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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

第四節 伊予の歌枕

 歌枕の成立

 現在歌枕という語は、和歌に好んで詠まれる地名の意で用いるが、そんな意味に限定して用いられるようになったのは平安末期以降である。それ以前では、広く和歌に好んで用いられる言葉(歌語)、の意であった。そうした言葉に対する関心が高まり、それらを集めて整理しようとする気運が高まったのは平安中期であった。清少納言の『枕草子』の「枕」も歌枕に通うもので、実際、「滝は」「河は」「里は」などの類聚章段は、地名を列挙したものである。広い意味の歌枕の中に、和歌によく詠まれる地名も入っていた。それらは当初、歌枕の中の一種として、特別に「所の名」と呼ばれて区別されてはいた。それが平安末期になると、その「所の名」だけが歌枕と称されるようになったのである。そして、「名所」「名所」とも呼ばれるようになった。
 現存する文献で「所の名」を集め整理してみせている最古のものは、能因法師の手になる『能因歌枕』である。その中に「国々の所々の名」という項目があって、その「伊予の国」に次の四つがとりあげてある。
  みてぐらの島・さざなみの里・なのくの里・さくら井の里
 江戸時代に成立した伊予の歌枕集『山冠集』では、この四つについて「さくら井の里」は「越智郡にあり」とする。現在もその名の残る桜井のことであろう。しかし、他の三つについては「所未詳」とする。
 私どもの常識からして不思議なことは、『万葉集』の和歌などによって最もよく都人に知られていたと思われる「にきた津」「伊予の湯」「大三島」「伊予の高嶺」などが能因のあげる四つの歌枕にみられないことである。また、「桜井の里」以外は、古代後期の文献に現在のところ確認のできない地名なのである。ただし、「みてぐらの嶋」はすでに述べたように、航海神として崇敬を集めていたとみられる日本総鎮守大山祇神社を擁する神の島「大三島」のことであったかと考える。能因がこの島を訪れたことも明らかである。
 「さざなみの里」は「にきた津」のことではなかったか。「にきた津」の有力な推定地に武智雅一の和気・堀江説がある。その地に今「坂浪」の名がある。また「にきた津」は良港であったと思われるが、「さざなみの里」とは波のおだやかな良港のある里の意であろう。近江では、志賀・大津のあたりを「さざなみ」と言った。ところで、平安時代に歌枕として「にきた津」をとりあげた、現存資料での最初は『五代集歌枕』であろう。それには「にきた津」とはなく「あきたつ」「なりたつ」とある。平安時代は通してこのように訓まれていたようで、藤原清輔の『奥儀抄』『和歌初学抄』、順徳院の『八雲御抄』などがそう訓んでいる。歌学・歌論書類で「にきた津」と訓むべきことを指摘している最初は藤原顕昭の『袖中抄』(巻一三)で、その「なりたつ」の項に次のように言う。

  顕昭云、なりだつとは熟田津と書けり。但、考日本紀、熟田津此儞枳陀豆云。然者、万葉にてもにきたつと読可歟。(略)又熟田津をむまたつとも読めり。同心也。

 そして、『万葉集』の註釈研究の祖とも言うべき仙覚の『万葉集註釈(仙覚抄)』でも「にきたつ」と訓むべきことが説かれて、それ以来この訓が定着した。ほかに「たけたつ」の訓みもあったらしく、これらが入りみだれて当の伊予でもかなり混乱していたらしい。
 以上の外に、伊予の歌枕として早くから知られた代表的な歌枕に「ゆるぎの橋」「宇和郡」「岩木島」「菅生の山」などがある。「ゆるぎの橋」は『和歌初学抄』『八雲御抄』以来みられ、前者には「アヤフキコトニ」と注があって、和歌でどんなイメージをもった歌語であったかがわかる。なお、上覚『和歌色葉集』は「ゆるぎの橋伊豆」とするが、「伊与」の誤りであろう。『山冠集』の考証によると、「ゆるぎの橋」の該当地として次の三つをあげている。
 一 新居郡福武村の由流冝田という所にある橋
 二 浮穴郡久万山岩窟に掛けた橋
 三 桑村郡興隆寺境内の橋
なお、地誌類には、右の三つ以外の説もみられるが省略する。『山冠集』では、撰述者が、ある人から聞いた説をも紹介し、第一の福武村説のしかるべきことを説明する。なお、証歌には、
  みどり色にはるはつれなくみゆるぎの はししも秋は先づ紅葉けり                        (源頼光)
をあげている。すでに澄月の編んだ『歌枕名寄』でも出典を「懐中抄」(散佚書)とするが、詠者名はない。しかし、『山冠集』は詠者名を源頼光とする。平安中期の人源頼光には伊予の守になった経歴はあるが、「みどり色に」の歌が頼光の歌だとする根拠は不明である。
 「宇和郡」は『玉葉和歌集』の宇和鰯の歌で知られ、「菅生の山」は一遍上人修業の地であったことから知られるようになった。「岩木(城)島」は宇和郡にある島とみる説(契沖の『類字名所外集』など)もあるが、これは越智郡海中にある、現在も「岩城島」と称するそれである。

