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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

四 八幡浜の国学歌人

 本居宣長の門人近藤春彦が八幡浜に来遊し、野井安定、野田広足らがこれに学んだ。二人はさらに松阪を訪れ宣長の門人となった。それ以後八幡浜では国学が盛んになったが、その著作、歌集の残るものは少ない。

 野井安定

 安定は八幡浜の醸造業油屋、通称七郎兵衛、寛政八年(一七九六)宣長に入門、『古事記』『万葉集』を学んだが、今は『歌稿』のみが残る。この『歌稿』には母の智慶の歌三四首、また九州紀行の歌も含まれている。宣長に添削を乞うたもので、「綏定上」とある。寛政一一年没。四三歳。その歌は「とても世の人のしるべき身ならねど今日ふる雪は友ぞ恋しき」「山の端にしばしにほひて出るよりかげさやかなる秋の夜の月」と斬新さは足りないが、自己の心情でとらえた対象を素直に誘もうとしている。母の智慶も「枕だに一夜むすびのあやめ草みじかき夢のなごりとぞ見る」など艶な歌もある。

 野田広足

 広足は西宇和郡矢野村庄屋野田万蔵の養子。後大洲平地村に移る。安定とともに宣長に師事した。天保五年(一八三四)没。七九歳。『歌稿』が残っているようであるが(大洲市誌・写真版)、未見。「伊予人物資料」(伊予史談会)に計二一首を収める。「おもひ立つ家路の末をさきくあれとちまたの神に幣たてまつる≒播磨潟漕ぎ出でみれば朝日影明石の門より豊さかのぼる」など万葉風の歌を詠んでいる。

 二宮正禎

 正禎は春祥とも号し、梶谷守典に医術を学び、後国学に志して宣長の門に入った。八幡浜に帰って家塾を開いて子弟の教育に当った。歌にもすぐれ、八束とも親しく交った。正禎の歌は今『伊与すだれ』という歌稿に八首、『ひなのてぶり』に長歌一首(資79)、水沼成蹊母の賀の前集に長歌・反歌各一首、後集には三首を拾うことができる。安政三年(一息ハ)没。八〇歳。「すみのえの松の千歳にあやかりて老忘れ草君は摘まなん」は成蹊の母への賀歌、「春待つは嬉しけめども七十路に明日は及ばむ翁なりけり」は老の心境が素朴に歌われている。「手にとればいとゞ思ひのます鏡我が影みても人ぞ恋しき」は技巧的な恋の歌。
 なお『伊予すだれ』には、本居内遠、足代弘訓、藤井高尚、中島広足の歌があり、交渉があったものと思われる。地元の歌人では、浅井清足、安部せき子、稲井昌誠、和家貞規、菊池慎治、須藤三蔭、田部重村、渡部昭、菊池高樹、矢野高輛、梅田まき子、九町久子、摂津親英、野田良久らの歌がある。いずれも門人とみてよい。

 野田美陳

 通称善内。稲穂と号す。矢野村庄屋頼寿の次男。本居大平門、国学和歌を学び、正禎、守典、八束らと交わる。その著書とされる『含みのめぐみ』は、宣長の紀行文を筆写したもの。『しづのたまき』『三本木月見会和歌』は未見。『ひなのてぶり』に八首、水沼成蹊母の賀前集に一首、後集に一首、『西予人物誌』に五首が記録されている。天保一四年(一八四三)没。七四歳。美陳の妻冬子、その次男良久、娘豊子も歌をよくした。美陳の歌は「八束穂のたり穂の稲のうちなびくあきつ嶋ねの秋ぞたふとき」「はなさそふ風にたぐひて聞くもうし春も初瀬の入相の鐘」と一応はまとまっているものの、やや観念的に流れている。

 菊池和久

 名は安章、後に和久と改める。伊方八幡神社神主。初め常盤井守貫に神道を学び、後、京都吉田の皇学館に学び、大平に入門した。宣長十三回忌(文化一〇年)に追慕歌三首を捧げた。「ふるごとの御文の教へ見るごとに仰がざらめや鈴の屋の大人」はその一首。嘉永五年(一八五二)没。七四歳。

