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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

1 「生きがい追求」の県政

 活かす共同社会的感覚

 第一期白石県政前期は、生活の豊かさを求める施策を第一とし、後期には、生活に安らぎと潤いをもたらす施策(文化社会政策へ志向)を第二とし、この成果を基盤に第二期白石県政(五〇年~五四年)は、幸せの原点すなわち「生きがいを追求」する第三の生活福祉県政づくりへ推し進むことになる。その基本的手段として地域社会の生活基準となる「コミュニティミニマム」と「産業社会基準」とが手掛かりとなる。今や福祉の概念は拡大し弱者救済にとどまらず、生活環境や消費者保護にまで及んで全生活領域を覆い、この広がる福祉を生かすため、コミュニティの役割はますます重要度を加えた。昭和五〇年二月、県が発表の幸福計算(一種の生活環境基準)を基礎としてコミュニティミニマムをつくり上げ、これを地域へ根づかせるには市町村やボランティアの協力を絶対必要としたが、特に施設を補完し地域総ぐるみの地域福祉に期待の大きいコミュニティケアには、これらの活用の外妙策はない。同様に利益社会的感覚を脱して共同社会的感覚への切り替えこそ、新時代に適応する企業の在り方であり、同時に社会的公正やルール作りを示唆するものが産業社会基準的発想であった。また、それは県段階における世直しへの挑戦であり、意識革命の提唱でもあったろう。
 利益追求・個人や法人の肥大・行き過ぎたマイホーム主義などの根っこは経済至上主義であり、戦後史のある段階では経済繁栄の原動力でもあったが、ようやくマイナス作用も眼につき、同時にこの思想の延長線上にある「カネと施設があればよかろう」式のバラまき福祉が頭打ちとなった。高福祉・高負担で崩壊寸前といわれる福祉天国スウェーデンは苦い手本であり、格差・ひずみ・不明朗を是正しようとする成熟社会のあるべき福祉の理想像は共同社会意識の回復であり、コミュニティをその柱とする。家族と家庭のじん帯の回復、コミュニティ及びより広域の地域(経済)振興、伝統と人間性に根ざす文化の掘り起こしもこの路線上にあり、やがて地域主義を標榜する県政の新たな方向へと融合発展をとげていった。

