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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

3 産業基盤の整備と企業誘致

 道路・港湾の整備
 〈道路の整備〉

 高度経済成長路線の急速に展開する中で、本県道路の整備は著しく立ち遅れ、産業発展の上からも緊急の対策が望まれていた。このため、県では、国の方針に合わせて計画(三三~三七年)を作成、国庫補助の増額獲得と県単独事業費による道路舗装、低開発地域における県単道路特別整備事業(三四~三五年)、市町村道への改良補助、特別会計橋梁整備計画(三四~三五年)に基づく永久橋架替え事業などの国庫補助事業と県単独事業による効率的な事業の推進に努めていった。
 昭和三〇年代後半に入ると、好況の波に乗る飛躍的な生産の伸びと激しいモータリゼーションの動きの中で。第三次道路整備五か年計画(三六~四〇年)が策定され、さらに第四次五か年計画(三九~四三年)へ移行、国道一一号線は四〇年度、国道三三号線は四三年度に一次改築が完了、国道五六号線は直轄事業として三八年度から着工、こうして急ピッチで旧二級国道も四七年度末には改築が完了した。また、四国初の有料道路として日本道路公団の建設による東伊予道路は、三五年九月完成以来交通緩和の一環として使用されてきた。一方、県単独事業で三七年度から車両制限令対策として抵触区間の幅員調整を緊急施行、国庫補助導入のため非対象区間の改善事業、交通安全施設整備事業、南予及び低開発地域改良事業(三九年)などにより整備促進が図られていった。また、九州・四国連絡道として佐賀関―三崎間のフェリー調査に着手、この改良促進のため国道への昇格にも重点が置かれた。
 三九年東予新産業都市建設推進に伴い、輸送施設の一翼として道路による地域間、都市間、工業地帯連絡ネットワーク形成に重点が置かれることとなり、四四年の新全総においても高速ネットワーク構想が打ち出され、本土との連絡橋、四国高速自動車道の建設が大きくクローズアップされてきた。
 四四年度末における国道・県道改良率は二八・九%(全国四九・六%)、舗装率四八%(全国四六・二%)であった。

 〈港湾の整備〉

 経済の飛躍的成長に対応して、外国貨物、工業原材料及び製品などの国内輸送は全国的に顕著な増加を示し、三六年港湾整備緊急措置法に基づく港湾整備五か年計画(三六~四〇年)が策定された。県においても、外国貿易港、産業港湾を重点に、地域に適合した産業開発基盤となるよう松山、壬生川、川之江、三島港などを中心に整備促進を図ったほか、内海連絡港として島しょ部の諸港など一九港を対象とした。また国直轄事業として三五年四国西南航路船越航路の開削に取り掛かり、四一年度に完成をみている。三九年東予新産業都市建設基本方針に基づき、西条港・壬生川港を合わせて東予港とし重要港湾の指定を受けた。これに対応して西条・壬生川臨海工業地区造成計画、公共ふ頭計画、航路、泊地計画、防波堤計画を検討のうえ港湾計画の改定が行われた。四〇年、社会経済情勢の進展に応じ、第一次港湾整備五か年計画は第二次計画(四〇~四四年)へと改められた。
 県の計画も新産業都市、中央都市圏構想の中核港湾(松山港・東予港)、重要臨海工業地帯の港湾(三島港・川之江港)、国土開発幹線自動車連絡港(宇和島港・三崎港)を中心にそれぞれ整備され、輸送体系の確立が図られるとともに地方産業、生活関連港に対しても整備促進を図り、へき地港湾の整備も計画の対象とされた。また、東予及び岡山県南新産業都市、播磨・備後工業整備特別地域など大規模臨海工業地帯における建設が進展する中で、今後国際航路としてのウエイトが一層高まるとみられる来島水道についても、備讃瀬戸航路の開削に呼応し、四〇年度からその開削調査が行われることとなった。
 第三次港湾整備五か年計画(四三~四七年)に引き続き四六年には第四次港湾整備五か年計画(四六~五〇年)が策定された。この計画は海陸一環輸送、流通合理化、海上交通、港の安全確保、公害防止などの要請にこたえ、産業基盤として広域港湾的視点に立った整備、国民のレクリエーション需要への対応を考慮した観光港の整備などについて配慮したもので、本県では開発港湾として新しく「三島・川之江港」が加えられることとなった。

