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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

8 第八回国民体育大会

 占領下意気消沈の傾向の強かった昭和二〇年代、スポーツは唯一の民族精神高揚の活路であり、その精華ともいうべき国民体育大会(国体)は国民に生きる験しを実感させる力と美の祭典であった。昭和二七年福島市で開催された東北国体の開会式には、久松知事自ら愛媛県勢の団長として行進の先頭に立ち、国体誘致への熱意を示した。すでに二五年、誘致運動のため愛媛スポーツ振興会議の結成、県議会国体誘致特別委員会の設置、二六年には四国四県議会議長会議で四県共同の四国国体誘致の決議が行われた。同年六月には国体運営などの経験豊かな遊津孟(京都市出身)を県教委体育課長に起用、遊津は国体事務局の中枢をつかさどり、優れた行動力でこの大会運営の立役者となった。
 第八回国体は四国四県の共催で開かれ、秋季大会は二八年一〇月二二日主会場である松山市営競輪場を改装した松山市堀之内の県営陸上競技場で開会式が挙行された。当時本土復帰をしていなかった沖縄の正式初参加を加え、四七都道府県から競技参加者は選手役員一万九、〇〇〇人、行進参加は八、六〇〇人余(本県は井部栄治団長以下五七四人)の選手役員は天皇・皇后両陛下をお迎えして、復興日本の意気高らかに堂々の行進に移った。前回開催の福島県から四国三県を経て、南予をひた走り遠路二、七一〇㌔、走り継がれた炬火は、陸上競技協会理事田辺義治ら六人の保持する大会旗を従え、最後の炬火ランナーとなった本県スポーツ界の長老相原正一郎に捧げられ、「若い力」の合唱裏に炬火台に点火された。聖炎燃え大会旗翻る中、久松知事(副会長)の開会宣言、大会長東龍太郎及び文部大臣大達茂雄の挨拶、柔道競技県選手片山源吾の選手宣誓、続いて天皇陛下のお言葉を賜り、万歳三唱、「美わしの山河なり、若き光呼ぶ四国の地よ…」と第八回国体讃歌の斉唱が二万数千の観衆をゆるがせ、二八種目のうち、本県では一八種目が六市二二会場で行われる国体の幕開けとなった。
 大会の名物ともなったシェル構造丸屋根の仮称県営松山体育館(現県民館)での鉄棒、吊輪などに見せる、アクロバット的な体操の妙技は最大の人気で、長蛇の観客が詰めかけた。県勢の上位入賞種目としては、新居浜市でのウェイトリフティングで、フェザー級の白石勇、ミドル級の清村義明が日本新記録でそれぞれ優勝、ライト級白鳥幸四郎、ライトヘビー級で黒川晋がそれぞれ二位と、新居浜勢が全国制覇を遂げたことは注目に値する。松山市道後公園東トラックでの馬術競技では、貸与馬一般中障害飛越で一色都義・白石英男組が優勝。軟式庭球では、一般女子は三重県に惜敗して二位、ホッケーでも一般女子は東京都に惜敗して二位となった。漕艇競技では一般フィックスで宇和島漕艇、高校ナックルで今治北高校がそれぞれ三位に入賞した。弓道競技では、府県対抗団体で愛媛女子勢は一般小的で三位、ボクシング高校の部でも新田高校が三位に食い込むなどの健闘が語り伝えられよう。総合成績では、天皇杯九位(前回一六位)、皇后杯八位(前回二五位)と躍進をみせ、特に女子の驚異的な健闘が目立ち、この戦績は昭和六〇年代に入っても破られない最高の記録となった。
 国体登山部三〇〇人は石鎚山系縦走コースに挑戦し、県庁前の山男スタイル行進などで大会を飾った。熱闘五日間、二六日に全種目の競技を終わり、暮色迫る堀之内会場で高松宮殿下御臨席の下に、印象的な夜の閉会式が行われた。光と影の交錯する中のマスゲーム、婦人会の松山踊り、女子高校生の「瀬戸のかゞやき」に終幕の妍を競いつつ、閉会のファンファーレとともに聖炎は静かに消えた。閉会あいさつに立った事務局長羽藤栄市(副知事)にとっては、政争にもまれつつ役人生活最後の晴舞台ともなったシーンであった。
 両陛下は二一日高松経由、お召列車で松山着、松山市内各国体会場ほか県立ろう学校、愛媛慈恵会にお立寄りになり、当日及び二二日両日のお泊まりは迎賓館(現県立美術館分館)で、二三日国鉄予讃線経由で高知県へ向かわれた。
 国体の県特別会計予算は、二八年度一億三、四〇〇万円余が計上され、大会のメイン・シンボル県民館建設費約五、四〇〇万円をはじめ、堀之内陸上競技場及び同ラグビー場の整備、道後硬式庭球場整備など県営分五三〇万円のほか、市営分の都市計画事業に組み込んだ施設整備事業は約一、〇〇〇万円に上り、県財政を大きく圧迫したことは否定できない。しかし、この国体施設はその後、本県スポーツ界に大いに活用され、スポーツ人口の増大とともに各競技レベルの向上をもたらし、全国的にスポーツ県として脚光を浴びる原動力となった。