 切り拓く地域福祉

 〔在宅・連帯の日本型福祉〕 我が国人口の高齢化は急速に進んだ。本県はその傾向が特に著しく、六五歳以上の老齢人口比は六〇年一二・九‰で全国平均の一〇・五‰をはるかに上回り、百歳以上となると全国六位の長寿県であった。昭和四八年県福祉部に新たに老人援護課(のち老人福祉課)が置かれ、老人対策はにわかに繁忙の度を増した。孤独で生活力のない人の最後の拠り所である老人ホームの現状は、五一年養護二四(定数約べ五〇〇人)、特別養護二四(約八〇〇人)で、寝たきり老人(約四、〇〇〇人強)が近親者の手で扱いかねてホーム入りするため、特別養護施設は収容数で四倍以上(六一年特養数二七、定数約一、九〇〇人)の急増ぶりを示した。先進国に追いついたはずの「施設福祉」の限界がもう見え始めた。
 もはや老人対策の本命は日本型福祉ともいうべき在宅福祉を新本流とし、同時に施設のコミュニティ利用と健常者の地域コミュニティでの日常活動が期待された。ほとんど全町村に約二五〇人の有給老人家庭奉仕員が独居などの不自由な老人の介護、世話などで約一、八〇〇世帯に派遣されており、さらに相談相
手として六〇〇人の家庭相談員が置かれ、在宅サービス事業としては入浴サービス(温泉を積んだ巡回車もある)福祉電話、介護機材の貸付けなどもある。就職相談には県下八市の職業安定所及び松山市に老人職業相談員が配置され、年間五〇〇件以上の就職決定を見ている。また、五二年一〇か所に老人技能サービスセンターを設け老人の技能の活用を図った。
 地域に根を下ろしゲートボールや会合を楽しむ老人クラブは、組織として二〇の老人福祉センター、三二の老人憩の家などを拠点に活動しており、老人休養ホームが三か所、五六年伊予市に完成した厚生年金休暇センター併設のホームを含む有料老人ホームが五か所設置された。県老人クラブ連合会は五九年には二、一一二クラブ、約一四万人の地域的親睦団体に発展している。また、地域や世代間の交流連帯を深めるため、五一年「おとしよりとこどもの談話室」が、伝説や民話を通じて一四五か所で開かれ、一万人を超える参加をみた。さらに、親・子・孫三世代同居の家族の理想像に近づくため、県単独の老人居室整備資金貸付事業を家施し、期間一〇年・三%の低利で年間約五〇〇件、三~四億円以上の資金が利用された。また、老人の教養向上と交流を図り、老・青・婦三世代を交え老人海上大学を開校、その陸上版として「三世代のつどい」を県内五か所以上で開き、世代間の理解と連帯感の向上も図られた。
 身体障害者対策も自立更生を基調とし在宅福祉に重点が置かれるようになって、在宅重度身体障害者の介護、世話などに一三人の家庭奉仕員が松山市ほか七市に設置派遣されている。また、在宅者の便宜に腰掛便器、浴槽、特殊寝台などの貸与の外、日常生活の便宜向上のため住宅設備の改造補助を年一五件前後行っている。四七年には県費一億円を投じて重度身障者療護施設・松前清流園(五〇人)を松前町に建設した。車社会の交通安全対策として身障者用の横断標識、盲人用白傘、ろうあ者の自転車用バックミラーと日常生活の自立にきめ細かい配慮もされている。
 婦人と児童の対策では、五〇年、母親病気の母子世帯に無料の介護人派遣制度が出来て、年間七二世帯に派遣された。また「ママとボクの広場づくり」制度を四六年に創設、市町村が土地を、県が遊具設備を補助し、五一年には児童遊園地三二七、チビッコ広場二九五、ママさん広場四二、合計六六四が設置された。これらは「手をつなぐママさん運動」とも連動し、児童の健全育成、コミュニティ活動の拠点となった。五一年「太陽のおかあさん運動」が始められ、家庭の太陽としての母性再認識、良い家庭と美しいふるさと作りを柱に一一婦人団体、二八万人を傘下にキャンペーンが行われ、市町村七〇団体が組織化された。県では、老・青・婦を力強く活動させるにはボランティアの活躍が不可欠であるとして、五一年県民たすけあい総ぐるみ運動を開始し、ボランティア憲章、「奉仕の日」の制定、一三施設七〇市町村推進協議会を通じその地域福祉活動の促進、社会奉仕活動センター及び老人社会奉仕団の補助、福祉活動相談員二八人の設置と体制づくりを進めた。昭和五四年にはこれらの推進母体としてボランティア振興財団が設立された。
 〔生活環境整備事業の歩み〕 昭和四六年県生活環境整備長期計画が立てられ、六〇年目標の水道、下水道、清掃施設、公園、住宅、駐車場の諸計画を重要施策として鋭意整備が進められた。しかし、巨額の費用を要する国の事業のウエイトが高く、国全体の社会開発の立ち遅れから脱することは容易でなく、計画通りの進捗は見ていない。
 (1) 水道 水道の対人口普及率は四六年七六・八%でほぼ順調に伸びてきたが、ここから難航した。その内訳箇所数と人口数は上水道二六(約六九万人)、簡易水道四六四(約三一万人)、飲料水供給事業四〇一(二万一、〇〇〇人)、専用水道七九(五万八、〇〇〇人)で計一〇八万人が水道の恩恵に浴している。計画では六〇年目標の普及率を九五%と見ていたが、現実には六〇年八一二か所、八八・九%の普及率を見ている。
 (2) 下水道 四六年当時設置されていた公共下水道はわずかに五市二町で、終末処理場を完備するのは松山市のみという貧弱さであった。公共下水道緊急整備事業で国は、昭和四四~四八年までの間に二兆五、〇〇〇億円の巨費を投入し、県下でも重点整備に努めたが、到底目標には及ばなかった。公共下水道の処理人口比普及率は、五一年七・一%、五五年にようやく一〇%であり、松山、西条、今治、八幡浜、大洲など九市に実施され、全県下広域に平均化はしたが、個々の都市内の事業は低迷を続けた。計画では処理人口一○一万人と見て、推計人口一四七万人に対し六九%の達成をもくろんでいたが、六一年一〇市一組合でようやく一六・八%であり、そのギャップは当然し尿処理にも及ぶことになった。一方、都市下水路は進捗めざましく六〇年には一一四か所、延パイプ一三六キロメートルで一〇〇%完成、小規模整備も合わせ都市の雨水による浸水防除はほぼ達成された。
 (3) 清掃施設 ゴミ処理施設は、四六年時で北条市を除く一一市四町が保有、日常ゴミの五六%を焼却、自家処理二三%、埋立一三%で処分してきた。五二年には三六か所で七七%、五四年には日量一、六〇〇トン、九〇%の焼却可能力を持つようになった。四六年し尿処理は施設処理五六%、海洋投棄及び自家処理各一三%、浄化槽九%などとなっていたが、五四年悪名高かった今治市の海洋投棄は施設整備に伴い廃止となった。計画では、五〇年までに二四施設、処理能力日量一、五〇〇キロリットルを備えて完全処理し、以後は理想的処理法である公共下水道にゆだね、六〇年には処理人口は水洗化七二万人、浄化槽二一万人計九三万人と予測して六九%の目論見であったが、計画と実績は大きくそごを生じた。