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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

1 激動から安定へ

 保守内紛

 昭和三四年一月、久松知事三選で諸団体の組織化と動員力に強さをみせた自民党は、四月の県議会議員選挙でも大勝し、四二議席という大世帯にふくれあがったが、同時に古参議員を中心とする内部勢力にも変化の兆しが現れはしめた。
 三五年になると議長ポストをめぐる争いは深刻化し、森永富茂、桐野忠兵衛、沖喜与市三者鼎立の形となり、五月臨時県議会で議長に森永富茂、副議長に宇都宮光明が選ばれたものの条件付き就任であった。すなわち白石春樹、川口満義会談で「森永の任期は三五年二一月県議会までの半年」と取り決め、森永からは日付なしの辞表を受け取っていた。
 ところが六月、自民党県議団の一部は主流派への反発から反旗を翻した。メンバーは井部栄治、原田改三、近藤広仲、門屋知照、鎌倉敏治、星加甚太郎(のち脱退)、橋本又一、薬師神志、河内弥衛、清水新平、井上務、藤田定吉、中畑義秋、梶田勝明、森永富茂(議長時代を除く)の一五人で、会長に井部、副会長には門屋が就き、七月には「自由民主党同志会」(自民同志会)として独立、ほかに川口、清家盛義、宇都宮の三人は「自由民主党クラブ」(自民クラブ)を結成したため、主流派の「自由民主党」と合
わせて自民党の交渉団体は三派に分かれることとなった。
 一二月県議会を前に自民同志会側は「議長の短期交替に反対」を表明、五月臨時県議会における自民党県議団の申し合せ事項を無視して対立し、森永議長もまた「五月辞表は本意でない」と前言を翻す発言をした。自民党では森永の背信に激昂、一二月一六日議長不信任案を提出、続いて自民党は自民クラブ、中正クラブの議員ら二八人で本会議を開いて先に提出された森永の辞表を承認し、新しい議長に桐野忠兵衛を選出したが森永自身は議長職を退かなかった。
 こうしていわゆる「二人議長」が出現し、三六年正月をはさんで県内有識者の批判も高まり、事態を憂慮した久松知事は県政財界の長老佐々木長治(元代議士・NHK経営委員)、末光千代太郎(伊豫銀行頭取)、山中義貞(県工業倶楽部会長・南海放送社長)に調停を依頼、国会議員を代表して堀本宜実(参議院議員・自民党県連会長)も加わって四者で斡旋の結果、三六年二月二〇日調停が成立した。翌二一日開催の県議会において森永は陳謝のあいさつを行って議長を辞任、あらためて桐野が議長に選任され、議長争いの幕は閉じられた。

 激闘の知事選挙

昭和三六年二月、県議会では先の議長選出をめぐる紛糾を反省し異例の自粛決議を行ったが、自民党の内紛はますます底流で尖鋭激化し、議会内外人事の割り振りに関する不満も重なって、主流派独善を唱える自民同志会は久松知事の四選阻止、完全野党へと急旋回していった。
 四選阻止のスローガンは社会党県連の三六年二月大会での活動方針とも一致し、共産党も三月党会議で久松県政打倒を打ち出していた。
 一方、県議会内の自民党は同年六月、「久松県政推進議員連盟」を結成、自民クラブもこれに合流、佐々木弘吉を会長とする中正クラブも加わって四選推進への与党体制を固めた。四選阻止と四選推進とは激闘の色合いを強め、八月県民館で開催された自民同志会主催の「県政批判県民大会」では久松、戒田、白石を名指しで批判し、両者の激突はとどまるところを知らなかった。こうした中で三七年一月、新春の今治市長選挙において元副知事羽藤栄市(民社)が保革連合で現職田坂敬三郎を破った知らせは、次期知事選挙に保革連合なら勝てるという閃きとなり自民同志会を鼓舞した。
 同年八月、社会、民社、地評、全労、自民同志会の五派連合で「県政刷新県民会議」を結成し、知事候補として愛媛新聞社社長平田陽一郎に白羽の矢を立て、五派連合の藤田定吉、門屋知照、大山一男、増田正雄、岡本博らの昼夜を分かたぬ猛烈な説得工作が始まり、時の勢いは平田の周辺に渦巻き始めた。こうして八月三〇日平田は五派に知事選出馬を伝え、「親しい久松とあえて争うのは県政に反省を求めるため」と戦後政争の総決算ともいえる選挙戦の火蓋は切られた。
 平田は八幡浜市出身。松山中学、松山高等学校、京都帝国大学文学部卒。毎日新聞社を経て戦時中愛媛新聞社に入り同社社長、南海放送会長、元県公安委員をつとめた県下マスコミ界のトップ、社交性にも優れた典型的文化人で人格・知名度も充分、これを擁立して九月には県民会議を改め「県政刷新県民の会」を結成し、会長に松山市の門屋礼三郎、副会長に松本亨(元南海放送常務)、湯山勇、中村時雄、井部栄治ら五派連合の幹部が就き、この大会で満場一致平田の推薦が行われた。
 九月末、自民党幹事長前尾繁三郎が来県し、久松、平田の調整に当たったが、久松側の本部一任に対し平田は自民党への入党を拒否した。すでに入党していた久松の自民党公認は一〇月二二日未明こうして決まった。
 平田の出足の良さに不安感を抱いていた自民党も久松公認でようやく愁眉を開き、このニュースは早速一〇月二二日松山市県民館で開かれた総決起大会で六、〇〇〇人余の聴衆に伝えられた。しかし南予勢の中には川口をはじめ平田支持に回るものも出始め、自民党は同志会議員一二人を除名した。
 昭和三八年正月明けの知事選挙では数年ぶりの豪雪、荒天を突いて久松側には池田勇人、藤山愛一郎、三木武夫、岸信介ら、平田側には河上丈太郎、江田三郎、成田知巳、鈴木茂三郎など中央の政党幹部が相次いで来援、久松側は中央直結の県政、平田側は長期政権による弊害を正し公正で明るい県政を打ち立てようと訴え、白熱の一戦が展開された。(2 主要選挙の動向参照)
 久松知事四選後の三月、自民同志会は解散し、井部も政界を去った。四月県議選における世代交替もあって県政界は激動期を終り、保守一枚岩の安定期へ入ることとなる。

