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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

10 教育・文化の向上

 愛媛大学工学部の移転

 愛媛大学は昭和二四年五月、旧制松山高等学校・愛媛県立師範学校を母体に発足したが、工学部のみは旧制新居浜工業専門学校の後身という成り立ちから新居浜市に立地し、総合大学としての不備不便をかこっていた。三〇年代に入り経済成長期の理工科系教育重視の背景もあり、新制大学間の競争時代の中で「タコ足大学」の整理統合が大学の存立にもかかわる課題となった。三三年、新任の香川冬夫学長は工学部の松山統合構想を掲げて県との協調推進を図り、県政の重要課題に登場してきた。昭和三六年六月学校教育法に高等専門学校に関する規定が設けられたのを機に、工学部の整理統合と国立新居浜工業高等専門学校設置の決議が六月県議会で採択され、知事を会長にした期成同盟会を設けて、両学園のため財界および県市町村から二か年にわたり約一億六、〇〇〇万円にのぼる寄付金集めを実施した。これを一部原資に愛媛大学工学部は、鉄筋四階建ての研究・実験室、講義棟、実験工場など採光にも粋をこらしたデラックスな校舎が三八年七月松山市文京町に完工した。八月末新居浜市からの移転を終り、機械、鉱山(のち土木)、冶金(金属)、電気の各工学、工業化学科に新設の生産機械工学を加えて六学科、さらに移転後の電子・海洋・資源の三工学を合わせ九学科(入学定員三九〇人)に発展、一、五〇〇人を超える工学部に新生した。
 戦前の新居浜工業専門学校は昭和二六年三月廃校となり、新制大学へ包括されていったが、工都新居浜市の産業界の強い要望と技術者教育の伝統が、新しい装いで「国立新居浜工業高等専門学校」として昭和三七年四月、旧工学部跡によみがえった。同校は、中学卒業者を五年制で教育する中堅技術者養成のための学校で、国立一一校中の一つとして、工業化学・電気・機械の三科(入学定員一二〇人)で発足した。

 学力調査問題

 文部省の学力調査は、児童生徒の学力の実態を把握し、学力水準の向上に役立たせる資料とするとともに、教育課程に関する諸施策の樹立、学習指導の改善、教育的諸条件の整備などに利用することを目的として、昭和三一年度から毎年実施されてきた。
 この学力調査が、勤務評定に続いて全国的な問題となったのは、三五年九月、池田内閣の所得倍増計画以来のことである。同年一一月、国の経済審議会は、「国民所得倍増を目標とする長期経済計画」の答申で、「人的能力の向上と科学技術の振興」を提唱した。文部省もこの人材開発計画に対応して、三六年度の学力調査から、中学校については全国の中学二、三年生を対象とする悉皆調査(従来は抽出調査)へ拡充して実施した。
 文部省の方針に対して、日本教職員組合(日教組)は、三六年七月の定期大会でこの調査は、「教育内容の国家統制、改悪教育課程の押しつけの手段であり、人材開発に名をかりて一部の資本家に奉仕する人間形成を目指すものであり、民主教育と逆行し国民に背を向ける教育政策」であるとして反対闘争を行うことを決定した。県教職員組合(県教組)もこれに同調する態度を決めたが、三八年までは特に目立った活動は行わなかった。
 本県では、学力調査を教師の指導力及び児童生徒の学力の向上のために活用するという観点から、県教育委員会(委員長竹葉秀雄)と愛媛県教育研究協議会(初代委員長牧野種三郎)とが積極的に取り組んだ結果、調査結果は年々向上し、三八年度には前年に比して飛躍的な向上をみせた。県教組(委員長井上武夫)は、この驚異的向上の裏には不正があると、三九年六月発行の「えひめの教育」誌で本県の教育のあり方を非難した。次いで同月、日教組が組織した宗像調査団(東京大学教授宗像誠也ほか四人で編成)が来県し、県教組同様本県教育のあり方を誹謗し、学力調査に不正があるとのコミュニケを発表した。本県の学力調査問題はここに端を発する。
 この発表は、調査成績の向上は教育正常化の成果であると評価してきた県教委及び自民党県連に衝撃を与えた。県教育長中矢常繁は早速談話を発表して反論を加え、また、事態を重視した自民党県連(幹事長白石春樹)は、同年六月二四日付で、不正の有無について小中学校の全教員に対するアンケートを実施した。社会党県議団は、このアンケートは教育に対する政治介入であると激しく非難したことから、学力調査問題は自・社両党の争いに発展した。さらに、六月三〇日、県議会本会議で社会党県議岡本博が、具体的に学校名をあげて不正が行われたと発言したことは、各方面に深刻な影響を与えるとともに、政治的に自・社の対決を決定的にした。
 本会議の発言から生じた内外の混乱を収拾するため、八月二七日、臨時県議会が開かれ、岡本発言の事実究明のための調査特別委員会(委員長宇都宮光明)が設置された。委員会は、八回に及ぶ調査の結果、岡本博の出頭拒否、証言拒否を認定した。九月県議会は、この委員長報告を承認し岡本博の告発を議決、議長渡部高太郎は一〇月一六日告発の手続をとった。また、県教委は、四〇年三月、県教組井上委員長を、「えひめの教育(復刊一八号)」において虚偽の記載をし、信用失墜行為を行ったとして懲戒処分に付した。この年一一月、第五回愛媛県教育研究
大会に出席した文部事務次官福田繁は、本県が昭和四〇年度の学力調査において全国第一位となったことを発表し本県教員の努力を賞賛した。
 文部省は、全国都道府県教育長協議会や全国小学校長会・中学校長会の調査改善要望の動きなどを見て、四〇年度の調査から、二〇%抽出調査に改め、四一年一一月には、これまでの調査により教育課程改善のための必要な資料が一応得られたとして、この年を最後に調査の打ち切りを決定、県教委も一二月これにならった。

