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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

三 伊予の人物

 相撲人

 文学に現れた、平安時代の相撲(当時は「すまひ」)というと、宮廷行事化した節会相撲であったが、詳しくとりあげている作品は、『宇津保物語』『今昔物語集』『古今著聞集』などである。節会として、毎年七月に行われるのが通例であった。昔は禁中にて其の節をおこなはれ。諸国に強力の物を尋ねされけり」(古今著聞集巻一五)とあるように、「部領使(=左右近衛舎人の相撲使)」が七道諸国に使わされたのである。
 『宇津保物語』初秋の巻に、伊予から召喚された「最手行経」の名がみえる。この作品は「作り物語」であるから、この人物を直ちに実在人物に求めることはできないし、現存資料で伊予の相撲人にその名はない。しかし、相撲人を七道諸国に求めたといっても、相撲人をよく輩出する国とそうでない国とがあっただろうから、伊予は前者の国の一つとして知られたゆえに、『宇津保物語』にも伊予の名が出たのではないか。(資21)
 一条天皇の頃の著名な相撲人九名の一人に「越智経世」の名がある(大江匡房撰『続本朝往生伝』)。経世は常世、常代とも表記され、『御堂関白記』、『権記』、『小右記』など同時代の史料で話題にあがり、『高山寺本古往来』には、「右方豊堪・常世等是高名強力世間殊勝者也」とあるが、これも「越智経世」のことであったと思われる。さらに、『江家次第』『日本紀略』『二中歴』などにも、その名をみることができる。
 この都で著名だった相撲人「越智経世」が伊予の郷土資料にも名をとどめているのである。それは、国宝の「和気系図」「海部系図」とともに三大古系図の一つとされる「与州新居系図」にみえる。この系図は鎌倉末期の伊予出身の東大寺僧凝然大徳の手になるもの。また、経世の子の「富永・是永」も後一条朝にしばしば相撲節会に召された伊予の相撲人であったことが、『小右記』によって知られる。ただし、『小右記』では「富長・惟永」と記されている。系図で経世の父とする為世は、後世の「越智系図」「河野系図」その他にみられる、伊予の氏族の始祖伝説上重要な伝説的人物である。はたして経世が為世の子であったのかどうか、また新居氏が越智氏の流れであるとする「与州新居系図」がどこまで信頼できるのかなど、伝承・伝説の研究の面からも興味ある問題をはらんでいる。
 さて、『古今著聞集』巻五の四話と五話の二つの説話が相撲人「常世」を主人公としている。この常世についてこれまでの研究では未詳ということになっているが、話の中に小野宮実資(『小右記』作者)が登場し、先にみた一条朝に活躍の著名相撲人九名のうちに同じく名を連ねる「勝岡」(また同巻三話には「宗平・時弘」らの名も)が登場することなどからみて、越智経世のこととみてよいと思量する。もっとも一説に、『今昔物語集』に登場する丹後国の相撲人「海恒世」のこととする。しかし海恒世は説話によると、永観二年(九八四)に没している。この海恒世とみるより越智経世とみる方が一条朝(九八六~一〇一〇)に活躍した相撲人であることとよく合っていると思う。

