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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

2 成熟化する新福祉

 総合福祉センターの建設

心身障害者には「自立」と「家庭や地域の協助」と「公的助成」の三本柱が不可欠である。施設も収容隔離に流れることなく社会との連帯適応、自立につながる訓練開発など社会になじむノーマライゼーションが障害者自身にも自覚されて来た。昭和六〇年松山市道後町に全容完成の県総合福祉センターは通勤在宅者の機能、職業訓練の重視、授産、宿泊、スポーツなど十分配慮され、約一億円かけてつくられた障害者専用運動場は社会適応をめざすその象徴である。県では五四年から調査の青写真を描き、五六年「国際障害者年」を記念に建設を開始した。
 〈身体障害者福祉センター及び更生相談所〉 五七年完成、RC2階、二、九〇〇平方メートル、約七・五億円。センターは中軽度向きでリハビリ・研修・体育館を備えたスポーツなどの指導や便宜供与を行い、相談所をこれに併設し医学的・心理的・職能的な専門判定及び更生相談を行っている。
 〈身体障害者更生指導所〉 重度障害者を入所させ、生活・機能回復及び職能訓練(パソコン、洋裁など)を行い定数五〇人、五八年完成、RC二階、一、五〇〇平方メートル、約四・四億円。重度障害者更生援護施設である。
 〈障害者更生センター道後友輪荘〉 五八年完成、SRC二階、約二二〇平方メートル、約六・九億円。障害者及び介助者などの宿泊・休憩・集会など、温泉利用を組み入れた利用施設で、宿泊能力六〇人である。
 〈老人児童福祉センター〉 五九年完成、RC一階、約二、一〇〇平方メートル、約五・三億円。高齢者大学では園芸・陶芸・俳句などの講座があり、相談・リハビリ・児童とのふれあい事業など健常者向けの研修・相談・交流の拠点施設である。
 〈精神薄弱者更生訓練校-通所授産施設〉 雇用の困難な精薄者に生活・職業訓練及び授産事業を行う施設で、洗濯や軽易な縫製編物など八目目を用意している。定数三〇人、入所期限は五年。六〇年完成、RC一階、五三〇平方メートル、約二・六億円。
 〈精神薄弱者通勤寮わかぱ寮〉 六〇年完成。RC一階、約五〇〇平方メートル、約一・二億円。一五歳以上の就労者の授産施設などへの通勤を通じて対人・対社会適応能力の向上を図り、独立自活を指導促進する。入所三〇人、期限は二年。
 総合福祉センターは用地費一〇億円を含めて総事業費三九億円余に達し、県の福祉事業施設として最大の規模となった。新設の県民文化会館に接し、道後温泉にも近い好環境に恵まれ、運営は社会福祉事業団に委託されている。

 施設と結ぶ在宅福祉

老人福祉対策のネットワークは益々きめ細かく在宅老人福祉対策メニュー事業が登場し、文化・地域交流・園芸・スポーツなどお好みのメニューに応じて助成、園芸・編物などの創作活動にも助成された。より緊急度の高いものでは昭和五五年からねたきり老人介護教室が開かれ、貸与給付物件にはシルバーホン、消火器、火災報知機など独居老人の生命にかかわる器具が登場した。長浜、三間両町に高齢者コミュニティセンターがつくられ、五六年伊予市に完成した厚生年金休暇センターには有料老人ホームも併設された。五八年から老人保健法が制定され、予防検診の強化と同時に医療費増大を規制する動きとなった。
 老人福祉の「在宅と施設」の直接的結合が進められたのは昭和五九年ころからである。在宅の心身障害者の短期療育制度(介護人の事故などによる緊急一時保護)は五七年ころから施設の一時保護事業として年間一〇人前後、延八~九〇日に及び虚弱老人にも拡大されてきた。五九年からは在宅老人を対象に特養老人ホームで、入浴、食事、リハビリを含めた一時保護を実施し、一七施設で一三五人、延一、五五〇日保護を行った。同年松山市及び五十崎町にデイサービス施設(昼間託老施設)が設立され、それぞれ短期保護施設(各一〇人)を併設した。デイサービスでは、二施設で食事三、八六二人、入浴二、六四二人、生活指導二、七一三人、日常訓練三、五〇二人、家族介護教室二一九人、休養三、八七七人、輸送三、四三四人、延三、八七七人となっている。老人ホームの地域開放も入浴、移送、給食、クラブ活動など延三、四九九人と逐次伸びつつある。痴呆老人訪問介護サービス事業も進み、五施設から痴呆二七、ねたきり一四一件の家庭派遣があり、延三三三日に及んでいる。施設と在宅を結ぶ福祉の絆はようやく軌道に乗り、連係は緊密度を増している。
 福祉施設の多様化の一面では、五三年から父子相談員及び父子家庭介護人の制度が設けられ、「母親のいない父子家庭」に対し、五七年には介護の二二人が延二六〇日以上派遣された。