 臨海工業地帯の造成

 本県には松山松前地区及び東予臨海部に相当の工業集積があり、高度経済成長の続く中で、瀬戸内海地域に面するという立地条件の良さを生かした、大規模な臨海工業地帯の造成が工業開発の眼目となった。県では港湾浚渫と並行して埋立地造成を図る臨海工業地帯造成計画に沿って、昭和三三年一一月、壬生川地区今在家(3号地)の臨海部土地造成に着手した。続いて三四年吉田浜地区の造成を始めるとともに、三五年には土地造成事業を県公営企業局で県営事業として積極的に実施することとなった。
 昭和三九年、東予新産業都市の指定を受け、東予港の建設に伴う大規模な工業用地造成計画を策定、西条地区1号・2号地(西条市施行)、壬生川地区3号・4号地(県施行)の造成を始め、また新居浜地区、長浜町においても臨海工業用地を造成、企業立地を図っていった。

(吉田浜地区)
松山市吉田浜地区は昭和三四年から県営事業で着手、造成面積三九万平方メートル、工業用地三八万平方メートルが、四五年完成し、帝人に売却した。

(壬生川地区)
①3号地(東予市今在家)昭和三三年着手、四二年完成、造成面積五六万平方メートル、住友重機械工業へ五三万平方メートル、四国フェリー、四国電力へ三万平方メートルを売却した。②4号地(東予市北条地区)農林省壬生川干拓地九〇万平方メートル、前面の公有水面七四万平方メートル、計一六四万平方メートルを造成する計画で、昭和四五年、農林省から干拓地の有償払下げを受け、四八年、前面の埋立造成を完了した。旧干拓地には四六年から、住友共同電力及び、四国電力の超高圧変電所が建設された。埋立地には新鋭の住友化学東予アルミ工場が立地したが、その撤収後この跡地使用は田窪工業所(今治市)にほぼ内定されている。

(西条地区)
①1号地 造成面積一四八万平方メートル、住友グループに売却予定で着工したが、アルミニウム不況の影響を受け工事が遅れ、昭和六五年完成予定である。②2号地 造成面積三二三万平方メートル、工業団地として二六八万平方メートルを造成、五五年完了した。三菱電機、通産省太陽光発電プラント、今治造船、真鍋造機など、六三社が立地した。

(新居浜地区)
①磯浦地区 昭和四五年三月、愛媛県が住友金属鉱山から埋立権を譲り受け、県営事業として造成、六〇年三月完了した。造成面積二七・六万平方メートルで、隣接の住友金属鉱山等が関連使用する予定である。②東部地区新居浜市が黒瀬地区二一万平方メートル、垣生地区九万平方メートルを造成中で、黒島地区一七万平方メートルは売却済である。

(長浜地区)
①長浜臨海工業団地1号地「晴海地区」に長浜町が昭和四七年海面埋立による三〇万平方メートルを造成、昭和電工系の昭和サボア長浜工場外三〇社が立地した。②同2号地 晴海地区に隣接した「今坊地区」に2号地を造成中で、造成面積は三五万平方メートルの予定である。


 工業用水・電力の確保
 〈工業用水の確保〉

 工業立地の基本条件として、用水型企業に対しては工業用水の豊富かつ安定的な供給を図ることが重要な課題である。松山・松前地区の工業地帯では、工業用地下水のくみ上げによる地下水位の異常な低下及び塩水化など、地域住民に大きな影響を与え、昭和二九年五月、東洋レーヨンの採水問題、三〇年の深井戸問題など、地域住民とのトラブルが発生した。
 三四年一〇月、県公営企業局では多目的ダム建設関連の工業用水道事業を実施し、工業用水の安定的確保を図ることとした。当面、松山松前地区工業用水道事業では、面河ダムの流量を利用し、日量一〇万六、〇〇〇トンの工業用水を確保して東レ・帝人への給水を図った。
 今治地区工業用水道事業は、昭和四六年玉川ダムの完成に伴い、県営事業で運営され、日量五万五、八〇〇トンの工業用水を今治市及びその周辺工業地帯へ給水している。
 西条地区工業用水道事業は、東予新産業都市の要である西条・壬生川地区臨海部への大規模な工業立地に要する工業用水を確保しようとするもので、黒瀬ダムの完成に伴い、日量二二万九、〇〇〇トンの工業用水を供給できる体制が整っている。
 また、県下地方自治体などにおいても河川開発による工業用水道事業が実施されている(表3-36参照)。

