員の公選制を任命制に改めることを内容とする「地方教育行政の組織及び運営に関する法律案」は、三一年三月八日、第二四国会に提出され、社会党、日教組、一部教育関係者の激しい反対を押し切って、六月二日成立した。このような政治情勢のもとで、本県の勤務評定(勤評)への動きが始まる。
 昭和二七年度以来財政状況の悪化した本県は、赤字解消のため、三一年度に地方財政再建促進特別措置法に基づく財政再建に乗り出すこととなった。県は、財政再建計画(三一年度~三五年度)の策定に当たり、三一年度の昇給財源を抑制したため、昇給・昇格の完全実施が困難となった。そこで県当局は、年度の初めに当たり、県職員・教職員・警察職員のすべてについて、昇給・昇格は勤務評定に基づいて実施することを宣言した。勤務評定問題はここに端を発する。
 三一年一〇月一日に、新教育委員会法に基づき五人の県教育委員が任命された。新しい県教育委員会は委員長に竹葉秀雄を互選し、教育長に大西忠(前民生部長)を任命した。
 県教育委員会は、「県費負担教職員の勤務成績の評定は、都道府県教育委員会の計画の下に、市町村教育委員会が行う」という新法の規定に基づき、一一月一日、全国に先駆けて、同年四月からの教職員の昇給・昇格は勤務成績の評定によることを決定し、市町村教育委員会に対して小中学校の教職員の勤務評定書の提出を求めた。
 自民党県連は、勤務評定の実施と教育委員任命制の施行を県教職員組合(県教組)粉砕の好機ととらえ、積極的に県教育委員会(県教委)を支援した。本県の保守勢力はこれまでに、教育委員選挙をはじめ、二五年の参議院議員選挙、二六年の知事選挙、二八年の参議院議員選挙では、日教組の御三家の一つといわれた県教組の強い組織力に苦杯をなめてきたのである。

 反対の嵐

 一方、県教組は、勤務評定の結果を昇給に結び付けることは差別昇給であるとして、完全昇給を勝ち取ることを勤評阻止の基本的態度とした。
 三一年一一月一八日、教員に対する第一次評定者である小中学校長(当時校長は全員組合員)は、松山工業高校で校長集会(約八〇〇人参加)を開いて、勤評拒否の態度を表明した。以後、愛媛教育向上のため勤評実施の方針を堅持する県教委とこれに協力する市町村教育委員会と県教組は、校長の評定書提出をめぐり激しい争いを展開したが、組合の分断を防ぎ戦線を統一する必要から、最後に県教組側が譲歩した。
 この間、日教組も勤評阻止のため、オルグの派遣あるいは問題を国会に持ち込むなどして県教組を応援した。このため、三一年一二月に、県総務部長松友孟が参議院地方行政委員会で参考人として意見を聴かれ、また、三二年四月に、県教育委員会委員長竹葉秀雄と教育長大西忠が、参議院文教委員会に証人として出頭し証言を求められたが、勤評実施の方針は動かなかった。
 三二年六月、県議会三派(自民党、社会党、中正クラブ)の仲介により、最終的に議長(白石春樹)、議会三派、県教委、県教組間の話し合いがもたれ、協定(六月協定)が成立、第一次勤評紛争は解決をみた。
 九月ころまで平穏を保った勤評問題は、一〇月に県教委が、当面する新給与への切り替えおよび三二年度の昇給実施のため、勤評を前年どおり実施することを決定したことから再燃した。六月協定では、「勤務評定要領は、中小学校長会、高等学校長会、地教委(地方教育委員会)連絡協議会の意見及び文部省基準案を参考として、改正の必要を認めた場合は、県教委が立案する」こととなっていた。校長会・地教委で成案が得られず、また、文部省案の発表も遅延する見込みで、一〇月の時点では新しい案の作成が困難であったため、県教委は従来の要領で評定を行うことを決定した。これに対し県教組は評定要領改訂は六月協定の約束であると県教育長に申し入れ、教育長がこれを否認したことから、再び県教組の活発な活動が始まった。
 日教組は、本県勤評問題発生の始めから勤評に反対してきたが、勤評は愛媛の問題という意識が強かった。文部省が三二年七月に衆議院文教委員会において、秋ころまでに勤務評定基準案の成案を得る見込みであると表明したことから、日教組は勤務評定の及ぼす影響の重大さに気付き、八月の第四三回中央委員会において、初めて勤評反対を闘争方針の前面に押し出した。勤務評定問題が愛媛から全国的な問題に転化する発端である。
 一〇月一三日、県教組は松山工業高校で職場代表者会(約八〇〇人参加)を開いて勤評反対闘争の基本方針を確認。この日から紛争解決の一二月一五日まで、勤評の嵐の吹き荒れるいわゆる「六四日間にわたる闘い」が続いた。校長の評定書提出をめぐる県教委側と県教組との争いは、一一月に入ると最高潮に達した。日教組は愛媛の勤評が全国の勤評への突破口となるとみて、異例の全国闘争指令を出し全組織を挙げて県教組を支援した。勤評闘争は、県教組の闘争から愛媛を舞台とする日教組の闘争へと様相を変えた。
 しかし、県教委の決意は固く、提出期限を三回延長して、評定書の提出を求めた結果、一二月一四日七六七校全部が提出するに至った。
 一二月一五日、県議会議長白石春樹の斡旋により、七者会談(議会三派、議長、知事、県教委、県教組)がもたれ、協定が成立し、さしもの紛争(第二次勤評紛争)も解決をみるに至った。
 一二月二〇日、都道府県教育長協議会は、かねて研究中の勤務評定試案を発表し、三三年度から実施することを決定し、文部大臣松永東はこれを支持する談話を発表した。日教組は、この事態を重くみて、一二月二二日第一六回臨時大会を開き非常事態宣言を発表。こうして、昭和三三年(一九五八)は、まさに「勤評の年」となり、愛媛を中心とした反対闘争が全国的な紛争へと広がっていくこととなった。

 愛教研の発足

 三三年三月、第三回目の勤務評定書の提出は、何らの支障もなく行われた。これは過去二度の激しい闘争を経た県教組としては強力な闘争を行いうる組織状態でなかったこと、校長の組合脱退が相次いだこと、市町村教委が闘争の経験から県教委と一体となって強固な意志で評定実施に当ったことなどに基づくものとみられ、PTAその他県内世論の冷静な判断も大きな支えになったといわれている。
 三一年から三三年までの三年間の県教組の状況をみると、三一年第一次勤評紛争に際し、松山市の校長が組合を脱退したのを皮切りに、三二年には県教委と県教組の板ばさみになった校長のほとんどが郡市単位で脱退した。その他の組合員もこの三年間に全組合員の七割以上が脱退したといわれ、県教組は大きく衰退した。
 昭和三五年(一九六〇)九月、組合を脱退した教員は、「教育専門職としての使命感に徹し、正常な教育の進展を図る」ことを標ぼうし、教育研究団体としての愛媛県教育研究協議会(愛教研)を結成した。
 全国で最初の教職員勤務評定の実施は、本県の教育界を正常化へ向かわせると同時に、県政における保守体制確立の基礎を固めることとなった。