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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

一 軽太子と大郎女

 上代に伝承された人物関係の説話には、中央から伊予への下向など人の往来する例が多い。「伊予国風土記」逸文に記す天皇がたの五度にわたる伊予の温泉への来浴、大山積神の摂津から伊予への勧請など(第二節・第三節)。それらの伝承の中で、第一九代允恭天皇の第一皇子であった木梨軽太子と、同母妹の軽大郎女との悲恋物語はとりわけ有名で、『古事記』下巻の允恭天皇条に、一二首の歌謡をもつ歌物語として収める。『書紀』では、允恭天皇条と安康即位前紀条とに、『古事記』の約半分の記事で五首の歌謡を入れて載せている。以下、『古事記』によってそのあらすじを紹介しよう。(資4~7)
 父允恭天皇の死後、皇位をつぐことに決まっていた軽太子が、大郎女に密通して歌を詠んだ。
  あしひきの 山田を作り 山高み 下樋を走せ 下どひに わがとぶ妹を 下泣きに わが泣く妻を こぞこそは安く肌触れ (〈大意〉山田を作ると、山が高いので地中に配水管を走らせる。そのようにこっそりと妻問いをし、ひそかに私が恋い泣く妻を、今夜こそ安心して肌にふれたことよ。)

 念願かなって妻にして共寝ができた歓喜の歌である。当時、異母兄妹の結婚は問題なかったが、同母間の兄妹同志は禁じられていた。太子の近親相姦を知った人々は、弟の穴穂皇子(後の安康天皇)の方に集まったので、太子は某大臣の家に逃げ込み、弟の皇子たちに囲まれる。結局太子は捕えられ、            ’
 「あまだむ 軽嬢子 したたにも 寄り寝て通れ 軽嬢子ども(軽のおとめよ。しっかりと寄り寝てから通ってゆけ。)などと歌詠しながら、「伊予の温泉」に流罪となる。大郎女は流刑された太子を慕って歌う。
 夏草の あひねの浜の 欠き貝に 足ふますな あかして通れ(あひねの浜の砕いた貝  を踏んでお怪我なさいますな。夜が明けてからお出かけなさい。)
 また、太子のあとを追って行って歌う。
 君がゆき 日長くなりぬ やまたづの 迎へを行かむ 待つには待たじ(あなたの旅も日数がたちました。お迎えにゆきます。これ以上待ちはしません。)
 こうして伊予で一緒になった太子は、二首の挽歌的発想の長歌を最期に、大郎女と死出の旅を選んだのであった。
 『古事記』の歌謡物語としては、倭建命の物語と並び称せられる傑作である。この歌物語はわが悲恋文学の祖ともいえよう。この事件の史実性はさておき、異常な恋愛事件を太子が起こして失脚したことはあったのかもしれない。その純な悲恋に同情した人々がこの話を伝えてゆくに際し、少しでも関連づけられそうな歌謡を見つけては太子や大郎女の作歌として組み込んでゆく。これは古代の伝承歌謡物語の通例である。右にあげた歌についても、例えば、「あまだむ 軽嬢子」の歌は、もと大和の軽地方(奈良県橿原市大軽町)の歌垣で歌われていたもので、複数の軽のおとめどもを共寝にさそった歌を借用したもの。また、「夏草の」の歌も、元来独立歌であって、浜辺のおとめが男の一泊をさそった歌といわれている。「あしひきの」の歌は、もと歌垣り歌か。「君がゆき」の歌ももと独立歌で、旅に出た夫を待つ妻の心情歌として、『万葉集』巻二の初めにも載っている。
 なお、『古事記』では、それぞれの歌に曲名を付している。「あしひきの」の歌は、「しらげ歌」。「あまだむ」の歌は、「天田振」など。その点については、撰者太安万侶の太氏が代々宮中の雅楽寮勤務であった関係で、この悲恋物語を種にして雅楽の曲名のルーツを付して伝承したとみる説もある。
 『日本書紀』の軽太子説話では、『古事記』に比べて半分の分量であり、曲名も付していない。内容の相違も少々見られる。『古事記』では、大郎女の別名を衣通郎女とし、身体から発する光が着物を通して輝いたゆえの名と注するが、『書紀』では双方を美男美女に仕立てている。『書紀』では、天皇の食事の汁物が夏に凍るという事件が起きて占わせたところ、太子が妹に通じていることが原因で内乱が起こるとわかったが、皇太子は罪することができないので大郎女の方を伊予に移した。一方、大臣の家に逃げこんだ軽太子はそこで自殺するのである。要するに、伊予で兄妹心中する伝承は『古事記』の方である。
 この悲恋物語の原型についてはいろいろ考えられようが、一連の歌謡の最後にあたる挽歌的長歌。
  こもりくの 泊瀬の河の (中略) あが思ふ妻 ありと言はばこそよ 家にも行かめ 国をも偲はめ(……私が大切に思う妻がいるというのなら、家にも訪ねてゆこうし、故郷をも偲ぼうが)
を重視してみると、太子が流されたので妹は大和にいたまま悲痛のあまりに死ぬ。それを伝え聞いた太子がこの歌を詠み、後を追って自殺したことになるであろう。しかし、この物語の伝承者が、それでは余りにも可愛想だというので、伊予での兄妹心中に変えたのであろうか。ともあれ、『書紀』は皇太子の体面を重んじる立場をとっている。その点『古事記』の方がいわば文学的といえよう。なお、伊予は愛比売という神霊のやどる地という点を重視すると、大郎女との結びつきが強かろうが、また太子を迎える姫とも結びっくであろう。後述するように、伊予における本話の伝承地が姫原(松山市)と妻鳥(川之江市)という女性の地名であることも、関わりがあろうか。総じて、とくに古代においては、伝承グループそれぞれに異なった伝承を伝えていたのである。
 太子の流刑先について、『古事記』には「伊余の湯に流しまつりき」とある。『書紀』では、「太子みづから大前の宿禰の家に死せましぬ」としながらも、「一にいはく、伊予の国に流しまつるといふ」と別伝を付する。この別伝は『古事記』と同じ伝承によったものだろうが、それにしても、「伊余の湯」と「伊予の国」との相違は重大であると私考する。第二節で論じた通り、伊予の湯泉というのは、スクナビコナノ命をも甦らせた。そういう復活の霊力をもつ温泉と伝えられていた。だから、法的に定められた中流の地への太子の流刑とはいえ、単に伊予の国としないで、湯として伝えた人々は、太子への深い思いやりをいだいていたからこそと、その情を汲みとるべきであろう。
 なお、松山市の西北部、山越から国道一九六号線を北行すると東側の丘陵に姫原がある。ここは、平安時代の辞書『和名抄』に「姫原」と郷名のある古来の地名で、軽大郎女を葬った地による名と伝えられる。そこに軽之神社があり、その奥に小さな二基の五輪の比翼塚がある。一方、川之江市の西部の妻鳥町にも太子の遺跡がある。当地の伝承では、太子が伊予に配流される時に暴風雨のためここに上陸して居住し、没後東宮山に葬ったという。ここには東宮山古墳などあって出土品も多い。山上の春宮神社には太子を祀っている。