 伊予姫

 平安末期、後白河院はなじみの白拍子などから伝授された今様などを集めて『梁塵秘抄』を編んだ。その中の三九八番歌に「男をしせぬ人」として「伊予姫」が歌われている。これは、「賀茂姫」「上総姫」と並記されたものである。現在県名になっている「愛媛(愛比売)」は、第一章で述べられているように『古事記』にみられる名で、伊予の国を象徴する神名と思われる。この「愛比売」が、平安朝になって都人に「伊予姫」と語り継がれたものかどうかは即断できないが、『梁塵秘抄』三九八番歌を検討してみるに、賀茂姫、上総姫と並記され、これらの姫が「男をしせぬ人」(ただし「男怖ぢせぬ人」など別解あり)と捉えられているところからして、「伊予姫」は、神に仕える巫女、神の嫁になった女性(ひるめ)を、その本性とする人物ではなかったかと考える。これまでの有力な解釈は、「伊予姫」をはじめ三九八番歌にみられる女性たちは遊女であろうとするものである。それは全く誤りとまでは言えないが、先の三人の姫までを遊女とみるには少し無理があり疑問である。平安以後の文献でわかる遊女・傀儡女、白拍子らの名に「ー姫」というパターンは存在しない。ただ、古代前期、『万葉集』などにみられる遊行女婦の名には、例えば松浦娘子のように、「地名+娘子」の型の名が多いということがある。実は、『梁塵秘抄』の「上総姫」には『万葉集』巻九にみえる上総国の「珠名(地名)娘子」などが反映しているのではないかと考えているが、このようにたどると、「賀茂姫」らを遊女であったとみてもよいようではある。現在、遊女の起源で定説化しつつあるのは、遊女の前身は神に仕え歌舞管絃の芸能を身につけていた巫女たちである、という説である。平安朝の「男をしせぬ人」である遊女たちが、自らを語るのに、巫女として知られる「男をしせぬ人」であった「姫」たちをその系譜のうちに位置づけて語り継いだとしても不思議はないのであった。「賀茂姫」たちは、神話にみられる「玉依姫」的な女性であったと考える。
 「伊予姫」とは、特定の一人の女性をさす固有名詞ではなく、伊予の海人族たちの神ごとにおいて神に仕える女性をさす普通名詞であったと考えるべきであろう。中世の伊予の郷土資料である越智・河野氏らの系図などで語られる始祖伝説に登場する玉依姫的な女性、海神の娘「和気姫」は、その個別化した一つの例になろう。「和気姫」伝承には、古代にさかのぼりうる話型をよみとることができるのである。(糸井通浩「梁塵秘抄三九八番歌研究ノート」『京教大国文学会誌18』昭58)

 往生人

 『今昔物語集』に、比叡山の僧長増が、伊予の国の古寺の裏の林中で往生を遂げたという説話(巻一五・第一五話)を載せている。この説話の末尾に、この僧が「門乞匃」の姿で四国の所々をへめぐったことについて「コノ国々ニハ露功徳造ラヌ国ナルニ、コノ事二付キテ、カク功徳ヲ修スレバ、コノ国々ノ人ヲ導カムガ為ニ、仏ノ仮リニ乞匃ノ身ト現ジテ来タリ給ヘルナリ、ト云々」と語っている。都人には伊予の国などが「功徳造ラヌ国」とみえていたようであるが、讃岐の空海や伊予の光定など中央で活躍した僧や古代後期の往生伝などに伝えられる人々も何人かは存在する。
 都の橘朝臣守輔は国司として伊予の国衙に下り、発願文を両三年の間毎日読みつづけたことによって往生を遂げたという(三善為康『拾遺往生伝』)。先の比叡山の僧長増も、国司橘朝臣守輔も、伊予の国人ではないが、一方、国人の中にも往生を遂げたと伝えられる人があった。『拾遺往生伝』には、伊予国法楽寺(真言伝では法界寺)の安楽という老尼が入滅するまでの奇瑞が詳しく語られ、『後拾遺住生伝』には、伊予国久米郡の鳥樟上人円観が西方浄土へ迎えられる様子を、都の源諸純という人が夢に見たという話がある。諸純は夢の中で円観のことを、同じ伊予国の僧円実房義勢という上人から教えられたのであるが、諸純は後、伊予の国にやって来て、その義勢上人が実在するのを確認した、という。
 一体、これらの伊予における往生伝などの仏教説話を、誰が都に伝えたのか。田村憲治は、長増を伊予でさがし出した清尋(静真)と同じ時期に伊予にいて、法楽寺の老尼の往生の様を目撃した清禅上人、または、その清禅が伊予在中、わざわざ都から清禅に師事するために伊予にやってきた延殷、といった人たちが都に持ち帰って語ったのではないか、と推定する(田村憲治「静真のこと」『愛文16』昭55)。そうした当事者的存在の人々だけでなく、次々と都から赴任してくる国司-都の貴族などもまた、伊予の国の風聞(「国の物語」)として都へもたらすこともあったことであろう。こうした伝承者、語り手(部)を追求することも文学にとって重要な課題である。

与州系図

与州系図