 公明・共産両党の県議会進出

三八年の知事選挙では現職の久松知事が辛勝したものの平田・元岡稔票の合計では久松票をしのぐ勢をみせ、このことは続く四月の県議選にも反映した。すなわち社会党は議席を四から八へ倍増し、民社党は二と半減、公明政治連盟から一人が松山で初当選した。保守は同年三月自民同志会が解散、政治資金近代化を目指す国民協会県支部を九月に結成、次第に同志会系県議の復党も図られ、自民党は雨降って地固まる結束の兆が見え始めた。その掲げる瀬戸内海時代の開発拠点づくりと広域交通網の整備は、新産業都市指定で拍車がかかり、併せて「党近代化」が新生自民党の旗印となった。学力調査をめぐる紛争を経て県政との対決姿勢を強める社会党に対し、自民党は四一年佐々木弘吉、門屋知照両県議の入党を迎え、三分の二以上の議席を占める優勢で四二年一月の知事選挙に臨んだ。
 社会・共産両党は共闘を組み、切り札の湯山勇(無所属)を知事候補に立てたが、民社党は同調せず一〇万票余の大差で久松は五選を果した。同年九月行われた総選挙では、湯山の転進が響いて社会党は県内全議席を失い、一区は中村時雄(民社)が返り咲いた。同年四月の県議選では社会党は必死に九議席を保ち、民社党も再び四人と倍増、公明党二人(新居浜・松山から各一人)に加えて松山では共産党一人が初当選、以後最盛期には公明三・共産二の議席を数えた。自民党の三五人に対し数的劣勢は明らかであったが、これら少数党は議会内外の活躍で注目された。公明党は自民党の永久政権化に挑戦する「中道革新」を掲げ、福祉、環境、農工の弱小産業育成、日中友好など社・共寄りの協調が目についた。共産党は活発な日常活動や柔軟路戦によって党勢を伸ばし、大衆的前衛党として社会党とは一味違うところを見せ、民社党は国民政党として社・共とは一線を画して現実路線へ傾斜したが、政策問題への取り組みの深さは議会でも注目を浴びた。

 久松知事勇退

昭和四三年ころから公害、石鎚スカイライン、空港拡張など開発と環境保全の不協和音が高まり、同年一二月、社・共共催で久松県政糾弾・刷新の県民大会が開かれ、四四年二月県議会では両党による知事不信任決議案が上程、否決される一幕もあった。この年安保条約廃棄、ベトナム反戦、沖縄返還、日中友好など国際、軍事絡みの喧騒が地方にも押し寄せてきた。同年九月県議会で久松知事は開発のひずみ著増の情勢に対して「過疎過密対策を重視し開発行政一辺倒を改め、生活サイドの行政に十分配慮する」と述べ、公害の規制や辺地対策が新たに登場した。
 昭和四五年三月、久松知事は今期限りで知事の職を退く旨の辞意を明らかにした。五期二〇年にわたる久松県政の終幕である。
 知事は辞任の心境を「人生は二〇年が転機、清新な後輩に道を譲る時期がきた」と担々として述べた。
 四六年一月二七日県庁を去る久松知事に対し、松友孟副知事から「自らの花園を顧みず、県政を花園にされた」と送別の辞が送られた。今後祖先ゆかりの東野(松山市)の地に花木に囲まれた清雅自適の余生を送られることを県民等しく望んだ。
 久松知事は農政及び開発施策に特に卓見を示し、その大らかな器量を活かして下僚のボトムアップを活用、県風振興と豊かな愛媛づくりに大きな足跡を残した。中進県からの脱却の方向付けはこの時期に固められた。久松は、後年「在任中の忘れ難い思い出は二度の天皇・皇后両陛下の行幸啓をはじめ数多くの皇族の来県を迎えたこと、三一年訪米の際、故ルーズベルト夫人の知遇を得たこと、南米訪問で熱狂的な県人会の歓迎を受けたこと、四四年勲二等旭日重光章の叙勲、さらには四五年ブラジル国騎士最高大十字章叙勲の栄に浴したことなどであった」と述壊している。