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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

二 越智直・日下部猴之子

 伊予で編纂された現存最古の文学資料は、逸文でもよいとなると上述の「伊予国風土記」である。対して、中央で編纂されて各地の説話を収める最古の文学作品は、平安初期に成った『日本霊異記』であり、計一一六条のうち伊予については、石鎚山の寂仙菩薩の話(第三節第二項)など三話を収める。本書の説話の中では、その寂仙の話(下巻三九話)が最も新しい。他の二つの伊予の話は、上巻一七話の越智の直、同一八話の日下部の猴の子をそれぞれ主人公とする話であり、両人とも国の内外へと往来して活躍する。その軌跡を追ってみよう。

 越智直 『日本霊異記』の上巻第一七話は、「戦乱にあって、観音菩薩の像を信仰し、この世でよい報いを得る話」という意の題をもつ伊予の越智直の話である。そのあらすじは次の通り。
  伊予の越智の郡の大領(郡の長官)の先祖にあたる越智の直が、百済への救援に派遣された時に、八人の仲間とともに唐の捕虜になった。観音像を見つけて信仰しながら舟を作り、像を奉じて脱出して帰国。朝廷に申請して越智郡設置が許され、また寺を建てて例の仏像を安置し、以後代々その像を信敬している。(資12)
 これの説話背景は、第二節の第二項「熟田津の歌」が詠まれた斉明七年(六六一)のあと、天皇の博多での崩御で遠征が挫折したので、遺志を帯した天智天皇が、その二年(六六三)に半島に遠征して自村江で大敗。捕えられた唐から脱出して帰国したという史実によるものであろう。正史によると、その時唐・新羅の捕虜となって何年か後に帰国した人々の記事が、天武一三年(六八四)から慶雲四年(七〇七)にかけて四例見える。かれらは、筑後・讃岐のほか、伊予の風速の郡(現北条市)の物部薬など、北九州~瀬戸内の出身者が目立ち、異国での労苦に対して課役の免除など恩典に浴している。本話の主人公も、その一員として派遣されたのであった。
 「備中国風土記」逸文にも、天智天皇が百済への遠征途上に、備中で徴兵を行ったという記事をのせる(下道の郡邇磨郷)。また、『日本霊異記』上七話にも、備後の三谷の郡の大領の先祖がやはり百済に遠征し、無事に帰国できたので念願の氏寺を建てたという縁起譚があって、本話の類話と見なされる。
 越智直の「直」とは、地方豪族に与えられることの多かった姓であり、越智氏は、伊予五国造の小市氏以来の在地の豪族であった。その後も、「郡司、大領従八位上越智直広国」(天平八年〈七三六〉伊予国正税帳)など、郡司を世襲した記録があって、本話の主人公はその先祖にあたる。ところで、第三節第一項の御嶋と熊野の岑のところで考察したように、越智氏は高縄半島からその周辺一帯の島嶼部にかけて、代々勢力を張っていたのである。また、奈良から平安時代にかけて、越智郡の人と明記されて正史に載る一族の例は多い。
 国造・県主のいわゆる国県制から新政による律令的国郡制への移行は、七世紀中頃から遠くない頃といわれており、郡司の任用には国造の横すべりがあったとみられている。百済遠征に失敗した天智朝が、中央集権的な国郡制の確立に努めていたちょうどその折に、小市(越智)国造の長年にわたる忠誠行為によってその願いを許し、越智郡設置に際してその大領に任じたことは、尤もなことであったと思われる。
 なお、主人公たちが無事に帰国できたのは、観音像を信仰したご利益によってであった。『日本霊異記』の諸仏信仰の中では観音がとりわけ多く、災難を除いて幸福を招くという典型的な仏である。また、本書には、郡司たちの仏教信心の話も目立ち、中でも寺を建立する例が多い。郡の人たちを教化善導することはさりながら、過去の神話から脱皮して新しい支配権を確立するための柱としても、仏教を積極的に受け入れたのであろう。ともあれ、この寺が越智氏の氏寺となったとみてよかろう。
 結局、この話は、越智郡設立の由来とともに越智氏の氏寺の縁起を記したものであり、そういう祖先の功績を顕彰するために、同氏が代々伝えたものであろう。これは、『今昔物語集』巻一六ノニ話、さらに金沢文庫本『観音利益集』四三話にも享受されている(資12、13)。中世の『予章記』に載る二一代の玉興をめぐる説話も、あるいは本話と同源の資料によったものか。なお、古代の越智一族の伝記については、この他に一五代の益躬がいる。その往生譚は『日本往生極楽記』三六話、『法華験記』下ノ一一一話、『今昔物語集』巻一五ノ四四話にのっている。(資14)

