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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

六 東予の歌人

 元禄六年、大山為起が伊曽乃神社に来遊し、垂加神道祭礼を行った時に参集した神主は、新居浜から周桑にかけての二六社、二七名であった。この時詠まれた「社頭杉」二七首が東予における最も古い和歌である(資188)。歌そのものは型にはまった頌歌であるので、特に注目するほどではないが、これだけの技量の歌人が揃っていたことは、それ以前の和歌史の豊かさを思わせる。それが後の東予歌壇隆盛の基盤となっていることは確かである。その意味において為起の来遊は和歌の発展に対しても大きな意義があったと思われる。

 石岡八幡宮

 西条市氷見の八幡宮神主二九代玉井忠政・忠信父子が揃って為起の神道式に出席した。忠政の歌はこの時の一首しか残っていないが、三〇代を継いで忠信を改めた忠幸の代になると、その活動の跡がしるされることになる。まず『神祇講詠草』 一冊がある。享保一六年(一七三一)一一月から一九年四月まで殆ど毎月開かれた歌会の記録である。それに翌二〇年五月の分が追加されている。参加者として冒頭に列記されているのは、田野の豊田義堅、北条の矢野義尚、新宮の日野真泰、周布の伊佐芹重元、吉田の首藤知義、今井の越智義安、壬生川の矢野義雄、氷見の玉井忠幸、同忠俊、高知の宮原内記、小松の佐伯正明の一一名で、これがこの会の正式のメンバーであろう。周桑、小松を中心とした神主たちで、会によっては、那綱、茂真、秀世といった人々が加っている。会は持ち廻りで行われ、忠幸亭五回、重元亭・義尚亭四回、真泰・知美・義安・義堅亭三回、義雄亭二回となっている。これでみると忠幸が主になった会のようで、この詠草も忠幸の筆跡である。会は季節に適った題が予め当番から送られ、それによって詠んだ歌を持ち寄ったようで、忠幸の出席できなかった二〇年四月、五月は歌を送っている。歌は「寒増る庭の嵐のつらさをも忘れて向ふ初雪の空」(忠幸)「明けぬれば春の初めの色そひてひとしほ深き夜の梅が香」(義尚)「いつも降る物にはあれど軒端なる花にぞいとふ春雨の空」(重元)「立並ぶ木々の梢は緑にてすきまに洩るる花ぞ床しき」(義堅)「咲く色もひとしほ深し川岸の波にゆらるる山吹の花」(重元)など題に付きすぎて自然なままの誘出にはなっていないが、比較的素朴な詠みぶりの歌が多い。
 忠幸には他に表紙のない書留帳一冊があり、漢詩一三首、和歌一〇首、「西泉一宮神社神鏡由来」などがある。若い時にも『八幡大神宮私記』(元禄九年)を書き、『東遊紀行』を書写所持していたのも忠幸である。この頃から冷泉家の門人であったようで、定家流の写本『加茂社歌合』『五社歌合』も所持している。安山と号し、延享二年(一七四五)没。その子忠俊にも『主静之筆記・祝寿弁』の書写本があり、勉学の様が窺われる。

