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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

二 天山・石鎚山

 「島山の宜しき」伊予の国における山の古代伝承二つ、現存する天山と石鎚山の伝承についてとりあげよう。

 天山 松山市の中心部から約ニキロメートル南、国道三三号線に沿う東方に、天山・東石井・星岡の三町にわたり大和三山のような岡が並ぶ。その一つ天山町の天山の由来譚が、『釈日本紀』巻七にある。

 伊予の国の風土記にいはく、伊与の郡。郡家(郡の役所)より東北のかたに天山あり。  天山と名づくる由は、倭に天加具山あり。天より天降りし時、二つに分れて、片端は倭  の国に天降り、片端はこの土に天降りき。よりて天山といふ、本なり。(その御影を敬  礼ひて、久米寺に奉れり。)

 右の文の「天山」をアメヤマと訓むテキストが普通であるが、現存最古の仮名書き(高山寺本『和名抄』の訓)により、アマヤマがよく、近世には「尼山」とも書かれる。次に、天山の所属する郡の問題もある。本話では伊予郡と記すが、天山郷を久米郡所属とする資料が多い。藤原宮跡出土木簡に「伊予国久米評□天山里人 宮末呂]とあり、評字の使用により大宝元年(七〇一)以前と知られる。また、天平二〇年(七四八)の正倉院文書「智識優婆塞等貢進文」に、久米直熊鷹という人の出身地を「伊予国久米郡天山郷」と記す。平安時代の『和名抄』なども同様である。この点は、天山が郡の境界に位置していたためか、境界の変動によるのか、あるいは説話伝承者の問題が関わるのか、その事情はわからない。
 ところで、本文の末尾に括弧でかこんだ部分については、これを欠く伝本もあって後補説が出ている。これは天山の姿を絵図に描いて久米寺に奉納したという意であり、同寺に所蔵する天山の図絵の由来譚として付されたもので、久米寺関係者の伝承とみられる。この久米寺については、久米氏の本拠である大和の久米寺(現橿原市)説がある。後世の中央での後補ならばそうであろうし、「伊予国風土記」が中央志向の強い点でもそれはありえよう。しかし、古代の寺院名には寺の所在地名を冠する通称の例もあるから、「久米の寺」と訓んで伊予国の久米にある寺とみたい。右記正倉院文書の天山郷の久米氏は「直」であり、これは地方豪族に与えられる姓で、郡司クラスによくある。だから同氏は当地の豪族で、これ
を檀越とする氏寺が「久米の寺」であろう。現に当地には、白鳳期の法隆寺伽藍様式の寺院趾として国の史跡に指定された来住廃寺(松山市久米来住町)があり、また、南土居町にも廃寺跡がある。これらが該当するであろう。
 さらに想像をめぐらすと、大和と伊予との久米氏の交流の中継点として播磨が想定されよう。『播磨国風土記』にはイヨヅヒコノ神が登場するなど、伊予と深い関係にあったと知られるし、伊予に播磨塚(本文20)もある。その播磨には大和三山の妻争い伝承もある。本話も、大和-播磨-伊予のルートに乗った伝承か。
 さて、天の香具山は、元来カグ山であり、天皇の国見儀礼の山として推古天皇代以降の新しい「天」の思想によりアメノを冠したとみられている。そういう霊山を万葉人は「天降りつく天の香具山」(二五七)と歌った。天の岩屋戸の神話で、高天原における重要な祭事がこの山の牡鹿の肩の骨や榊や笹葉などを用いて行われている。一方、「天山説話」の類話として、「阿波国風土記」逸文に「アマノモト山説話」があるように、天の香具山は、類似名をもつ各地の霊山に結びつけられて同様な伝説を生んでいた。天の香具山は、背後に連山を負う小孤立丘であり、天山もこれに類似して、石鎚山を頂点として連綿と並び立つ「伊予の高嶺」を背後にもつ。そこで、農耕時期の目安ともなり用水の供給源でもあった背後の山々から「山の神」を迎えて祭祀を行う丘。村の近くにあった、そういう天山の山名由来譚とみたい。

 石鎚山 西日本最高峰の石鎚山、これが古代の文学資料にいかに登場するか。関連して、イシヅチの語源や表記の問題をも考えてみよう。なお、山部赤人の万葉歌の「伊予の高嶺」については、歌枕としての中世以後の用法と異なり、単独の石鎚山だけをさすとはみられないので除く(第二節第三項)。
 現存文献における石鎚山の初登場は、空海の自作『三教指帰』(七九七)で、次の一節がある。
        
 或ときには金巌に登りて、雪に遇ひて坎壈たり。或ときには石峯に跨りて、粮を絶ちて  カン軻たり。(巻下)