 日下部猴之子

 『日本霊異記』の上巻第一八話は、「法華経を心に念じながら常に唱え、この世でよい報いを得て、不思議なことがあった話」という意の題をもつ。あらすじは次の通り。

  昔、大和の葛木上の郡(現奈良県御所市)の丹治比氏は幼時から法華経が読めたが、その一字だけどうしても覚えられないので観音に祈願すると、夢の告げがあったーおまえの前世は伊予の別(和気)郡の日下部の猴の子だが、法華経を唱えていて燈火でお経の一字を焼いたからだ。すぐに行ってみよーと。そこで、伊予の前世の家に行って父母に逢い、燈に焼けた現物を修理して初めて完全に覚えることができた。こうして彼は、現世と前世の計四人の父母に孝養を尽くした。この人こそ、まさに二世にわたって法華経を唱えた聖僧である。(資15)

 こういう法華経霊験譚は仏教説話に多く、法華経を唱えながらの山林修行例とみてよかろう。大和の葛城・金剛山のあたりは、古来きわめて神秘的な所であった。修験道の鼻祖役行者の出身地でもあり、仏教の普及につれて修行者が集合離散する拠点ともなっていたようだ。彼もそういう一人で、前世では伊予で修行していたのである。その伊予の和気郡(現松山市の北西郊外)は、早くから伊予別君が領しており(景行紀五一年)、大和王朝の支配下にあった。熟田津の有力な一説もこの地であり、中央との交流もある開けた地であった。本話は、まさにそういう瀬戸内交流ルートに乗った話ということになる。
 ところで、前世と現世の二世にわたって法華経を読んだり写したりする話は『今昔物語集』に散見するが、その中に、巻七ノニ○話、巻七ノ二六話は、前世で経文の一部を損じた因縁にまつわる話であり、本話の類話とみられる。中に『日本霊異記』の序文に明記されている『冥報記』(唐時代の仏教説話集)を出典とする話もあるから、本話のモチーフは中国渡来とみてよい。『今昔物語集』の類話の中でも、とりわけ本話と内容が合致するのは巻一四ノ一二話であり、醍醐寺の僧が主人公で、大和の長谷寺の観音のお告げを受けて前生の地播磨を訪ねるのである。この人名と地名とを除けば、殆ど同じ話である(出典は『法華験記』上三一話)。一方、本話とストーリーは異なるものの、四人の父母に孝養する話は『日本霊異記』中巻二五話にもあって、その舞台が讃岐である。すると、大和・播磨・讃岐・伊予と、モチーフの類似する話が分布することになり、瀬戸内沿岸あたりを唱導してまわる説教僧グループの存在を想定したくなるのである。
 さて、本話で大和の修行者の前生の地を伊予としている点について考えてみよう。同じ『日本霊異記』の石鎚山の寂仙についても、嵯峨天皇の前生であった。すると、本書に載せる伊予関係説話三つのうち二話までが、伊予を中央からみて前生の地としているのである。伊予を舞台にして善功を積んだ結果、猴の子は聖僧に生まれかわり、寂仙は聖君に生まれかわった。これら再び人間に転生したことは、伊予という国がいわば人間として復活する力を賦与したとみてよいように思う。かつてスクナビコナが蘇生した霊湯のある神仙境の流れ(第二節第一項)が、仏教の導入後も伊予に生きていたとみたい。この点についてさらに言及すると、大江匡房が撰述した『本朝神仙伝』第二三話に、伊予の国の長生きの翁の話を収める。この人物は、七代の孫までいるのに、容姿は五~六
○歳ぐらいだと記している。このように、伊予は不老不死に準じる翁も住む別世界であったのである。
 総じて、中央からみると、上代の伊予はよみがえりの地、善なる転生の地、いよいよますます結構な地である(第一節第一項)。こんなイメージが持たれていたとみたい。