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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

2 主要選挙の動向

 知事・県議会議員選挙(昭和四六・五〇・五四・五八・六二年)

昭和四五年三月五日、県庁で記者会見を行った久松知事は、次期知事選に出馬しない旨を明らかにした。
 自民党県連では、三月一五日早速臨時大会を開いて知事候補に白石春樹を決定、社会党県本部でも同月二九日湯山勇を知事候補に推すことを決めた。
 両陣営では「愛媛をゆたかにする会」(白石派)と「清潔で明るい愛媛をつくる会」(湯山派)を結成し、それを母体にはげしい前哨戦へと突入した。
 四六年一月一日選挙告示。選挙法の改正によって新しく採用されたテレビによる政見放送は、生き生きとした候補者の声と姿をそのまま茶の間に映し出し、立会演説会はあふれるような聴衆で熱気を帯びて県下各地で開催された。庶民的なレンゲ草のあり方を基本姿勢に生活福祉県政を訴える白石候補、明るさと清潔さを県政へと説く湯山候補。選挙運動にも工夫が凝らされ、候補者を強く印象づけるイメージ作戦-青色ドーナツ型の輪(湯山派)とオレンジ色の太陽(白石派)を型どったシンボルマークは市町村の隅々にまであふれた。
 一月二六日の投票日、県下一円は急に冷え込み、朝から雪がちらついて松山地方では午後からはげしい降雪に見舞われた。それでも投票率は七九・三%(知事選挙では戦後三番目の好成績)と、選挙民の関心の深さを示し、二六年、三八年選挙に続く激戦といわれた選挙の開票結果を県民はかたずをのんで見守った。午後八時三〇分から一五分ごとに発表された開票速報は、当初より白石候補の優勢で進み、夜半前、二万一、〇〇〇余票の差をもって白石候補の当選が決定した。
 次の知事選挙は五〇年一月に行われた。立候補者は三人であったが事実上は白石春樹、野村晃の保革対決で、結果は一四万四、〇〇〇余票の大差をもって白石候補の圧勝となった。
 このあと、知事選挙は白石県政のもとで五四年(三期目)と五八年(四期目)の二回行われているが、いずれも白石候補の圧倒的勝利に終っている。(表3ー54参照)
 次に知事選挙と並んで四年ごとに実施される県議会議員選挙の結果については表3-55に示すとおり、保革の分野では保守安定路線に変わりはないものの、三分の一乃至四分の一程度の議員が選挙のつど交代している。
 昭和六二年一月一一日、公選第一一回目の本県知事選挙が行われた。立候補者は二人、自民・民社・公明の共同推せんになる前副知事伊賀貞雪と共産党の推す山田明。
 選挙の帰趨は当初より明らかであった。そうした事情を反映してか、選挙人の出足は鈍く、投票率は五五・六一%、知事選としては過去最低を記録したが、伊賀候補は有効投票の七三・四%にあたる四四万六、〇〇〇余票(本県知事選としては最高)を獲得して、地域的には県都松山市をはじめ全域で圧勝、二八万四、〇〇〇余票の大差をもって初当選を果たした。(表3-54参照)。

 衆・参両院議員選挙

 昭和四〇年代後半から五〇年代末にかけての中央政局は、「保革伯仲」実現によってかなり流動的であった。
 四七年七月に成立した田中内閣は、日中国交回復に成功し「日本列島改造論」を掲げて一二月総選挙に臨んだが、物価上昇にあおられて失敗に終り、自民党はこの選挙で一挙に一六の議席を失った。続く四九年参議院議員選挙では保革伯仲、五一年の衆議院議員選挙でも、自民党は公認候補での過半数割れ、五四年総選挙では中道政党に押されて巻き返し成らず、五五年の衆・参両院議員同日選挙でようやく保革伯仲時代を脱したものの、それもつかの間、五八年総選挙では再び減少し、保革伯仲へ逆戻りするという有様であった。
 一方、本県政界にあっては、こうした中央政界の動きとは裏腹に、衆・参両院議員の選挙いずれも保守優位の態勢に変化はなかった。
 まず、衆議院議員の選挙であるが、四七年選挙で当選九回の高橋英吉
(自民)と当選五回の菅太郎(自民)が落選し、次の五一年選挙には自民党県連会長の井原岸高が落選するなど新旧交代の波をひしひしと感じさせた。しかし保守対革新の勢力分野「七対二」については何等変化は起こっていない。次いで五四年選挙では二区の藤田高敏(社)と森清(自民)との得票差はわずかに一一票(藤田六八、三二八票・森六八、
三一七票)で森清は落選、さらに一区でも、二位の湯山勇(社会)と三位関谷勝嗣(自民)との得票差が、これまた七七票(湯山六九、八五三票・関谷六九、七七六票)という僅差で戦いの激しさを物語っていた。五五年、五八年の総選挙では、三区で社会党が進出、保革の勢力分野は「六対三」となった(表3‐56参照)。
 次に参議院議員選挙(地方区・選挙区)であるが、本県においては表3‐57に示すとおり三四年選挙以来保守独占の体制が続いている(中央では四九年選挙で全議席数での保革伯仲が実現し、五五年選挙まで続く)。また、全国区については五八年の通常選挙から新しく「比例代表制(名簿拘束式)」が導入され、これに伴ない従来の全国区は「比例代表区」に、地方区は「選挙区」にそれぞれ名称が改められた。
 比例代表区を通じてみた本県の政党支持率は表3ー58のとおりである。
 六一年七月の衆議院議員総選挙は五五年と同様、参議院議員通常選挙と同日に行われた。この選挙は衆・参いずれも自由民主党の勝利に終り、衆議院では自由民主党が三〇四議席を獲得することとなった。
 本県では衆議院選挙において社会党は一名減少、公明党からは初めて国会議員が当選し、党派別の勢力は自民七、社会一、公明一となった。
 特異な出来事としては、この選挙直前、衆議院議員の定数不均衡是正措置に関連し、伊予市、伊予郡が一区から三区へ編入替えされたことである。三区の定数減を認めるか、区域変更を行うか二者択一の難しい問題ではあったが、伊予市、伊予郡選挙人の不満は大きく、そのことはこの選挙における伊予市、伊予郡の異常な投票率の低下となって現れた。
 なお、昭和二一年以降における本県衆・参両院議員及び県議会議員選挙の投票率は表3―59に示すとおりである。

表3-54 愛媛県知事選挙の概要

表3-54 愛媛県知事選挙の概要


表3-55 愛媛県県議会議員選挙の概要

表3-55 愛媛県県議会議員選挙の概要


表3-56 衆議院議員選挙当選者一覧

表3-56 衆議院議員選挙当選者一覧


表3-57 参議院選挙当選者一覧(地方区・選挙区)

表3-57 参議院選挙当選者一覧(地方区・選挙区)


表3-58 昭和58年参議院議員選挙比例代表区(愛媛県)

表3-58 昭和58年参議院議員選挙比例代表区(愛媛県)


表3-59 愛媛県における各種選挙(知事選を除く)投票率の推移

表3-59 愛媛県における各種選挙(知事選を除く)投票率の推移