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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

一 説話

 中世は説話の時代とも言うべき一面を持っている。この時期には、仏教の功徳や様々な仏者の生き方を語る仏教説話や、多くの興味深い人間の行動や世間の出来事を語る世俗説話が、出家者や知識人たちによって書きとめられ、数々の説話集が編纂されている。その中には、伊予国に関わる説話も多くあるが、『発心集』『古事談』『私聚百因縁集』『三国伝記』に述べられている平燈の話(『今昔物語集』に長増の話としてある)や、『十訓抄』『古今著聞集』に見える能因の話(『金葉和歌集』『俊頼髄脳』など)、また『十訓抄』『東斎随筆』の佐理の話(『大鏡』)などのように、中世以前の作品に既に収録されているものを再録したものもあるので、ここではこの時代に初めて書きとめられた話を取り上げることとする。

 世俗説話

 まず『古今著聞集』巻一二に、伊予国をふてらの島において、母親のミイラを神体として神通自在なる由を吹聴して信者を集め、多くの資財をだまし取っていた天竺の冠者と呼ばれた男の話がある。この男はもと高名の古博打であったが、博打に負けて借財を返すため、仲間の博打八〇人と大掛かりな謀計をめぐらしたのであった。この計画は一応成功したのであるが、その評判が余りに高くなったことと、男が自分のことを親王などと言い出したために、遂に捕えられて事が露顕し、後鳥羽院自ら神泉苑において訊問されるという大事件となった。この事件は実際に起こった出来事であり、世間に大きな関心を呼び起こしたものであったらしい。それは、藤原定家がその日記『明月記』(原文漢文。引用は今川文雄『訓読明月記』河出書房に拠る)の承元元年(一二〇七)四月二八日と二九日条の二日にわたって、

  人言ふ、伊予国、天竺冠者と称する狂者を搦め取る。明日、上洛すべし。御覧あるべしと云々。月来、彼の国に於て、神通自在の由を称し、種々の横謀を致すと云々。(四月二八日条)
  日入るの後、天竺丸参入し、召し問はる。言ふに足らざるの間、散々凌礫し給ふ。信久の下部、相具し其の家に向ふ。見る者堵の如し。後に聞く、即ち禁獄と。(同二九日条)

と記していることによって、知ることができる。をふてらの島とはどこを指すのか明らかではないが、伊予を舞台として展開されたこの事件について、その顛末を記すこの話を通して、当時の博打のしたたかな生き方や、民間宗教と庶民との関わり方など、中世社会の興味深い一断面を見ることができる。
 同じ『古今著聞集』巻二〇には、伊予国矢野保の黒島の鼠の話が述べられている。安貞(一二二七~二八)の頃、黒島のかつらはざまの大工という漁師が、或る夜島のまわりの海が光るのを見て魚かと喜び網を入れたところ、それは鼠の群れであった。この島には鼠が多く、鼠の島とも言うべき状態であったが、海底にまで鼠が巣食っていたという。古くから続く南予の鼠害を物語る奇譚である。
 次に、説話集ではないが、『玉葉和歌集』巻二〇神祇には、宇和の魚に関わる話が左注の形で述べられている。それは、魚を食べて住吉社へ参詣したことを恐れている男の夢に、住吉の神が現れ、
 いよの国うわの郡のうをまでも 我こそはなれ世を救ぶとて(資44)
という歌を詠まれたというものである。話自体は、住吉神は衆生済度のために生臭き魚をも嫌わないという神の有難さを述べたものであり、和歌と結び付いた話の多い住吉神らしい話であるが、同時に伊予国の宇和鰯との関連が考えられる話でもある。康平(一〇五八)の頃成立した藤原明衡の『新猿楽記』には、伊予砥や伊予簾と並んで伊予の名産として既に鰯があげられており、この話の魚についても、近世以降には特に有名になる宇和鰯と考えて間違いあるまい。なお、『玉葉和歌集』では明確でないが、同じ話を伝える『本朝神社考』では、この時の男を伊予国宇和郡の男であったとしている。他にも、和歌の語句に多少の違いはあるが、『難波鑑』『閑際筆記』に同様の話が見えている。
 最後に、南北朝時代の説話集『吉野拾遺』に、いよのはい鷹の話が見える。伊予国の大館左馬助氏明の許から世にためしなき逸物として献上されたはい鷹が、吉野皇居の上の山で夜毎鳴いて人々を悩ませていた怪鳥を退治して、自らも死んだので鳥塚を建てて葬ったという話である。その怪鳥は形は烏の如くで、翼は七尺余りのものであったという。伊予石鎚の鷹は、河野氏によって足利幕府にも献上された旨史料に見えており(景浦勉『河野家文書』昭42・伊予史料集成刊行会)、近世には徳川幕府にも献上されたという名高いものであった。

 仏教説話

 天竺・震旦・本朝の高僧伝を集めた仏教説話集『真言伝』巻四に、伊予国の神山神宮寺の縁起譚とも言うべき、行信禅師の話がある。尊勝陀羅尼誦持を行として伊予国神門山で修行していた行信の前に突然美女が現れ、数千年前猟師に射殺されたまま峰谷に散乱している亡夫の遺骸を法力で焼いてくれるよう頼む。行信は女の言う通り呪誦と杖の力で大蛇の骨を集めて焼いたところ、女はお礼に五亘戸の封を行信に与え立去った。行信はそれによって神宮寺を創ったというのである。かつては神として信仰の対象であったと考えられる大蛇を仏教が救済するという霊験譚である。ただ、伊予国にあるという神山神宮寺については明らかでない。
 また、平安朝の長元年間(一〇二八~一〇三六)に三井寺の実睿によって書かれた漢文体の『地蔵霊験記』が、地蔵信仰の盛んであった鎌倉から室町の時代に和訳増補され、後に良観という僧により追加編集されたものという『地蔵菩薩霊験記』一四巻本には、伊予に関わる二つの話が見られる。まず巻四ノ六は、一遍が地蔵の利生により悟りを開くという話である。一〇歳の時母に死に別れた一遍は出家して随縁房となり諸国を修行するが、讃岐の志度寺の上人に地蔵信仰を教えられ、また夢の告げにより宇多津の浜で海士の子が輪鼓遊びをするのを見て悟りを開く。後に京都東山の十遍上人に師事して一遍と改名し念仏宗をおこしたという。『一遍聖絵』に見える一遍の発心譚である輪鼓の話を基に、一遍の成道を地蔵信仰に引きつけて説話化したものであるが、志度寺や宇多津での悟りとか東山の十遍上人など、史実には見えないものである。次に巻五ノ九は、後鳥羽院の文治年中(一一八五~九〇)の頃、伊予国河野の秦伊之という信仰心篤き人が、献燈の功徳を聞き光孝寺の地蔵尊に灯明を供養した。その施を寺の別当が私用に使ったため地獄に堕ちたが、罪を悔いて地蔵尊を念じたので蘇生を許されたという話である。地蔵説話の中で比較的多い、地獄に堕ちた者が地蔵の救いにより蘇生するという型の話である。釈迦入滅後、弥勒仏出生までの無仏世界の衆生を救済するという地蔵に対する信仰が、武士や庶民の間で盛んであった中世の時代の様子を物語るものである。