 四拾番歌合

 近田八束が判者になって行われた八幡浜歌人の歌合である。和家貞規十二首、矢野家当一二首、摂津親英一一首、清家定雄七首、浅井清足一二首、菊池高樹一二首、清家定章一一首、菊池森親三首の八名が八〇首を詠んで四〇番に合わせたもの。清足の四勝、貞観、定雄の三勝が多い方で、二二番が持、一番は判を付けていない。八束の判によると、実際の興行ではなく、紙上の判であったようである。
     左  夕くれの空かきくもり吹く風に桜の花の雪そふりくる      清足
  右勝 しばらくはこほりてよどめ雪とのみ見えて散りうく花の白波   定雄
     左も一渡りは聞こえたり。右こほりてよとめとありて花の白波ととぢめられたる上下よく叶へり。右を勝れりとす。

右の歌人の中の主な人について略述する。

 清家堅庭

 通称を牧太、また下総、名は定臣、定雄、後に堅庭と改めた。二宮正禎、藤井高尚に国学を学び、天保六年本居内遠に入門した。矢野神山八代神社の神職で、長崎で洋学・医学をも修め、帰郷して子弟の教育に当った。安政四年、王子森文庫を設けた。今その一部が八幡浜市立図書館に蔵されているが、彼の著書と伝えられる『水かや日記』『八重垣内集』『伊予すだれ』は見当らない。堅庭の和歌は、内遠に点評を乞うた『詠草』二冊がある。長歌、旋頭歌、和文をも含んでいる。また長崎に遊学した時の紀行文『日記』(仮題か)にも多く和歌があり、点があるので、これも内遠に乞うたものか。『ひなのてぶり』には一六首入集。明治一〇年没。五六歳。「ものおもへば風も色ある心地して身にしむ秋の夕かなしも」には「聞えたり」と内遠の評がある。他に「白雪の袖に降りくるここちして暁寒くちる桜かな」(ひなのてぶり二編)など。

 和家貞規

 通称権九郎。双岩村中津川庄屋二代目。広足、正禎について国学・和歌を学ぶ。『ひなのてぶり』に一二首のほか、嘉永五年(一八五二)の『筑紫日記』がある。大分から太宰府、長崎への旅で、中島広足をも訪れている。歌を多く含み、諸費用のメモも記している。堅庭とも親しかった。明治三五年没。九一歳。「ちりぬれば跡だにつけでとふ人も今はあらしの花の白雪」は右の歌合の勝の歌。「とりの音に鳴き別れこしなごりには月のみ袖に親しかりけり」も同じ恋の勝歌。

 浅井清足

 通称十兵衛。八幡浜の庄屋浅井記保の養子。正禎に学んだ後、内遠にも入門した。八束、堅庭、安道らとも交わる。『ひなのてぶり』に三首入集。明治九年没。五八歳。墓誌銘は半井梧菴が書いた。「いとひつる嵐はなぎて霞む夜の月にをりをり散る桜かな」は歌合の勝の歌。なお記保も歌をよくした。
 摂津親英は双岩村庄屋をつとめた。『ひなのてぶり』には六首入集。明治七年没。四四歳。菊池高樹・菊池森親は神職で、ともに正禎に学んだ。高樹は『ひなのてぶり』に六首、森親は三首入集。高樹は安政六年(一八五九)歿。五〇歳。森親は安政四年没。五五歳。清家定章は神職定澄の子、『ひなのてぶり』に三首入集。
 その他、宣長門人には梶谷守典(享和三年没。六二歳)、大平門人に菊池武清、内遠門人に野井安道(安定男)、浅井記定がおり、八幡浜の和歌はこの本居三代の流れを中心に展開している。
 なお、『類題鰒玉集』には、守典、正禎、安久稲穂、『打聴鴬蛙集』には、安道、記定、正禎、定雄の歌が入集している。