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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

一 伊予の物産

 伊予簾

 藤原明衡撰述の『新猿楽記』が諸国の土産物を集めていることを述べたところに「伊予手筥」とあり、さらに〈また砥また簾また鰯〉と付加している。中で最もよく知られていたのが「伊予簾」であった。「いよす」または「いよすだれ」は、その名とともに物そのものも京の都の貴族たちにおなじみのものであった。殊に夏場における生活必需品であったらしい。伊予産のこれは、「す」または「すだれ」の中でも代表的なものであったが、「す」「すたれ」 一般に対して「みす(御簾)」と呼ばれるものがあった。これは「み(御)」という敬語がついていることからもわかるように、宮廷や上流貴族の殿舎で廂の間と縁子との間に懸けて常用されたものであり、伊予簾などとは作りもまた異なるものであった。例えば、『枕草子』の有名な場面、清少納言が中宮定子の「香炉峰の雪いかならん」という問いかけに応じて間髪入れず、白楽天の詩をふまえて簾をかかげてみせたという清女の才気を語る場面に登場する簾は「みす」であった。
 伊勢貞丈が『安斎随筆』(後篇四)で伊予簾について「源氏所々に見えり。下ざまの家、又ゐなかびたる所にいよすの事をいへり」と解説するように、伊予簾は比較的下ざまの家、中・下流貴族以下の私邸に用いられるものであったようだ。平安貴族は伊予簾の特徴を次のように捉えていた。
 ① 疎略に(まどをに)編まれていること(恵慶法師歌)
 ② 「さらさら」と音をたてること(枕草子・源氏物語)
 ③ 色の白さのめだつもの(今昔物語集)
 白方勝は「古典文学の中の伊予簾」(伊予の民俗20 昭51)において、伊予簾とは明記されてはいないが伊予簾と思われる例を『源氏物語』の中から二例指摘している。一つは、空蝉の巻で、空蝉のいる部屋にある簾(空蝉の夫は国司伊予の介であった)、一つは夕顔の巻で「いと白う涼しげなるに」と描かれた簾(夕顔が隠れ住んでいた五条ねだりの下ざまの家)である。白方はまた、藤原忠実『殿暦』永久三年(一一一五)の条、兵部卿平信範『兵範記』久寿三年(一一五六)の条、藤原定家『明月記』建暦三年(一二一三)の条それぞれに伊予簾を懸けている記事のあることを紹介し、『枕草子』、『源氏物語』などの平安王朝文学を通過することで、伊予簾の賞愛される位置が高まった、とみている。
 さて、「いよすだれ」は和歌文学の素材ともなった。藤原清輔の歌学書『和歌初学抄』が、「物名-簾」の項に「イヨスダレ」を挙げているし、順徳院『八雲御抄』にも、次のようにある。
  たまだれ。いよ。みす。あしすたれ。こす。しのすだれ。いよすだれ。
これらの歌学・歌論書にとりあげられて歌語的な存在としても認められていたことがわかるが、現在確認できる証歌は少ない。最も古いものは、平安寛和ころ(九八五~)の歌人僧恵慶法師の次の歌である。
  逢ふことはまどをに編める伊予すだれ いよいよ我をわびさするかな (恵慶集・恋)
 『山冠集』(この書については後述)に「伊予簾は往古松山大洲辺より出でしといひ伝ふ。今は絶えて其の形をだにとどめず、おしむべし」とあるが、伊予の古い地誌では「二名村より出づる名物也(伊予簾の本場は露之峰也)」とし、谷川士清『倭訓栞』には「伊予浮穴郡露峰の山中より出づる篠簾也」とある。もっとも「長講堂領目録」建久二年(一一九二)には、長門国阿武の所領から伊予簾一〇枚が納められる定めとしてあるから、他国でも製造されたようで、伊予簾とは、伊予産の簾の意から、同種のものを広く言う商標的なことばになっていたと思われる。

 手筥・砥・米

 伊予手筥は、先に示した『新猿楽記』だけでなく、平安末期の短編物語集『堤中納言物語』の中の一つ「よしなしごと」にも見える。この作品は、隠栖を決意した僧が、弟子にあたる女性に、隠栖生活に必要な物品の提供を要求する書簡の体をとったもの。伊予手筥は、その要求した物品の一つとして出てくる。
 『新猿楽記』には、他に「砥」と「鰯」が伊予の土産として挙げられている。「砥」は「砥石」のことで、伊予郡砥部町の名にも残っている。奈良時代には東大寺大仏造営にあたり、伊予砥が用いられた記録があり、「延喜式」には交易雑物として「砥百八十顆」があがっている。「鰯」は宇和の鰯のことが知られ、『玉葉和歌集』に、それをめぐる和歌説話がみられる(第三章中世参照)。
 『宇津保物語』巻四(嵯峨の院)に「伊予の御封の物、み庄の物も、持てまうで来ためれば」とあるが、この「伊予の御封」は左大将源正頼家に賜ったもので、「御封の物」とは、その封戸が奉進した調・庸の品々を意味した。また、『雲州往来』(別に、明衡往来、明衡消息とも。群書類従本による)には、「御封米事」という書簡文に伊予の米が出てくる。

     御封米事
  右伊与国進所米来淀津致云々。解文下文。一日史生秦福充持来所也。早下行可之由可綱丁所示被可。某謹言。        極月 日         皇后宮権大進
    謹上 伊与守殿
     宮御封米事
  右仰如。早下進可之田。遣綱丁所仰可。他国糠枇相交云々。此国之米殊精好加。又先日仰差米被所。同下文副之奉。某謹言。
       即時                      伊与守藤原
 『雲州往来』は、『新猿楽記』の撰述者と同じ藤原明衡(九八九ー一〇六六)が撰したもので、模範書簡文例集といわれるもの、いわゆる教科書の先駆をなすものとして資料的価値が高い。米は、特に伊予の特産というわけではないが、前の書簡で「殊ニ精好ヲ加フ」としていることがおもしろい。仮空の書簡とは言え、明衡の知識が動員されているはずである。ところで、右の書簡に、伊予国所進の米が「淀津」に着いたとある。淀津は山崎津とともに、西国から瀬戸内海を通じて調庸雑物等の物資が集まるところであった。『貞信公記抄』天暦二年(九四八)の条によると、その山崎津に「伊予山崎宅」というものがあって、そこに隠し米があるという情報を得た朝廷が検非違使を派遣して検封させ、その米を収納させた、という。小林昌二(第一節参考文献)は、この「伊予山崎宅」について、「政府への収納物を一時保管し、あるいは京下交関と同じく、別物を輸送し、政府に収納する品物に交易する、などの機能をになった」ものではないかと推定する。以上みてきたような伊予の産物は、こうした「宅」を中継して宮廷や貴族の手に渡ったものであったと思われる。なお、小林は、「伊予国の国物や純友ら地方官・富豪層らの私物など「公私の雑物」が瀬戸内海を経て山崎津に運ばれ、伊予山崎宅に収蔵保管されていたことは疑えない」と言う。『雲州往来』の記事は、そうした機能を持つ「宅」が淀津にもあったことを物語っているのであろうか。