 〈電力の確保〉

 産業基盤の整備のため、電力の確保も重要課題である。
急速な工業開発には四国電力や住友共電の火力発電の増強で対応するとともに、県においても河川総合開発による余剰水力を活用し、県営発電に取り組み、昭和二八年電気局(のち公営企業局)を設置、公益事業として電気事業を実施して来た。
 同二八年、銅山川総合開発事業として柳瀬ダムが建設され、その水カエネルギーを利用して県営初の銅山川第一発電所、同第二発電所が建設された。三三年、四国西南地域総合開発計画の一環として肱川総合開発計画が促進され、鹿野川ダムによる洪水調節の余力を利用する肱川発電所が建設された。三九年、道前道後水利総合開発事業として面河ダムが完成し、その豊富な水源を活用した道前道後第一発電所、同第二発電所が建設された。さらに、五〇年、吉野川水系水資源開発基本計画による早明浦ダム(高知県土佐郡)計画に基づき、水資源開発公団の事業で新宮ダムが完成し、その余水を活用した銅山川第三発電所が建設された。なお、吉野川水系水資源開発基本計画の一部変更に伴い富郷ダム(伊予三島市)が五七年着工、建設中で、また併せて関連の富郷発電所の建設及び銅山川第一発電所の増設も行われている。