 宿の海

 「古今目録抄」の紙背に書かれた今様の一つに次にあげる歌謡がある(古典文庫『中世民謡集』による)。
 伊予のすくの海の海士にもまろめはなりなばや あな羨し海士の焚く火は     (一〇九・恋)
「すくの海」は「宿の海」と書くものと考える。この民謡が『梁塵秘抄』などがとどめる今様と同様に平安末期から鎌倉にかけて謡われたもの(古典文庫解説)とすると、伊予の郷土資料にある伝承中に出てくる「宿の海」が平安時代にもさかのぼりうる言葉であることがわかり注目される。この語は、伊予の始祖伝説中の重要な人物「越智益躬」の段にみられるのである。
 夷賊八千余人が鉄人を大将として我が国を襲来したとき、益躬は勅命を受けて夷賊退治に向かい、強敵鉄人の泣きどころが足の裏にあることをつきとめ、そこに矢を射通して殺し、敵を破った。その時、命乞いをした敵の残党は、「海士・宿海ト成テ相続シケレバ後来西海ノ海人ハ河野ガ下人ナリトゾ言ヒ伝ヘケレ」(上蔵院本『予章記』)という。また、「其子孫蜑ノ宿称トナッテ漁夫ニテ命ヲ続ケル故二西海ノ漁人ハ小千(越智)が下人ト定被」(築山本『河野家譜』)、また「其孫多々也。号之宿海。当家召仕奴原也」(越智系図)と、それぞれ多少語り方を異にするが同じことがらを語った部分である。また、『予章記』の一本には、「宿の海」について「宿海ニテ室・高砂ノ遊君ヲ集テ船遊シケル処々」と記すものもある。現在は失われた、この地名(?)「宿(の)海」が一体どういう実態を伝える言葉であったのかよくわからない。ただし、福田晃は、志田元の説をふまえて次のような指摘をする。
 「宿海」とは、河野氏に隷属した海人の集団のことで、『義経勲功記』や『異本義経記』に登場して、義経・弁慶譚を語る珠懐(種快とも)は、伊予国久万の地に住んだりするが、この「宿海」の名をひそませた名であった。そこから逆に、「宿海」と呼ばれる海人集団は、先の系譜・系図などに記録されている越智・河野氏の語り物を管理していた語り部たちであった、と推論している。また、『異本義経記』の吉岡本にみえる鬼一法眼は予州河野氏の祈祷師宮様杖の四代の孫で、伊予吉岡に出生、鬼一丸と言い、法師となって吉岡憲海と名乗ったが、この人物も「宿海」の一流であったのであろうという。
 今様では、海の名(地名)として「宿の海」があるが、おそらく、そこに拠点をおいた海人族―集団の名もまた「宿海」と称されたものであったと考えてよかろうか。

 歌枕の集大成

 元来、中央貴族の地方への関心の現れの一つとして歌枕は発達してきたが、中世以降、地方の時代の到来するとともに、都人の地方への関心はますます高まり、地方においても、独自の文化を生み出す気運が高まってきて、歌枕については地方においても独自に歌枕を集め整理するようになっていく。それでもなお、中世末までは、和歌・連歌にたずさわる中央の文人の手によって歌枕の収集整理は行われたといえよう。その大きな成果が澄月の編になる『歌枕名寄』(鎌倉末期に原形が成立、後増補されたか)であり、『和爾雅』の諸国名所之部であった。ただ、こうした歌枕への関心の拡大が、元来伊予の歌枕とは考えられていなかったものや、どこの地名か不明であったものなどまで同名の地名が存在することを手がかりとして強引に伊予の歌枕のうちにとりこんでしまうという牽強付会を許すようになってしまったところがある。この傾向は、江戸時代に入って各地で地誌類が編まれるようになると、おらが国意識―郷土愛が加わって一層強められることになる。
 現在大洲市立図書館が蔵する矢野玄道文庫に『山冠集』(内題は「伊豫国名所和歌抄」。玄道の書き込みあり)がある。これは、澄月の『歌枕名寄』などでさえ比すべくもないほど詳細なものになっており、さらに一つ一つの歌枕についての考証もなされている。ただ、編者など、その成立事情は詳かではない。伊予の江戸期になった地誌 『豫陽郡郷俚諺集』(成立は宝永七年(一七一〇))『伊予二名集』(成立は文化頃(一八〇四~))などが、それぞれの該当地に和歌をとりあげている。前者はその数は多くないが、後者はかなり多くの和歌を列挙し、さながら歌枕書のような観を呈しているほどで、『山冠集』指摘の証歌やその歌序との関係を調べてみると、それぞれに独自和歌が少々みられるのだが、大むね、『伊予二名集』の方が和歌を多くとっている。この書は『山冠集』を参照したのかもしれない。『山冠集』の方が『伊予二名集』より成立が古いと思われる。『山冠集』自体の研究、またそこにみる歌枕考証を手がかりとしての伊予の歌枕の研究など、残された問題は多い。最後に、『山冠集』の凡例の一部を引用しておこう。
  所の知れざるもの、又其の在所二三ヶ所もありて、真偽のしれざるものは人に尋ねて其の人の物語残らず出だし置きぬ。是後々吟味のたづきともならむとおもふのみ。聊も私意を加へたるにあらず。