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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

4 基幹交通体系の整備促進

 瀬戸内海大橋「大三島橋」開通

「昭和のロマンを具現する夢のかけ橋」とうたわれた本州四国連絡橋の一環をなす大三島橋は、国の総需要抑制策による着工の一時凍結など、波乱にみちた道のりをたどりながら、各ルートとの熾烈な架橋競争をしのいで、本・四架橋の最初の橋としてようやく着工にこぎつけ、昭和五〇年一二月二一日起工式が地元上浦町で行われた。
 この起工式が起爆剤となったように、五一年七月の明石-鳴門ルートの大鳴門橋、翌年一月の因島大橋、さらには五三年一〇月の児島-坂出ルートの起工式へと進展して、瀬戸内海時代の到来を思わせた。着工以来、本体工事を含む取付け道路などの関連工事は、当初の工程計画通り順調な仕上がりをしてきた。しかし、一方では架橋に関連する漁業補償、旅客船対策、船舶用レーダー映像など付随する多くの難問題とも取り組み、四年余の歳月を費して昭和五四年五月一一日、悲願の完成の日を迎えることができた。
 開通式は大三島橋西詰(上浦町側)で行われ、五月晴の下、建設大臣渡海元三郎、本四連絡橋公団総裁尾之内由紀夫、愛媛県知事白石春樹、広島県知事宮沢弘ら九人がテープにはさみを入れ、愛媛県警音楽隊の「本四連絡橋の歌」が演奏される中、羽織・はかま姿七組の親子三代夫婦を先頭に出席者が渡り初めをした。
 伯方中学校体育館の祝賀会には、愛媛・広島両県選出の国会議員、地元町長、工事関係者ら七〇〇余人が出席した。まず渡海建設大臣が「両島の人たちが、この大三島橋の完成を契機に、輝かしい未来を築かれるよう」と、あいさつ、続いて尾之内本四連絡橋公団総裁から協力感謝のあいさつのあと、地元を代表して白石愛媛県知事は、「夢のかけ橋といわれた連絡橋が、現実のかけ橋となった記念すべき瞬間を目のあたりにし感動している。県民はこの日の来るのを千秋の思いで待ちわびていた。今後は瀬戸内海大橋全ルートの完成に着実な歩みを続けたい」と、万感こもるあいさつが述べられた。
 尾道-今治ルートは、三九年に瀬戸内海大橋と命名され、広島県尾道市で一般国道二号バイパスから分岐し、広島県側の向島・因島・生口島を経て、愛媛県側の大三島・伯方島・大島の島々を一〇本の橋で結び、今治市で一般国道一九六号バイパスに連絡する総延長六一・一キロメートル(海峡部九・三キロメートル、陸上部五〇・八キロメートル)の一般国道三一七号である。
 大三島橋は、このルートの大三島と伯方島の間を結ぶ橋で、大三島IC(インターチェンジ)と伯方島IC間の六・八キロメートルが同時に供用開始された。
 大三島橋の全橋梁区間長は五三五・二メートル(橋長三二八メートル)、幅員は二〇メートル(四車線)の単径間ソリッドリブ2ヒンヂアーチ橋である。アーチ橋としては、支間長二九七メートルは、世界第一四位で、ソリッドリブアーチ橋としては世界第四位(東洋一)の橋である。上部工には総重量五、〇一二トンの鋼材が使われており、下部工には総容積二〇、六九〇立方メートルのコンクリートが使われて、三年三か月の工期と建設費一八四億円(橋本体工費六二億円)が投入された。
 架橋地点の鼻栗瀬戸は、潮の干満差約四メートル・八ノットの渦巻く瀬戸で、一日三〇〇隻余りの船が往来する可航幅約二四〇メートルの狭水道である。そのため桁下余裕高二六メートルを確保して船舶の航行に対処しており、特に工事中の一般航行般舶の安全のため万全の架設工法を採用し、無事故で工事を完成することができた。またこの附近一帯は、国立公園第二種特別地域に指定されており、恵まれた自然の景観に調和するアーチ型式を採用し、塗装についても、専門家による慎重な検討の結果、ライトグレーを採用するなど、近代橋梁技術の枠をこらした「夢のかけ橋」にふさわしい橋である。尾道-今治ルート一○橋の中でも、大空高く虹の弧を描き個性に富む大三島橋は、その優雅な姿を瀬戸の海面に影を投じて、観る人々の心を和ませてくれている。