 ガン予防対策と保健行政の進展

 県民死亡原因のトップにのし上ったガンの予防への積極的な取り組みは、昭和四〇年代後半から五〇年代の保健衛生の大きな流れである。まず胃ガン、婦人ガンの検診車が動き始めたが、五二年肺ガン予防に五台が加わった。五九年には胃ガン八、肺ガン七、婦人ガンニ、合計一七台が県ガン予防協会委託(五八年以後市町村の委託事業に切替え)の形で出動、毎年一〇万人(胃ガン約六万、婦人ガン三・六万、肺ガン一万人)が受診し、早期発見や予防に威力を発揮している。県下では五七年死因のトップはガンで二二・九%を占め、死亡者は年二、五〇〇人を超えている。
 昭和五四年四国四県の強い要望に沿って国立病院四国がんセンターが松山市堀の内の国立松山病院に設立された。医師三二人、三六〇床で、同病院の七〇%はガン医療が占めるガン専門医療施設として、CTスキャナーなど新鋭機器を備え精密な検診と高度な治療に当たっている。
 保健行政は、五二年から一・五歳児検診、遺伝相談事業、心臓病機能障害検診、寿健康大学など新事業が目につくが、精神病医療は治療、作業療法の進歩により在宅通院が主流化しつつあり、県立精神衛生センターのデイケアなども併用し、社会適応度の向上に努めている。難病対策には二二病種(五五年)八八〇人に対し、治療費公費負担を実施し、特に重症スモン病には月三万円の公費介護助成が行われた。昭和五一年松山市道後に愛媛看護会館(看護研修センター)が完成し、愛媛看護協会を中核に教育・研修のほかナースバンク登録看護婦(五九年約五百人登録)の再就職あっせん、一日託老所など地域福祉活動も行っている。五三年口腔保健センターが松山市柳井町に移転完成、地域歯科医療と口腔衛生啓発の拠点として、歯科医師などの教育研修のほか休日夜間の救急歯科医療センターも併設、県下の心身障害者施設入所者に対し「おおぞら号」巡回車による検診も実施されている。県保険医療財団(県市町村の六億円基金)は昭和五〇年愛媛大学医学部開設を機に設立され、医療関係機関などと緊密に提携し県民の保健医療向上を目的としている。愛媛大学などの行う難病や肥満防止、農薬被害防止、学童心疾患検診など毎年調査研究の助成、無歯科地域などへの検診、辺地医療や医師確保の調査などを行っている。

 東洋医学研究所開設

 東洋医学と西洋医学の結合を目指した県立中央病院の「東洋医学研究所」が、昭和五四年八月二〇日オープンし、診療を開始した。「東洋医学研究所」は、東洋医学の調査、研究、医療相談と治療を行うため、松山市春日町の県立中央病院に隣接の県立健康増進センター内に診察室、治療室、薬剤局などを設け、本格的な東洋医学研究所として開設された。当初は、東大医学部物療内科出身の光藤英彦医師を所長に、ハリ・キュウ師二人、薬剤師、看護婦、事務職員各一人の計六人でスタートした。公的機関として、東洋医学を導入した研究所は、全国的にもその数は少なく、中央病院の西洋式近代療法と補完しつつ、慢性疾患、老年性疾患などの患者の治療と健康指導、生活指導を行ってきた。その後患者の増大に対応し、五八年一一月に、中央病院隣りに新築移転し内容の一層充実を図った。完成した建物は鉄筋コンクリート二階建て、延べ面積一、三八七平方メートルで、建設費は二億八、〇〇〇万円。診察室は約三倍に拡充、べット数は六床から一八床に増え、研究室・会議室も完備された。スタッフも将来一五人に増員する計画で、難病や腰痛・神経痛などに悩んでいる患者から期待されている。

