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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

8 新しい瀬戸内海時代へ

 船上会談

 昭和三九年(一九六四)は東京オリンピック開催、東京―大阪間新幹線開通、新産業都市指定と華やかムードの大型プロジェクトが相次いだ。この好機に瀬戸内海開発を提唱する河野一郎建設大臣以下建設・運輸・経済企画・通産の各省庁、道路公団など幹部と国会議員を交え、関係府県主催の「瀬戸内総合開発懇談会」(船上会談)が三九年六月七日神戸発瀬戸内海周航の関西汽船くれない丸娯楽室で開かれた。出席者は大阪・兵庫・和歌山・岡山・広島・山口・福岡・大分の各府県知事及び議長、四国への観光開発、高速交通網の整備促進などが急務とされる」というものであった。
 本県久松知事は、工業及び都市用水確保のための水資源開発を、また渡部高太郎県議会議長は国際化を含めた広域観光ルート開発をこの会議で提唱した。八木徹雄代議士と久松・渡部は議題外に河野と会談し、今治―尾道間の一級国道昇格の約束を取り付け、将来の架橋実現への貴重な布石となった。さらに、懸案の三崎ー佐賀関間フェリーボート運航に河野は初めて民間方式を明言し、民間方式を推進する本県主導のフェリー就航事業の開始へ大きく前進した。
 この船上会談での河野構想は、「塑戸内は東南アジアと共栄する日本の国際的貿易基地群が並立する。各府県の団結で政府に集中投資を働きかけよう」と内海重視を打ち出した。東予・徳島・岡山県南・大分の四新産業都市、播磨・備後・周南(山口)の三工業整備特別地域の七拠点が勢ぞろいする開発ラッシュともいえる瀬戸内ー近未来の西日本発展の中心はここだと読んだ河野の着眼は、当時としては、けい眼であったといえよう。
 中枢地域である阪神と機能的に結ばれながら、自立的志向を持ちつつ未来への潜在力を秘めた瀬戸内の開発ビジョン―新たな「瀬戸内海時代」の到来を疑う者はいなかった。

 現実化する「瀬戸内海大橋」

 昭和三〇年代半ば、工業開発の拠点としての瀬戸内海の開発が急浮上し、開発拠点づくりとそれを結合・強化する主柱ともなったのが中・四架橋の課題である。この発想母胎は、まず昭和三五年ころ、島根、広島、愛媛、大分四県及び関係市町村をメンバーに中国、四国、九州連絡道路の建設推進運動となって現れ、四一年には地元国会議員連盟も発会した。架橋運動が白熱化する第一の契機は、三九年六月の船上会談であった。すでに同年二月促進大会で今治ー尾道架橋を「瀬戸内海大橋」と命名し、同年六月船上会談の途次河野建設大臣が松山へ寄港した際、本県は大橋架橋と中四九連絡道路建設を陳情した。河野は明石ー鳴戸(徳島県)架橋優先の方針を打ち出しており、あくまで備讃瀬戸大橋(児島―坂出)貫徹にかける香川県と並んで、四国三県が三つ巴で争う架橋競争はこのころから激しくなった。
 瀬戸内海大橋は最も多島海的な風景絶佳の芸予諸島(本県の越智郡島しょ部)六〇キロメートルを一〇の橋で結び、一二万人の島民が生活する、開発熟度の高い大島をつなぐ地域開発効果は三ルート中最大である。阪神に直結する東瀬戸内の開発とは一味違って、後の西瀬戸構想にもつながる自立的発展に格段の期待が寄せられた。技術的には三ルート中最も容易で在来技術で可能と強調されたが、一般的には中四架橋の大勢は、河野発言にもあるように東寄りルートに傾いて見え、佐藤首相も一ルート案に固執した。劣勢挽回に必死の策として採算性を主張しようとしたのが会社・公社による架橋構想である。これは国による建設を待つのみでぱなく官・公・私各様の事業主体、特に第三セクター方式の可否、民間資金導入などあらゆる可能性を総合加味した苦心の案であり、現実に大阪・広島財界への協力も求めた。東京大学の八十島教授らに架橋の経済効果調査を委託したのも昭和四二年のころである。
 愛媛県では、建設の意思結集を図るため昭和四二年県瀬戸内海大橋建設推進委員会を結成、野村馬副知事を本部長に、専従主幹二人のほか民間三人(伊予銀行、愛媛相互銀行、伊予鉄道)の出向を受け、財務的に民間ベースの導入を用意したこれらの体制は、四五年の瀬戸内海大橋架橋協力会の発会へつながっていった。四三年委員会は知事を会長に拡大改組し、政官財学各界一五〇余人を連ねる挙県体制がとられた。本県のユニークな架橋推進運動の一環に、架橋預貯金と用地買収がある。架橋推進協力預貯金は四二年から始まり、一か年で一〇〇億円の目標を達成し、四七年までに目標を六〇〇億円に改めた。用地先行買収は買占め防止のため、四四年から県が先行買収を実施し、四七年末までに二〇万平方メートルを取得、同時に漁業補償も進められ、三ルートのうち最も手回し良く準備工作が進んだ。これらを背景にして架橋を現実に政治軌道に乗せるにいたるまでには、佐藤内閣当時の実力者田中角栄(大蔵大臣、自民党幹事長)と太いパイプを通した白石県議ら県議団、井原岸高、八木徹雄、村上孝太郎、村上信二郎ら国会議員団、その他多くの政官民を動員した政治力結集の成果があった。
 昭和四一~四四年は、関係者一丸となって架橋を目指し異常なエネルギーを燃焼した時期で、東京大会一〇回、地方大会七回、懇談会五回と三五年以降集会の大半をここに集中した。こうした運動の結果、四四年五月閣議決定した新全総に三ルートの建設が明記され、六〇年までに建設の方針を決定、瀬戸内海大橋は晴れて政府の公認を受けるにいたった。同年一二月には今治―尾道の新国道三一七号の指定にこぎつけ、四五年度から本州四国連絡橋公団も産ぶ声を上げた。瀬戸内海大橋はその事業計画の中にとり上げられることとなり、四国の離島性を脱却する歴史的な第一歩を踏み出した。