 県教育センターの設置

 昭和四一年四月一日に設置された愛媛県教育センターは、愛媛県立理科教育センターと愛媛県教育研究所が統合して生まれた教育機関であった。まず教育研究所が、教育に関する基礎的な研究調査を行い、本県教育の改善と教育の研究に資することを目的として昭和二三年一二月に設立された。同研究所は文部省の勧奨で設けられたが、十分な施設が整わないままに愛媛教育会館などの間借りを経て、三八年松山市清水町三丁目の理科教育センターの新庁舎に移ってようやく組織を整備充実した。理科教育センターは、科学技術教育の振興のため文部省が全国都道府県に五年がかりで設置を進める計画の初年度に一、○○○万円の助成を得て三七年四月に設立された。同年一〇月に施設工事に着工、翌三八年七月に竣工し、八月から鉄筋コンクリート三階建の新庁舎で活動を開始した。同センターでは、県下の小・中・高等学校の理科担当教員の指導力と資質の向上を図り、科学技術の時代にふさわしい研修の充実強化と調査研究の促進及び施設・設備の活用を三つの柱として理科教育の発展に寄与することになった。
 このような経緯をたどって、愛媛県教育センターが四一年四月一日に設置された。教育センターは、県下の小・中・高等学校の教職員を対象として各種の研修講座を開催し、現職教員による指導力の向上強化を図るとともに、教育についての各般の研究調査を行うことを目的にしており、第一研修部(教科研究室、教科外研究室、教育相談、進路指導室、資料室)と第二研修部(理科研究室、技術家庭研究室)の組織から成っていた。各種の研究講座には、学習指導、学級経営、進路指導、教育相談、生徒指導、理科教育、理科実験などの講座があり、また幅広い研究調査が実施されてその結果は、「紀要」や毎年の研究大会などで発表された。ほかに、教育史編集や高校教育近代化に関する研究室が臨時的に置かれた。教育史編集室では、昭和四六年三月に『愛媛県教育史』四巻を刊行して、本県教育の歴史を体系づけた。