自筆稿本の『聾瞽指帰』によると、「石峯」に「伊志都知能太気」と訓注をつけている。讃岐生まれの空海は、若い頃四国各地で修行を積み、同書に土佐の室戸崎や阿波の大滝岳でも修行のことも記し、右の「金巌」は伊予の喜多郡の金山出石寺(吉野の金峰山説も)、「石峯」は石鎚山とみられる。
 その空海より前、奈良時代の石鎚修行者の記事が、最古の説話集『日本霊異記』(八二二頃)に載っている。

  伊与の国神野の郡の部内に山あり。名をば石鎚の山といふ。これすなはち、その山に有  す石槌の神の名なり。その山、高くサガしくして、凡夫は登り到ること得ず。ただし浄  行の人のみ、登り到りて居住せり。昔、・……(聖武・孝謙天皇の御代に)その山に浄  行の禅師ありて修行しき。その名は寂仙菩薩といへり。その時の世の人道俗、その浄行  を貴びしがゆゑに、美めて菩薩と称ひき。(下巻三九話)

山名の起源は、イシヅチの神のいます山、つまり山即神という山岳信仰によるとする。そこで修行した寂仙は、山麓の人々から生き菩薩と崇められたというが、これこそ石鎚修験道の大先輩にあたるであろう。彼は臨終に遺言した通り神野皇子として生まれ変わり、長じて即位して聖君嵯峨天皇になったという。これと同じ話が正史である『文徳実録』嘉祥三年(八五〇)条にもあるから、当時中央でも話題になっていたのであろう。
 平安末期に石鎚山に熊野権現が勧請されていることは、『長寛勘文』(一一六三頃)にのる「熊野権現御垂跡縁起」に、唐の天台山の王子が熊野の新宮に降る前に「伊予の国の石鉄の峯に渡りたまふ」とある記事でわかる。同じ頃の『梁塵秘抄』(一一六九)に、「聖の住所はどこどこぞ、大峯・葛城・いとのつち」云々とある「いとのつち」は、イシノツチ(石鎚)の誤といわれる。蔵王権現も勧請されて、古来の石鎚の神と習合された石鉄蔵王権現が祭られるに至るのである。
 なお、右最古の空海自筆例により、古代からイシヅチと呼ばれていたとみてよい。その語源については、頂上の岩が槌状だからという説や、ツチは剣であるとする説もあるが、山即神という見地と山容から考えて、石之霊であろう。チ(霊)は、神秘的な力・呪術的な力をあらわし、霊力をもつ神や物につく接尾語。例えば、ククノチ(木の神)・ノヅチ(野の神)・カグツチ(火の神)など。ツは格助詞で、ヅと濁るのはノヅチ・イカヅチと同様に連濁によるもの。これらが、「迦具土(カグツチノ)神」「野槌(ノヅチ)」「塩椎(シホヅチノ)神」「伊加土(イカヅチ)山」などと、上代の諸資料に表記されているのである。イシヅチのツチを「鎚」「槌」「土」などと書くのも、同様に宛字である。
 イシヅチは太古イハヅチであったとする説があり、『日本霊異記』の「石鎚山」もイハヅチ山とよむ注釈書が多い。その説は、この山の祭神が当初から神話にある石土毘古神であったとする信仰によっているようだ。信仰の面ではともあれ、学問的な立場で資料を駆使してみよう。すると、イハヅチヒコノ神を登場させて、土佐の式内社である石土神社(祭神石土毘古神)と伊予の石鎚とを結びつけたのは幕末頃である。伊予では、半井梧菴編『愛媛面影』巻一「伊予の高嶺」条に引く「土佐高明志」に始まる。それ以前の地誌にはこの神が登場せず、祭神は石鈇蔵王権現・石土山大権現・伊予津彦命など。さらに、仏教と習合する以前は、『日本霊異記』の「石槌の神」、つまり山即神であるお山の神石之霊であったとみるのが自然であろう。
 ついでに、現在でも横峰寺・前神寺で用いている「石鈇山」の表記について一筆しておく。「鈇」は、「斧」と同じくマサカリの意であるが、『類聚名義抄』観智院本(鎌倉写)にはツチの訓をあげる。また、『古事記』の中世写本にも「足名鈇(アシナヅチノ)神」が一例見えるから、中世頃の特殊用字と思われる。これが近世資料になると、「石鉄」「石鉃」などと誤写される例が多くなり、誤用の意識が薄くなって、ついにその本字を用いた「石鐡県」が明治四年に誕生するに至った。誤写例が原になって正式の地名表記に昇格した珍しい例といえよう。以上により、イシヅチの一般的表記としては、古代以来の「石鎚」「石槌」がよかろうが、一つにしぼるならば、伊予の地誌類に多出する表記が金偏の例であることを勘案して、現行の「石鎚」が適当である。