 松山空港の拡張整備

県勢の進展に伴い、航空需要は飛躍的な伸びを示し、昭和四八年八月にはB727型機が就航した。増便と機種大型化に伴い環境保全の上で空港周辺地域における航空機騒音が問題となった。将来の空港運営と地域環境保全の見地から、この騒音障害防止対策は緊急かつ重要な課題となり官民努力の結果、四九年六月松山空港は「公共用飛行場周辺における航空機騒音による障害の防止などに関する法律」の規定による「特定飛行場」の指定を受けた。同四九年一一月騒音区域が定められ、緩衝緑地整備、家屋などの移転、土地の買い取り、家屋防音工事などの騒音対策事業が行われた。続いて五一年度からは第三次空港整備五か年計画に沿って、長期的展望にたった民家防音工事、家屋移転などの環境対策事業と空港基本施設などの整備が進められた。
 航空機利用の増勢は、五三年にはジェット機就航時(四八年)の旅客数の二・一倍、三八〇万人に達する勢いで、これに対応して、福岡便の開設、空港ターミナルビル増築などが進められた。さらに航空機大型化による混雑度の解消、将来の国際化への対応などのため、抜本的な対策としては滑走路延長が最も適切であるとして、五三年九月松山空港整備検討委員会が発足、同一二月には松山空港整備促進協議会が設置された。五四年度から三か年にわたり、県独自の環境アセスメントなど松山空港整備調査を実施する一方、滑走路延長について国に積極的な要請を繰り返した。五四年四月には国際チャーター便の第一便が香港へ飛び立ち、松山空港国際化は現実に新たな利用に向けて動き出すこととなった。また需要増への当面の対応策として新機種による中型ジェット機導入及び施設改築についても検討が進められた。
 県では五六年四月から交通体系促進のため特定事業局を発足させ、松山空港の拡張整備の促進、周辺地域の整備にかかわる連絡調整などの積極的な対応を行ってきた。五七年中型機用エプロンバースが新設される一方、県では松山空港周辺対策協議会を設置し、諸種の対応を図るなど県・地域あげての努力が続けられた。五八年四月には松山空港整備基本計画が定められ、念願の滑走路を五〇〇メートル延長して、二、五〇〇メートルとし、併せてターミナル地域を拡張することが決定した。六月にはトラベーター(乗降施設)も増設され、中型機B767型機が就航した。六〇年漁業補償が締結され、同年一〇月埋立工事に着工し、二、五〇〇メートル滑走路の完成へと歩み出した。空港総面積一、三五三、八九三平方メートル、スーパージャンボ・トライスター級の大型機が就航可能な空港として、六六年四月開港に向けて諸工事が進捗している。

 四国高速自動車道の着工

 社会基盤の整備が著しく立ち後れている四国地方にとって、四国高速自動車道は本州四国連絡道路と相まって、四国の一体化、社会・産業・経済活動などの発展に必要不可欠の根幹的プロジェクトである。
 四国には国土開発幹線自動車道の予定路線として、いわゆる四国縦貫自動車道(徳島市-大洲市間二二三キロメートル)と四国横断自動車道(高松市-高知市間一五一キロメートル)の二路線が計画決定されており、これらは川之江ICでX字型に連結されている。この路線が開通すると、四国内は一日交通圏内に包含され、さらに本州四国連絡道路とネットワークされると、四国の離島性は解消され、名実ともに「四国新時代」の到来が約束される。
 四国高速自動車道の皮切りとして、四四年一月に徳島-脇町間の基本計画が決定されて以来各地域間の追加決定が行われ、四八年一一月の池田町-川之江市間と松山市―大洲市間を最後に、四国全線の基本計画決定が完了した。さらに五一年四月に善通寺市-川之江市・伊予三島市間の路線発表が行われて、具体的着工への第一歩が踏みだされた。これらの各路線発表と相まって、四国各県は具体的着工を競い、道路
公団から委託の用地買収などに全力を投球したが、その着工の草分けは、五五年四月三島市で行われた三島・川之江―土居間の起工式であった。
 起工式は中内高知、白石愛媛、前川香川の三県知事、建設省事務次官粟屋敏信らが鍬入式を行い工事の安全を祈願した。つづいて、伊予三島市公会堂での起工祝賀会の席上、白石愛媛県知事は「四国縦貫自動車道(川之江ー高松間)の基本計画が決まったのは四五年のことであるから、われわれは今日この佳き日を迎えるまで、一〇年間も待だされた」と、四国における高速国道の建設の遅かったもどかしさと、ようやく起工式を開くに至った喜びとを交えた感懐を述べた。
 今回着工したのは三島・川之江-土居間で、幅員は四車線、一般土工工事の外に橋梁一六橋とトンネル(的之尾)一つを含む一一キロメートル区間である。特にこの区間は我が国第一の中央構造線が併行して縦走しており、トンネルの一部はこの地質帯に計画されていて、難工事が予想されたのである。

図3-13 四国縦貫・横断自動車概略ルート図

図3-13 四国縦貫・横断自動車概略ルート図