 青年団活動

 青年団体は戦前には公民養成の修養機関、戦時中には青少年団とほぼ一貫して上命下服の官製青年団であったが、戦後民主化の潮流に乗り、自主的地域的な運動体として若いエネルギーに満ちて再出発した。昭和二二年、県連合青年団(県連青、初代団長一色春男)が発足し、二四年には単位団三〇五、郡市連合一二、団員約七万人を擁し、草創期の激動する民主化運動の推進役となり、後に政界など各界へ雄飛する人材の母胎ともなった。新教育制度のもと昭和二四年制定された社会教育法に基づき、青年団は社会教育団体として中立性不介入性を保障されていた。その後占領政策の転換もあり、三四年には同法改正によって県などの補助金交付が認められ、戦後の青年運動も秩序の中へ位置づける方向が示された。
 県連青は、昭和二〇年代には県教組と肩を並べた革新有力団体として活動、三〇年代に入っても三一年の任命制教育委員制や勤評実施と対決した。三二年の県青年大会は、内外講師の選任問題で県教委と対立し県連青の単独開催となった。県教委との対立は、三五年県教委の出版した青年向けパンフレット「若人の泉」問題で頂点に達した。同書は民主化幻想を戒める警世の書と見られたが、これを「右寄りの挑戦」と受け止めた青年団をはじめ革新陣営を強く刺激し、県議会でも同書をめぐる激しい思想論戦が交わされた。同年五月、県教委は「県連青は政治団体で社教団体と認めない、従って今後は補助金も出さぬ」と強硬態度を決め、その後、単位青年団の脱退が相つぎ、県連青は劣勢に追い込まれていった。
 昭和三九年には県連青批判勢力を結集して、県青年団連合会(愛青連、初代会長矢野伝)が新たに結成され、その後地域青年団の県代表として日本青年団協議会にも加盟した。愛青連は、四二年一九郡市約一万一、〇〇〇人、五八年一九郡市二町五、八〇〇人余とほぼ順調に発展して行ったが、大勢として高度成長期における農山村からの青年人口の県外流出の痛手は大きく弱化傾向は免れない。今日の青年団体の主たる活動はふるさと・敬老・同和・平和などの各運動を展開し、名物〝えひめ祭り〟やスポーツ・文化を競う県青年大会も恒例化している。

 県立美術館開館

 昭和三〇年ころから県下美術団体を中心に起こった美術館新設を望む声は、やがて文化団体、財界へ広がり、県立美術館建設運動へ発展していった。昭和三八年開催の秋季県展から、建設資金造成のため即売展を併設するという出品者の熱意は、建設の気運を一層盛り上げ、四〇年に県立美術館建設期成会が誕生した。四一年県立美術館建設募金委員会(会長知事久松定武、実行委員長愛媛新聞社長高橋士)が結成され、四二年には建設場所も松山市堀之内と決定し、建設への準備は着々と進められた。さらに四三年一〇月、県立美術館建設委員会(委員長佐々木弘吉)が組織され、具体的な建設計画が審議され、実施に移されていった。
 美術館建設工事は、四四年三月一九日に起工、四五年二月二八日竣工した。延床面積四、〇七四平方メートル、鉄筋コンクリート造り、地上三階・地下一階、建設費二億三、〇〇〇万円。建設費のうち、民間の寄付金が一億一、〇〇〇万円を占めたことは、美術館建設に対する県民の熱意を物語っている。
 四五年四月一日、初代館長には愛媛県教育長毛利正光が併任されて、開館設備が進められ、出色の地方美術館として九月一日開館、一般に公開された。