 救命救急センター開設

脳卒中や心臓病など初期、第二次救急医療施設では治療できない重症の救急患者を対象に、高度な治療を行う本格的な第三次救急医療施設として「県救命救急センター」が県立中央病院内に新設され、五六年四月から診療を開始した。
 同救命救急センターは、県内の救急医療の体系的整備を図るため、従来の初期、第二次救急医療施設及び重篤患者の搬送機関との円滑な連携体制のもとに、第三次救命救急重篤患者の医療を確保することを目的として設置された。完成した建物は、地下一階、地上六階建て、延面積八、六九八平方メートルで、総事業費二九億三、三〇〇万円となっている。一階は初期または第二次救急医療施設から搬送されてきた急患の外来診療部門。二階は特定集中治療部門で、重症患者を診療するICU(外科的集中治療施設)、CCU(内科的集中治療施設)など重症患者用のべット三〇床が用意され、全床モニター監視付きとなっている。原則として入院は一週間となっているが、長期入院が必要な患者は、後送ベット(三階~六階、一五〇床)に送られる。診療は医師二交替で二四時間年中無休体制をとり、いつでも急患を受け入れることができる。
 また、センターは、第三次救急医療施設のため、原則として第二次救急医療施設からの紹介制度をとっているが、人命尊重の立場から、センター医師の判断で初期医療施設から紹介の重症患者も診療している。したがって、各科の専門医師、看護婦をはじめ、薬剤、検査、放射線などセンターの全診療科が協力して常時待機し、コンピューター付頭部X線断層撮影装置、集中患者監視装置など最新の高度な機器を駆使して、十分な治療が施せる体制と施設が整っている。
 開設後五九年度までに、当センターを利用した患者数は、延四、四七三人となっており、運営は順調に軌道に乗っている。

 保健医療計画と医療技術短大設置

 県は五年がかりで昭和六〇年地域保健医療基本計画を策定し、望ましい保健医療体制を方向づけた。その骨子は、①保健医療圏の設置、②生涯健康づくりの推進、③医療供給体制の整備充実、④保健医療従事者の確保、⑤保健医療情報システムの整備の五つからなっている。
 その主なものは、保健医療圏は一次を市町村、二次を保健所または地方生活経済圏、三次を東中南予、四次を全県単位に区分している。また、重篤患者に対処する「三次救急医療施設」は松山市のほか東、南予の二公立病院の指定整備を当面の急務とし、同時に健康増進センターも東、南予各一の増設が望ましい。救急医療には脳障害、頭部外傷などのほか、周産期及び自傷他害の精神病対策も検討が必要であり、健康管理及び地域医療のシステム化については、胎児から乳幼児を経て青壮老年まで、生涯一貫の健康情報及び地域包括医療(健康増進、治療、リハビリなどを総合)、すなわち地域・職域・学校の生活総合を図りライフサイクルを見直すことが必要である。このためプライマリーケアとしての「かかり医」制度を重視する。腎移殖など特殊専門医療の整備及び増加する老人のねたきり、痴呆化防止のため専門医の設置、地域を含めた在宅ケアや福祉施策との連係が不可欠となる。医師及びコメディカルスタッフのリハビリ技術向上のため中核的施設での研修、人材養成を図る。辺地医療には初期治療のネットワーク充実のほか搬送手段の高度化(救急車船、ドクターズカー、ヘリコプターなど)、遠隔地診療に高度情報通信システム(心電図などのデータ送信にファクシミリ、双方向テレビなど利用)が期待され、更にテレトピア計画と整合し、松山圏からキャプテンシステムを導入、将来は地域INSを導入して保健医療情報システムの柱として機能させる、といった内容であった。
 県立医療技術短期大学の設置は、五九年以来既存の県立公衆衛生専門学校(松山市清水町)の看護婦及び保健婦、助産婦養成課程と臨床検査専門学校(松山市生活保健ビル内)を統合して短期大学に昇格する構想で推進され、砥部町高尾田に敷地約三万平方メートル、建物約一・二万平方メートルの建設が進められ六二年秋に完成、建設費約四四億円。一〇〇人を超える教員と完備した医療技術教育施設を備えて、看護及び臨床検査の専門家養成の短大が県下で初めて昭和六三年四月開校した。入学定員は第一・第二看護学科で各五〇人、臨床検査学科二〇人、また、保健婦養成の地域看護学専攻四〇人、助産学専攻二〇人のコースは六六年から増設の予定である。専修学校である公衆衛生専門学校は一部移行制のほか歯科衛生士、同技工上課程六〇人のコースを将来も残存し、医療技術短大と二本建で専門技術者の養成に当たる建て前となった。

図3-12 総合福祉センター配置図

図3-12 総合福祉センター配置図