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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

二 紀行文に現れた伊予

 交通機関の整備が進む中で、中世には、旅をする人、またその機会ともに増大したことにより、多くの紀行文が残されることとなった。その中には、伊予国に立ち寄ったり通過したりして、伊予国について触れたものがいくつかある。高野の僧道範が讃岐国に流された時の紀行『南海流浪記』には、宝治二年(一二四八)一〇月二七日から翌日にかけて、寒川地頭小河六郎祐長の建立した堂の三尊供養の導師に行った旨の記載がある。次に、今川了俊が康応元年(一三八九)三月に足利将軍義満の厳島詣でに随行した時の紀行『鹿苑院殿厳島詣記』には、いよのみ島・道別の山・まさきがふろ・ふたかみ・まさかりのせと・はしかみのせと・ぬわ・とつな・つわなどの名前が見えている。また、遊行一六代祖南要の四国遊行に随行した其阿の『遊行十六代祖四国廻巡記』には、伊予国願成寺を訪れたという記事がある。薩摩大口城主新納忠元が文禄三年(一五九四)秀吉のもとへ上洛した折の紀行『新納忠元上洛日記』には、五月七日から三日間みつくれの湊に宿をとり蚊にせめられたこと、一〇日には昔盗船を立てたという野島の沖で夜を明かしたことが記されている。最後に、文禄五年(一五九六)に前左大臣近衛信輔の帰洛に、供奉の命を受けて上洛した玄与の『玄与日記』には、青島・こく島の地名が見えている。