 スポーツの振興
         
 戦後スポーツ復興の息吹は、昭和二〇年一〇月、大日本体育協会愛媛県支部(支部長鞍懸琢磨)の発意から体制を整えて二二年、愛媛県体育協会(県体協・初代会長青木知事)として再発足し、当時一〇競技団体、七地域団体と県学徒体育会(昭和二三年県学校体育会に改組)から構成された。また行政面では、昭和二三年県教委に体育保健課(のち保健体育課)を設置して組織を確立し、当面二八年の第八回国民体育大会の誘致に全力を傾けた。施設面では、二〇年代前半、県体育協会などの熱意が高まり、スポーツと文化の振興を旗印に、当時進駐軍管理下の松山市堀之内の土地返還が実現、とりあえず野球場と陸上競技場の建設に県下高校体育部の教職員、生徒らが半年間手づくり奉仕の汗を流して土堤を築いた。野球場は二三年七月完成、仮設陸上競技場四〇〇メートルトラック(松山市営競輪場と併設)も整備され、国体誘致を機にスポーツ施設の整備が急進展した。同時に県学校体育会から県高校体育連盟が二六年独立、同年六日第一回県高校総合体育大会が早々に松山市中心に挙行された。
 県体育協会は、昭和三五年総会で会長の久松知事を名誉会長に、井部栄治を会長に選び、純民間団体として新発足したが、県政界の余震で県当局とあつれきが起こり、三六年には役員総辞職し、県体協は解散状態となった。やがて関係者の努力で、県と表裏一体の運営を柱に、会長山中義員、副会長相原正一郎のコンビで再発足し、四五年には財団法人となって組織が強化された。
 東京オリンピック大会開催を機に、県体協は「オリンピック愛媛県スポーツ振興会」を昭和三七年に設立、久松知事を会長とし官民に一、〇〇〇万円募金を呼びかけ、選手の育成強化や県民の体力づくり運動を目指した。東京オリンピック後も組織替えを行い、募金を活用して各種のスポーツ振興事業を行ってきた。三九年、県体協の内部組織として県スポーツ少年団が発足し、六〇年現在団員一八、〇〇〇人までに成長した。四一年、日本体育協会が全国四番目の青少年スポーツセンター立地を北条市と決定、四三年工事着工、水泳プール、屋内外競技場、キャンプ場、二五〇人の宿泊棟などが事業費七億円で四八年に竣工した。北条青少年スポーツセンターは、五五年完成した県総合運動公園、五九年に完成の松山市総合コミュニティセンター体育館と並んでスポーツ施設の三大拠点となっている。また、東京オリンピック記念に昭和四三年開設された県トレーニングセンターは、体力づくりに一般・女子などに広く利用された。明治百年記念として四四年一月、約一億円で道後に完成した県立武道館は、柔剣道、空手、なぎなたなど武道の殿堂となった。昭和三九年には、東京オリンピック大会へ走り継ぐギリシャ採火の聖火リレーが九月一二日松山入りし、堀之内の県営陸上競技場で二万人の観衆に迎えられ、オリンピック旗翻える県庁知事室に安置後一四日出発し、上浮穴郡柳谷村で高知県へ走り継がれた。これを機に県体協は、三九年県スポーツ功労賞(のち優秀賞追加)の授与を定めた。次いで五五年の全国高校総体の開催とこれに備える施設整備、選手強化策で県下のスポーツは一層発展していった。なお、個々のスポーツ選手や団体の戦績は『愛媛県史芸術・文化財』〝スポーツ〟の項を参照されたい。
 花形選手を頂点とする学校や職域のスポーツに対し社会体育は地味ではあるが、県民の生活に広く深く浸透しつつある。昭和二〇年代半ばから社会教育の一環として体育及びレクリエーションが奨励され、三〇年代には野外活動、ユースホステル活動のリーダー養成が図られた。三五年には市町村などに「スポーツ教室」を開設、さらに東京オリンピック大会を機に、四〇年一〇月一〇日が祝日「体育の日」と定められ、全国民のスポーツ実践が啓発された。同年体力づくり県民協議会も発足し、農山漁村や母子も含め幅広く体力づくり運動が進められた。特に、昭和四六年白石県政発足以来「県民総参加のスポーツ推進」が生活福祉県政の柱の一つとされ、県民スポーツ大会で、県民体育祭、愛媛スポーツ少年大会、県民皆泳「愛媛海の子運動」などが普及推進された。四三年に始まる城川町の町民総参加による城川オリンピック、四七年、ママさんバレーの普及と熱意を物語る県家庭婦人バレーボール連盟の結成、五三年、県が音頭取りの県コミュニティスポーツ推進協議会の発足など、体力づくりはコミュニティ施策にも登場してきた。