データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

二 松山藩の和歌

 三代松山藩主松平定長の「めてあかぬ御そのの菊や言のはの露もつもりてふちとなるまで」の短冊はあるが、松山藩の初期の和歌資料はその他あまり残されていない。ここでは大山為起・仙波盛全を中心に松平定静までを扱う。

 大山為起

 為起は伏見稲荷神社神官松本氏に生まれ、母の縁で大山正康の養子となる。山崎闇斎に垂加神道を学び頭角をあらわす。貞享四年(一六八七)松山藩松平定直の召に応じて、味酒神社の神官となる。この間、日本書紀を講じて『味酒講記』五五巻を著した。宝永八年(一七一一)帰洛し、寓居を葦水軒と名づけた。正徳三年(一七一三)没。六三歳。号葦水。なお『葦水翁行状』(資料編 学問・宗教所収)参照。
 為起の和歌集に『葦水歌集』があったが、昭和二〇年の松山空襲で焼失した。『為起詩歌集』の存在も報告されているが、披見できる状態でない。現在為起の和歌で見ることのできるものは、西園寺源透の書き留めたものを中心に編集した『葦水詩歌拾遺』(仮題)、『味酒日記』所収の「日本紀竟宴和歌」、紀行文の『東遊紀行』である(資184~192)。他に色紙・短冊一枚がある(口絵に色紙掲出)。
 『葦水詩歌拾遺』には和歌二二首、漢詩一二首を収めるが、この中で注目すべきは松山の六景を詠んだ和歌・漢詩である。「江山春眺」「万歳暁鐘」「杉畷晩霞」「小栗暮雨」「堀江帰帆」「城頭霽雪」と、味酒神社周辺の景が選ばれている。「見渡せば霞にそむる江戸山の麓の桜匂ふ春風」は西山の景、「寝られぬは我が友となる暁の千秋の寺の鐘のひゞきは」は北の山越、「諸人の行きかふ道も春の日の斜に霞む杉のむら立」は北西の衣山の景、「旅人も袖打払ふ道の辺の小栗の里の雨の夕暮」は南に遠望できた範囲である。「霞晴れうち出で見れば堀江浦帆さけて集ふあまの釣舟」もすぐ足をのぼせる距離であり、城山の「あしひきの山白妙にふる雪は晴れての後も袖の寒けき」は書斎の窓から望めたものであろう。少しぎこちない点もあるが、見たままの飾らない詠出である。

 東遊紀行

 元禄六年二月十日、為起は東予の門人たちに招かれて桧皮峠を越えた。この時の紀行文が『東遊紀行』で、和歌二四首、漢詩二〇首を含んでいる。詩歌が中心なので、地の文は詞書の程度に簡略であるが、「それより山路にかかり、桧皮の峠などいふさかしき道を伝ひしてのぼり行く。此の国の上と下とを前うしろに道を分ちければ中山といへるなるべし。やうやう土屋の茶屋に着く。暫く憩ひければ、馬のはなむけする人々は松山に帰る。」といったやや詳しい叙述もある。伊予国の地形の特質を身をもって知った心も窺われる。
 為起はここで迎えの人々に案内されて、桑村宮の内の三嶋太夫のもとに一泊し、氷見を経て伊曽乃神社に着く。それからさらに新居浜の一宮神社、宗像神社、黒嶋神社等にまで足をのばしている。その折々に詩歌を詠んでいるが、注目されるのはやはり「伊曽乃八景」であろう。「磯宮夜月」「保国晩鐘」「籠守紅梅」「氷見夕照」「上野暮雨」「鴨川朝霞」「石鉄霽雪」「奥島帰帆」について詩歌各一首を詠んでいるが、先にみた松山名所と同趣向である。
  籠守紅梅 紅に霞をそへて咲く梅の匂ひ籠守の宮の春風
  石鉄霽雪 春なれや降る白雪は晴るれども残りて寒き石鉄の峰
 伊曽乃滞在中の二月二二日、為起は「垂加霊神の祭礼」をとり行い、これに参加した西条周辺の神官二六名に、松山から書状で奉進した一二名を加えた人々が、「社頭杉」の題で和歌を詠進した。『東遊紀行』の次にこれらの歌が記録されている。そしてこれに列座した氷見石岡八幡宮神主玉井忠政の子忠信(順候軒安山)が、この『東遊紀行を書写して残した。父の忠政の詠は「潔く見ゆる社の森の内に直なる道の立てる神杉」である。
 元禄一六年一二月一〇日、為起は『日本書紀』三〇巻を講義し終り、門弟とともに「日本紀竟宴」を行った(味酒日記)。いわば打ち上げの祝宴であるが、ここでも参座の者が和歌・唐歌(漢詩)を詠んでいる。平安の昔の宮中での古式にならってのことなのであろうが、地方における「日本紀竟宴和歌」の資料として珍しいものであり、講義をまとめた『味酒講記』とともにその意義は見直されてよいであろう。