 詠百首和歌

 忠幸の跡は、忠俊早世のため忠宿が継ぐが、それも早世して弟の忠成が継いだ。この忠成、その子忠尚の代に至って石岡歌壇が形成される。その一端を示すものが『詠百首和歌』(内題による)である。百人が一首ずつを詠んだもので、最後の忠成には「願主」とあり、泰納されたものとわかる。「追加」として「寄道祝」一一人一一首がある。それによるとこの道は和歌の道であるので、その隆盛を祝って奉納されたものであろう。この百人のうちには、鴨祐為、熊野本宮社司音無長之、京都の森河高尹、同周尹、伴蕎齢、上冷泉家御内松永久雄らがおり、これら中央の歌人を除いた人々が石岡歌壇、またそれに同調する者であったろう。西条、小松、周桑が中心であるが、今治から川之江に及ぶ。小松では渡部忠、本善寺法阿、高野光利、宝寿寺見阿、周桑では矢野政則、本妙寺日誠、豊田義辰、越智通辰、今治では江嶋為親、光林寺宥順、多羅尾光品、西条では林昌寺見明、高橋興政、高橋惟政、覚法寺成覚などである。題は四季・恋・雑の小題のもとに、奉納とは無関係に自由に詠まれている。「九月尽 今日のみの秋の名残りとながむればいとど身にしむ夕暮の空」(磯神社神主秀起)「寄鏡恋 ともに見し昔を思ふ涙より向ふ鏡の影ぞくもれる」(通辰)「古郷橋 昔をも猶しのばれて故里のふりし軒端ににほふたちばな」(忠尚)など、堂上派の優雅な歌で、忠幸の代よりも熟達している。

 高角神社

 『歌集』(表紙欠)一冊には「通題 納涼風」二〇首があるが、周円、通久、在真、見阿、貞閭の名が見え、在真以外は『詠百首和歌』にある人である。また同『歌集』に「安永三年(一七七四)六月十八日納涼会当座」として「石岡八幡宮社中柿本明神法楽詠五十首」がある。この柿本明神とは人麿を祭る神社で、石見国から勧請して、石岡八幡宮内に高角神社という小祠を建てた(今は高良神社という小祠に合祠)。この五十首はこの高角神社に奉納したもので、最後の祝言の歌はやはり忠成が詠んでいる。すると先の『詠百首和歌』も和歌の栄えを祝っての奉納であるから、これもまたこの高角神社への奉納であったかもしれない。石岡八幡宮神中なるグループがすでに結成され、これが柿本明神を勧請したのであろう。そしてこのグループの中心人物の一人周円法師は師の冷泉為村に乞うて「山桜吉野の雲にあふぐ名も春をかさねて高角の宮」など九首の歌を得ている(秋山英一 「伊予に遺る冷泉為村の筆跡」愛媛の文化第一六号)。
 こうして高角神社を中心に石岡八幡宮社中は忠成の代に大きく発展し、西条・小松のみならず川之江から今治に至る広い範囲の歌壇を形成していたと思われる。

 小松御連衆和歌

 石岡八幡宮に『源氏歌集』なる一本がある。源氏物語中の和歌を抜粋したものの外に、「小松御連衆点取」和歌を収める。歌会での点を得た歌のみを集めたものであろう。一〇の歌題に、延寿院、長松院、提宗、如風、錠女、好時、勝伴、昌誉(本善寺四世上人、宝暦五年歿)の八名が各一首計八〇首である。殆どの人の素姓がわからないが、小松藩側近に近い者なのであろう。
 次いで本善寺昌誉の歌一一首がある。「昌誉上」とあるが、誰に奉ったかは不明。「右の歌は□□不残長点にて御座候」とあるので、歌会の時の歌を集めたものであろう。「思ひやる井手の玉川春ふかみうつろふ色の山吹の花」「思ふぞよ常なき花の桜木も過し昔の春は忘れず」などの歌がある。

 周円法師

 石岡八幡宮社中の一人に周円法師がいる。紀州の叔父を頼って出家し、その死後は阿波を経て伊予に入り、一時萩生に住んだが、壬生川の円海寺の辺の庵に入り、後、小松の一本松の里に庵した。冷泉為村の門人で、広く和歌の指導をした。安永四年(一七七五)、四〇歳の時重病にかかり、没した。この周円法師を慕って門人たちがその歌を集めて文化四年(一八〇七)板行したのが『松葉集』である。二三七首を収める。序文は加地信之。周円の歌はこのほかにも『詠百首和歌』に一首、『歌集』に三首、高鴨神社蔵『松葉集』の裏表紙に五首がある。「ちる花の浪をもかけてみ吉野の山風高く落つる瀧つ瀬」「中空の霞にもれて春もなほ雪を姿の伊予の大嶽」「山風の音をはげしといとふこそまだ住み馴れぬ心なりけれ」など、平明で格調の高い歌を多く詠ん
だ。
 また周円は為村に乞うて、石鎚の詠を得ている。

