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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

1 久松知事の転針

 副知事制度廃止

 久松県政発足当初における県議会与党勢力は、社会党七人、民主党二人のほか準与党清和クラブの二九人であった。久松知事当選の母体となった社会党は、選挙後副知事羽藤栄市のほか党会計の白形光蕾を非常勤嘱託として県秘書課へ送り込み、県政監視の役目に当たらせていた。
 こうして二六年秋には県教職員に対する一斉一号俸昇給が実現し、革新県政を謳歌していたのも束の間、二七年四月には土木事業指名関係極秘文書漏洩問題に端を発して社会党は、左右両派に分裂するという騒ぎが起こった。この問題は、白形が県土木行政に関し、自由党につながる請負業者を指名から締め出すためのリストを作成していたというもので、漏洩責任の追及から是非をめぐってそれが党の分裂にまで発展するにいたったのである。
 そのころ、県議会の一大勢力である自由党にあっては、二七年一月の再建大会で統一を果たし、県議会の第一党として久松県政には是々非々の態度で臨んでいた。
 当時、県は赤字財政に苦しんでおり、自由党は二八年九月「赤字財政克服三原則」(①大幅な機構改革②級別定数制の実施③職員及び教員の昇給、昇格一時停止)を提げて県理事者に迫り、同時に教員の待遇改善に専心するなど革新色濃厚な羽藤副知事の存在は、県政推進上好ましくないと判断、加えて行政機構合理化の一環として副知事制度の廃止を取り上げ、九月県議会に「副知事を置かない条例」の議員提案を行った。
 廃止に反対する久松知事は、羽藤副知事擁護の姿勢を貫き、県議会は賛成・反対両派激突の場となり、荒れる議場では戦後初の議員懲罰騒ぎまで起こったが、結局三九対一三をもって条例は可決成立した。
 一〇月三一日、知事はこの議決は議会の権限を超え法令に違反するものだとして、再議に付したが認められなかったため、一一月末松山地方裁判所へ副知事廃止条例議決取り消しの行政訴訟を提起し、議会もこれに応ずるなど険悪な情勢となった。一方県財界にあってはこうした事態の推移を憂慮し、県商工会議所会頭滝勇らによる円満解決への要望をきっかけに、大王製紙社長井川伊勢吉、伊予鉄道社長武智鼎、伊予銀行頭取末光千代太郎、井関農機社長井関邦三郎、白方機織社長白方大三郎、愛媛新聞社長平田陽一郎ら六人の県財界有力者が調停に入り、一二月二五日久松知事、井原県議会議長の同意署名を得て、紛糾に紛糾を重ねた副知事制度廃止問題もようやく終結をみる運びとなった。
 調停内容は、「訴訟を取り下げる。二八年度中に副知事制度を廃止する。羽藤の処遇は関係者で善処する。」などとなっており、財政事情好転後の副知事制度復活も含まれていた。
 この後、二九年二月県議会において久松知事は再び副知事制度復活要求を提出したが容れられず、羽藤副知事は三月二七日付けをもって辞任した。
 こうして県政の磁場は左から右へと大きく展開し、従前の与野党は攻守所を変えることとなったのである。

 保革対決の県政

 羽藤栄市退陣の年、二九年八月左派社会党は次期知事候補に羽藤を推薦し、一〇月右派もこれを支持した。一方佐々木長治も前回の雪辱に意欲満々、県政批判も怠らなかったが、自由党県議団の意向が久松支持にあると悟り、「党本部の要請もあり大局的見地から身を退く」と悲運の政治生活に万感の思いを込めて幕を引いた。
 自由党はまず久松一本に絞り込み一安堵したが、一二月県議会では思わぬ波乱が巻き起こった。郷土芸術館(旧久松邸)附属倉庫問題に関する桑原忠博県議の爆弾質問は、野党の知事不信任案にまで発展し、これを契機に知事の早期辞任、知事選挙の繰り上げ執行へと事態は急速に進行した。知事は三〇年一月三日辞任、四日に知事選挙告示と革新野党の虚を突く正月選挙の火蓋が切られた。
 羽藤も「知事の挙止は納得し難い。県民の審判を仰ぐ」と立候補し、身内の争いともいえるかつての同志相戦う場となった。終盤共産党の福島照一は立候補を取り下げ、選挙は久松・羽藤因縁の一騎討ちとなり、久松陣営は「日の丸か赤旗か」と保革対決の立場を鮮明にした。さらに、保守陣営では中央における保守合同の動きをにらんだ白石県議らの提唱で自由・民主をまとめた県政同志会が発足、続いて三〇年一月七日民主党県支部が結成され、支部長武知勇記、幹事長八木徹雄県議、政調会長瀬野良県議、総務会長毛山森太郎、顧問に砂田重政、佐々木長治、今松治郎、村瀬宣親、菅太郎、毛利松平が選ばれた。
 激しい選挙戦のさなか、一月二四日衆議院が解散、一月三〇日投票の知事選挙と二月二七日の衆議院議員総選挙とが重なり、選挙戦は錯綜した。しかし、前回知事選に比して何よりも保守一本化は絶対の重みを持ち、結果的には久松が圧勝し、二五年の参議院選三橋八次郎、二六年の知事選久松定武、二八年の参議院選湯山勇と、全県一区の選挙で連勝を続けてきた革新有利の政治ムードはこの時点をもって逆転した。
 三〇年四月県議選では立川明・向井三治・野間房義らのベテランが立侯補せず、右派社会党の桑原は当選後死亡、岡本悦良・木原主計・大山一男も落選するなど県議会における勢力分野は、県政同志会一九、民主党八、保守系無所属一二、左派社会党七、革新無所属六、右派社会党は議席ゼロとなった。三分された保守三派は県政クラブを結成して久松与党を確認し、会長井原岸高、副会長白石春樹・近藤広仲、幹事長井部栄治、政調会長八木徹雄らを選び、県議会議長には川口満義が選任された。
 知事は「財政再建を第一とし四年間で赤字を解消、副知事制度は復活したい、機構改革・人員整理を断行し、総合開発(道前道後など)の推進を図る。」と第二次久松県政への厳しい決意を明らかにした。