 国道九・四フェリーの就航

 昭和三九年六月の「船上会談」で、河野建設大臣は、九・四連絡の三崎―佐賀関フェリーを民営方式で開設すると発言した。この発言は、公団一本による運営方式を主張してきた大分県の立場を窮地に追い込み、本問題がジグザグコースをとる原因となった。河野大臣の意向に沿って、大蔵省は民間併営方式を支持して、新規事業として九・四フェリー関係予算を三九年度に計上した。
 四〇年三月、日本道路公団総裁上村健太郎より大分・愛媛両県知事に対し、道路整備特別措置法第六条に基づく協議が行われたが、大分県は、公団による一本化に固執する旨の回答を行い、民間併営方式を支持する愛媛県と意見の対立が起こり運動は頓挫した。また、同年八月の衆議院建設委員会には、九・四フェリー関係者(愛媛県野村馬副知事、大分県木下郁知事、豊予商船・田中健之助取締役、宇和島運輸・長山芳介社長)が参考人として喚問され、両県の対立が浮きぼりされるなど溝は深まるばかりとなった。
 こうした膠着事態を解決するため、大分・愛媛両県の国会議員団、県議会議員団の地道な努力が続けられた。四〇年一一月、自民党四国開発委員一行が四国各県の調査に来県したが、その際、副委員長毛利松平代議士が提示した「運航権は道路公団一本にし、民間と公団で各一隻のフェリーを建造、運行を民間に委託する」内容のいわゆる「毛利提案」は、それまで難色を示してきた木下大分知事の顔も立てることとなり、解決への兆しがみえてきた。四一年二月上京した木下大分県知事は、あらためて「毛利提案」を正式に了解し、それを受けて久松愛媛県知事と木下大分県知事が福田大蔵大臣・瀬戸山建設大臣・中村運輸大臣に、さらには佐藤総理大臣へと九・四フェリーの早期就航を積極的に陳情した。また、それまで運航申請を競願していた民間六社も申請を取り下げるなど、すべての懸案問題が急転直下解決された。四二年二月、日本道路公団総裁から大分・愛媛両県知事に対して三崎―佐賀関フェリーボート新設に関する協議書の同意を求められ、大分県は同年三月一六日の県議会本会議で、愛媛県は同年三月二五日の臨時県議会で全会一致可決決定した。道路公団総裁はこれを受け、国の運輸審議会の答申を得て、三崎―佐賀関フェリーボート事業開設免許が、昭和四二年一一月運輸大臣より正式認可された。こうして、河野大臣の発言以来難行してきた九・四フェリー問題も三年振りに円満解決した。それまで着工保留となっていたフェリーボートの建造や接岸施設なども一気に着工され、公団施行事業費四億八、〇〇〇万円、桟橋・物揚場など県単事業費九、〇〇〇万円を投じて工事は進捗した。
 昭和四三年二月、三崎―佐賀関九・四フェリー㈱が発足し起工式が挙行された。翌四四年四月五日、愛媛・大分両県民待望の国道九・四フェリーは、佐田岬半島と佐賀関半島海上三一キロをわずか一時間一〇分で直結する〝動く国道〟として、その開通式が三崎町で挙行された。当日海上は風速二〇メートルのしけとなり、祝賀式に駆け付けた地元住民三、〇〇〇人の待ちわびる中、日本道路公団の大型フェリー第一豊予丸はついに姿を見せないハプ二ングもあったが、嵐を吹き飛ばすように終日祝賀の歓声で町はわいた。

図3-7 瀬戸内海開発の新拠点

図3-7 瀬戸内海開発の新拠点