 周桑歌人集山月集

 高角神社奉納に歌を献じていた佐伯貞中は周桑郡吉田村の人。松下庵、山月翁と号した。冷泉為村門人。享和三年(一八〇三)、八十の賀を迎え、これを寿く人々が和歌、狂歌、発句を贈った。これを集めたのが『周桑歌人集』(仮題か)である。序文は吉展。歌人では座光寺通祇、見阿、加地信之、重明、自然、義利、敬徳ら五三首、発句一一、篤山の漢詩一首を収める。貞中の歌集は『山月集』一冊があり、一七九首。やはり堂上派の優美な手なれた歌が多い。「音もなき春の雨にも夜を残す老の寝覚の袖はぬれけり」「かすみても伊予の高根の遠からぬ吉田の里の春のあけぼの」の佳詠がある。

 花の下ぶし

 『詠百首和歌』に歌を贈っていた京都新玉津島神社神主森河高尹が来遊し、その帰洛に伴い吉野の花見に出かけたのが貞中と渡部忠(小松)で、天明五年(一七八五)のことである。大阪から吉野に入り、明日香をめぐって京都にとどまる。ここで忠は髪を切り、円浄と名を改めた。京都では歌会を開き、都の歌人と交っている。その経緯を書いたのが『花の下ぶし』で、円浄が所持していたものなので、彼の筆になると考えられる。『山月集』にない貞中の歌、忠(円浄)の歌を多くこれに見ることができる。円浄にはまた『筑紫紀行』(仮題)があり、歌を多く含む。

 加地信之

 高尹帰洛の途次まず立ち寄ったのが土居の庄屋加地信之の宅であった。信之は山中庵を営み、為村の門人。周円の『松葉集』の序文も彼が書き、貞中の八十賀にも歌を寄せた。『花の下ぶし』にも二首を詠んでいる。『草庵百首和歌』は、信之のほか、周桑の神護寺湛空、越智通清、内藤義尭の四人の歌を収めているが、信之には「宗匠加地丈助信之」と記されているので、歌の宗匠をしていたと思われる。とすれば他の三人は信之に指導を受けた人で、この集の「草庵」という命名からすれば、訪れてきた三人を山中庵で指導した時の歌を集めたのがこの集であるとも考えられる。なお湛空は『詠百首和歌』に入っている。
 信之は文化五年(一八〇八)没。七一歳。その歌は「色々の玉とこそみれ秋の野の花の千草の露の月かげ」のように優美ではあるが、対象をやや知的にとらえる古今的な点がある。湛空らの歌も同じ傾向である。

 高鴨神社鴨重忠

 小松の高鴨神社は小松藩の産土神として一柳家の尊信も厚かったが、十四代神主重忠は文化四年(一八〇七)八月鴨家の養子となった。実父は田窪峰忠(後述)で、歌をよくした。その影響もあってか重忠も和歌を好み、学問に励み、篤山にも入門した。杉の屋、碧山堂と号す。歌は初め芝山持豊に学び、その没後、文政五年からは飛鳥井雅光に入門した。石岡社中の冷泉門に対し、異色の存在であるが、歌友は広きに亘った。その日記『高鴨神社御日次帳』は七一冊に及んでいる。歌集は『碧山鴬詠艸集』巻一、二、『杉乃屋詠艸集』巻三のほか『詠草』二冊がある。紀行文も『上京旅中日記』『神路山紀行』『都路紀行』などがある。また『山月集』『花の下ぶし』など多くの歌友の歌集を精力的に筆写して残した功も大きい。安政二年(一八五五)没。六七歳。重忠の歌は触目の景を素直に詠んだものが多く、堂上派的な観念歌もあるが、さほど技巧を用いずにすらすらと詠んだ中に佳作がある。「伊予の海や見る目も晴れていさぎよく船こぎ出づる今日のうれしさ」「名残りありや折しもかかる横雲にひき別れつつ帰る雁がね」がそれである。