 企業誘致

 昭和一九年に立地した丸善石油(現コスモ石油)松山製油所を草分けに、松山臨海地区で戦後の第一号として大阪曹達松山工場が昭和二七年に誘致された。当時松山市の黒田市長は工業港としての「松山外港」整備と併ぜ開発に熱心で、第一期早々の久松県政もこれに協力した。続いて昭和三〇年に開設した帝人松山工場は、アセテート半合繊から後四五年の愛媛工場新設に至る、ポリエステル繊維生産の主力工場に大きく成長を遂げ、全国屈指の合繊工業拠点となった。
 県では、昭和二六年から工場誘致協議会を設け官民の誘致体制を整え、東京・大阪在住の県にゆかりの有力財界人(住友の元老三村起一、エネルギー界の長老松根宗一、元経済企画庁長官菅野和太郎、近畿日本鉄道社長佐伯勇ら)を交えた県外産業経済会議の開催、財界人や立地紹介機関の県内視察など種々手が尽くされた。しかし三〇年代商社系企業群の壬生川進出が見送られた後、企業誘致熱に拍車が掛かり、力のこもった県政の重要施策化を見るのは東予新産業都市(東予新産都)指定前後からのことといえよう。県は東京事務所に専任の主幹などを駐在させ、県大阪事務所と協同して情報、連絡、紹介などに努めた。また、県内工業開発の最前線に三八年企画部開発課、四五年開発部を設け、四四年には県政史上最大の一八億円にのぼる壬生川地区三漁業協同組合への漁業補償を解決し、一気に開発への道を開いた。
 東予新産都地域内でも、特に新居浜・西条・壬生川(のち東予市)にまたがる一六キロメートルの長大な海域は、開発の大眼目であり、新産業都市に照準を合わせた新「東予港」の建設整備が急浮上した。すでに重要港湾の指定を受けた西条、壬生川地区に加えて四四年新居浜港の一部を東予港東港地区に編入し、全域を東予港として一貫した整備を図ることとなった。特に企業誘致と関連して東港及び壬生川地区を最重点に航路泊地の浚渫、防波堤、公共埠頭などの港湾整備及び土地造成に全力を投入した。四国電力も西条火力発電所に八三億円を投じて二五万キロワットを増強、合計四〇万キロワットの四国一の出力で開発に備えた。
 県を挙げての体制に呼応したのは、新居浜市に本拠を置く住友系の重化学工業であり、その新増設ラッシュの第一陣には住友金属鉱山が登場した。のち四八年には三〇〇年の歴史を刻んだ別子銅山の全面閉山、四坂島製錬所の転換と表裏することになるが、新居浜・西条両市にまたがる東部黒瀬地区約二一万平方メートルに進出した東予製錬所は、設備投資一一〇億円を投じ精製粗銅月産一万トン態勢を整え、無公害、コンピューター化の最新鋭銅製錬所として完成、四六年から操業を始めた。続いて住友化学は菊本製造所磯浦工場に一三〇億円をかけ、年産七・五万トンの新増設を行い、四五年、さらに壬生川地区にアルミコンビナートの建設を企てた。差し当たり壬生川干拓地先(4号地)七四万平方メートルに一七〇億円を投じた新製錬所、付属して干拓地(県有)内の住友共電火力発電所(二六万キロワット)と総額二五〇億円にのぼる新産都市発足以来最大の開発となった。この計画は、さらに干拓地九〇万平方メートルを住友化学関連予定地として二次・三次加工部門の立地を図り、総額七〇〇億円以上ともいわれた巨大投資をもくろむ壮大なコンビナートプランであった。しかし、石油ショックに直面し、目標二九万トン・実動一〇万トン、日本でも最大級の住友アルミニュウム製錬東予工場は、四九年一部操業もつかの間で、完全操業の陽の目を見ずに五九年閉鎖解体の悲運を迎えた。
 壬生川3号地五六万平方メートルには、阪神と結ぶ四国開発フェリー航路の基地も実現、さらにそのうち五三万平方メートルに四八年進出した住友重機械工業東予製造所は、橋梁、塔槽、海上構築物など大型構造物の製作に当たり、投費額は五〇億円であった。この住友系企業のラッシュのほか、四〇年、ビデオやテレビ生産の松下寿電機(のち松下寿電子)及び四国積水化学、四四年にはプリマハム四国工場と西条市内陸部への進出が相つぎ、クラレ西条工場の合繊部門も増設された。
 松山臨海地区では、四六年新設の帝人愛媛工場は空港をはさんで七六万平方メートルの地に一七〇億円を投じ、ポリエステル長繊維年産一〇万トン体制を確立した。これに伴い三九年創設の帝人ハーキュレス工場は新設の年産一〇万トンを加え、我が国最大規模の合繊原料DMT工場が出現した。また、伊予郡松前町の東レ愛媛事業場は三八年からポリエステル、アクリルの合繊に重点を移して、レーヨン一貫工場から脱皮、四八年には世界有数の炭素繊維部門を新設した。
 県は、昭和三三年工場誘致条例を制定した。この条例は、企業の新設稼動による事業税相当額の奨励金を交付し、四六年の廃止に至るまでに七三件九六億円に達した。また奨励金に代わる港湾・道路などの公費整備による便宜供与措置はもとより、用地、用水、電力の確保など県政のエネルギーを工業開発に傾けた観があった。この間、中小鉄工団地も四三年、帝人製機松山工場などの二六社、川崎重工業関連の伊予三島・川之江団地の一七社、住友重機械、同化学関連の多喜浜団地の三十数社、来島ドックなどの大西団地の十数社が新設され、伸展著しいものがあった。
 工業開発のテンポでやや立ち遅れた南予など農山村へ誘致の先べんを付けたのは、昭和四六年喜多郡長浜町に進出を決めた昭和電工系の日仏合弁昭和サボア社(のちフランス国営ベネシー社)長浜工場であり、同
社は長浜町の西田町政の強力な受入体制の下、四九年肱川河口晴海団地にアルミ製錬用電極などの生産を開始した。このころから大型臨海型の低迷から脱しようと農村内陸型へ開発志向が移り始め、四七年、県農村地域工業導入促進条例適用第一号として松下寿電子大洲工場の建設が起工された。
 石油ショック後低迷する開発路線の中で、白石県政は環境行政の監視厳しい情勢にかかわらず、西条市の大型埋立を積極支援した。難航の末、昭和五〇年ようやく環境庁の認可を取り付けた西条市の桑原市政は、漁業補償を含め自力で西条新港中心の大型土地造成(三二四ヘクタール)に着工した。完成後、1号地には住友関連、2号地一七七ヘクタールには今治造船など三十数社が契約あるいは進出中で、特に三菱電機の太陽光実験プラントなど軽薄短小や臨空型、未来型産業などの新分野が注目されている。
 新産業都市の開発実績としては、途上で腰を折られながらも工業出荷額では四五年度で指標の一・五倍、五〇年度には二倍の一、〇〇〇億円を超え、全国新産都市一三か所のうち松本諏訪・岡山県南に次ぐ第三位の好成績で、全平均の一・六倍を示した。ただし、人口は四五年四八万人(目標の八二%)、五〇年四九万人(七七%)にとどまっている。

表3-36 県内工業用水道事業一覧

表3-36 県内工業用水道事業一覧


表3-37 県営発電所一覧

表3-37 県営発電所一覧


表3-38 愛媛県工場誘致条例適用企業一覧

表3-38 愛媛県工場誘致条例適用企業一覧