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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

二  『神道集』と物語

 神道集

 南北朝の末期に編纂されたと考えられる『神道集』に、「三島大明神事」という話がある。『神道集』は唱導の目的で語られていたもので、諸社の縁起や神々の本地を説くものである。「三島大明神事」は、伊予国の三島明神の本地を説くものであるが、そうした本地物に多く見られるように、人として極度の不幸や苦悩を経て後に神と顕れるという、説話性の濃い話であり、次のような内容を持っている。
 伊予国三島郡に橘清政という長者が住んでいた。長者夫妻には子がなかったので、長谷寺の観音に祈ったところ、四方四万の庫の宝と引き換えに男の子を得、玉王と名づける。貧乏になった夫婦は、木の実やわかめを拾って玉王を育てていたが、ある時眼を離した間に鷲に玉王をさらわれてしまう。鷲は白人城を越え与那の大嶽に飛んで入ったので、二人は探しに行くが見つからず、その山中で以後一七年間過ごすこととなる。鷲は阿波国の頼藤右衛門尉の家の枇杷の木に玉王を置いて去り、玉王は頼藤の子として育てられる。玉王の美しさが評判となり、玉王は目代の子、国司の子と次々にもらわれていき、やがて帝の目にとまり宮中で寵愛されるようになる。一五歳の時、四国から上京した百姓たちの話を偶然聞いて自分の出生を知った玉王は、実の父母を探すために四国へ行き、やっとのことで老い衰えた両親と再会することができる。清政夫婦は死して三島大明神となり、玉王は伊予国の一宮と顕れたという。
 この話に見える橘清政という名前や白人城という地名などは、『予章記』『越智系図』などの伊予の資料にもあることから、この話はもともと伊予で語られていた話が東国に持ち伝えられて、『神道集』に取り込まれたものと考えられる。更に一歩進めて、この話は大三島の三島大明神と新居浜の一宮大明神を対象として、伊予の修験道に関わる人々の間で語られていたものであろうとする考えもある(松本隆信「本地物草子と神道集ー三島の本地をめぐってー」『文学』昭51・9)。話そのものも、申し子譚であると共に、鷲の誘拐と親子再会という、世界的にも類例の多い話の型を持つものであり、その成立・伝承は注目されるものであるが、特に伊予国の古伝承を考える上において、今後更に検討される必要があろう。

 物語

 『神道集』の「三島大明神事」とほとんど同じ内容を伝える物語草子に、『みしま』がある。現存する写本はいずれも室町末期から江戸時代にかけてのもので、その成立は『神道集』より新しいのであるが、『神道集』の末尾が。
  此双紙ヲ一度モ読マン人ハ、三度詣デタルニ同カルベシ。況五度十度モ聞カン人ヲヤ。(資93)
と、きわめて御伽草子的であることや、また話の内容においても、『みしま』の方に古い語りの姿が認められる(前掲松本論文)。
 他にこの時代の物語において伊予国に関わるものは、僅かに、馬から落ちて左腕をけがした中将殿が療治のために伊予へ下る場面のある『岩屋』と、伊予守に任じられた国司が、伊予までの道の遠さ、伊予の民の武威ある様、先司に取られて年貢のない様子などから、他の地への変更を希望するという記述のある『絵師草紙』が指摘できるのみである。