 伊予稲荷神社奉納和歌

 伊予市の伊予稲荷神社は早くから近郊の人々の信仰を集めており、御替地によりこの辺は大洲領となったが、松山方面からの参詣者は絶えなかった。そのためかこの神社には仙波盛全、松野盛常の奉納和歌、木村勝政の『藤棚之記』が残されている。
 仙波盛全は明暦三年(一六五七)伊予郡大平村に生まれ、学を志して松山に出、一家を起した。半幽斎とも号す。正徳五年(一七一五)の六十賀には二四名の者から松竹に寄せた賀歌を贈られ、みずからの歌を合せて『奉納和歌五十首』一巻を稲荷神社に奉納した。『予州二十四社考』の著者小倉正信のほか、大月吉迪(正蔵、号履斎。儒者)、小倉為信(河内屋。正信父)、小倉善信(正信弟)、阿部宗義(医師)などの名が見える。縁者のほかは歌友であろう。賀歌の常として類型的な歌の多いのはやむをえないが、当時の松山歌人の歌を残す唯一の資料である。「幾千世を松に契りて老せずもさぞ十返の花と見るらむ」(正信)「末遠き千年の坂も越えなまし竹の葉山に契る齢は」(吉迪) 「数ふとも尽じな千代の節毎にこめてさかふる庭の呉竹」(尾崎氏妻)など。
 盛全は享保三年(一七一八)に『あけぼの』と題した二六首の伊予名所歌の小冊を残しているが、これを増補して享保八年に稲荷神社に奉納したのが『伊予名所奉納和歌五十首』 一巻である。巻末に小倉正信の跋文があり、盛全の略伝を記した後、盛全が老とともに歌の道をきわめ、伊予国名所の事蹟を知る者の少なくなったのを嘆いて、故人の詠の題のほか新たに名所旧蹟、神社について詠んだもので、稲荷の神の冥助によると記してある。名所は二名嶋。熟田津・伊予湯・矢野神山・由流伎橋など二〇、故事は天山・大穴持命など六、神社は正信の『二十四社考』と同一の神社についての詠二四首である。これらの歌は早くから知られていたのか、『予陽俚諺集』『伊予二名集』などの地誌に、盛全の名を出さないで引用されている。

    熟田津に船出せんとや雲晴るゝ伊予の高嶺をまづ望むらむ
    あかでのみ ぬさとし神の みになはゝ のこれるさくら かけむいくたひ  
    ※沓冠あぬみのかみのはらひ

 稲荷神社にはもう一巻『奉納千首独吟和歌』がある。享保二〇年松野盛常の奉納。柯春軒英斎の序がある。英斎その人は不詳であるが、その序によれば盛常は神職藤原朝臣盛正の嫡子盛倚弟とある。当時は高市姓(現星野姓)で、中興の盛芳から盛倚は四代に当るが、盛常の名は系図に見えない。この盛常が夢想を得て詠んだのがこの千首歌で、四季・恋・雑と百の小題のもとに十首ずつを詠んでいる。巻末に木村勝政の跋がある。「杜若 いと深き色は見えけり山川の岩かきつばた水のまにまに」など佳詠も多い。
 『藤棚之記』 一巻は松山藩軍士木村勝政の作。神社に植えた藤の名木の由来を漢文で綴る。

 松平定静時代

 八代藩主定静は冷泉為村に和歌を学び、古今伝授の許しを受けた時、為村より秘蔵の人麿尊像を譲られたという。ただ定静の歌は為村点の歌稿ほか、『松山叢談』九下、『予州詩藻・一』等に十数首と『東武紀行』のみである。「何事もみつればかくることはりを昔のあとを見ても忘れじ」は須磨内裏跡を見ての詠で為村の賞美を得た。また十六日桜を為村に贈って、その長歌を返されている(第九節319P参照)。『東武紀行』は明和八年江戸を出立、三津浜に帰着するまでの、和歌を主に構成した紀行文である(資768)。歌も文も手なれており、旅の風雅をよく写している。歌は歌枕においても気取りなく素直な詠が多い。九代藩主定国(田安宗武次男、定静養子)にも『源定国朝臣御紀行』がある。参勤の江戸行の旅で、和歌が多い。
 定静の時代は文武ともによく栄えた。円光寺の僧明月は奇行と『扶桑樹伝並序』で知られているが、和歌は残っていない。これに対し学信和尚は定静に招かれて大林寺に入った人で、『学信遺稿』の「幻雲集」には七三首の短歌、二首の長歌が収められている。諌言して幽閉された石原勘助の赦免を乞うて入れられず、寺へも寄らず無一物で宮島へ去ったが、その途次粟井坂で「澄める世にまたも粟井の水ならば立ち帰りきて影うつさまし」の詠を残した。