 井手里三景和歌集

 題簽『二名州高鴨宮奉納井手里和歌集』。冒頭に「伊予二名州周敷郡三景」として「高鴨宮」「常盤井」「井手里」の三つをあげて、以下この三景についての和歌、漢詩を集めている。「井手郷」は古くからの地名で、高鴨神社のある南川もこの内である。常盤井も境内にある井で、旱抜にも枯れない清水であることから、持豊が命したもの(小松邑誌)。
 芝山持豊(六七歳とある)、飛鳥井雅光、重忠、峰忠の和歌、篤山(漢詩)をはじめ、松山、浪花、京都、江戸までの人々、五五名の詩歌が集められているのは壮親でさえある。天保八年(一八三七)の記事が最も新しいので、この頃までに集められたものであろう。この中に摂州住の江神宮寺の法印義性の「伊予名所二十首」や伊予の高根詠のあるのも注目される(名所歌については後述)。
  高鴨宮   井手の里に跡たれまして世を守るその名も四方に高鴨の里  持豊
  常盤井   昔あり名も常盤井の秋の月宿れる影の澄まん幾千世     雅光
  伊予の大嶽 足曳の山てふ山は霞むともそびえて高き伊予の大嶽     邦慶
 重忠の妹為子は、朝倉村多伎神社神主沼崎誠則に嫁した。誠則の母幾子とともに飛鳥井雅光の門人であるが、重忠との交渉も深い。
 また伊曽乃神社の荻園と越智萱庵の二人が今治に旅した時の紀行が『蝶鳥日記』で、その抄を重忠が書き残さている。誠則の所にも立ち寄り、狂歌問答などもしている。野間忠行方にも寄って帰路についている。

 覚弁の句題和歌

 小松新屋敷村一之宮別当前宝寿寺第八世の覚弁に『句題和歌』一冊がある。「松田伊予守賀茂県主直兄点也」とある。句題和歌とは漢詩の一句を題にして、それに応じた和歌を詠むもので、平安時代より行われているが、伊予の和歌資料の中でまとまったものとしてはこれのみである。たとえば「恨別鳥驚心」は杜甫の『春望』の一句であるが、これに対しての和歌は「さらぬだに急ぐ別れの恨みをばいかにせよとか鳥の鳴くらん」である。「螢入定僧袖」には「よそめには玉かと見んも恥かしなほたるすがれる墨染の袖」で、「をかし」と評がある。覚弁は京都上賀茂神社神主松田直兄の門人。弘化三年(一八四六)没した。

 初春山

 石岡八幡宮に『初春山』と題する一冊がある。初めに一六○首の歌を書き、点を付す。そのうちから三六首を抜書きして、作者名をあげている。つまり名を入れない一六○首は歌会に持ち寄られ、相互に点を入れ、その中から高点のものを抜いたのが三六首なのであろう。作者は久門政美、飯尾正近、高橋光正、矢野光通、野間通節、井沢繁木、吉田信成、矢野是知、加藤則孝、吉田織之進母照子、玉円、民女、よし女等である。このうち政美から照子までが『ひなのてぶり』に顔を見せ、政美一二首、光通九首、通節七首、光正五首、正近は初編のみに三首、信成・則孝・照子は二編のみに五首、是知四首、繁木三首も二編である。これ以外の作者の本名はわからない。しかしこれによって当時の点取和歌の一端が窺える。なお政美には『うたどめ』三冊があり、三〇五首を収める。文字通り歌の書き留め帳で、そのままの形を伝えている。
 なお『ひなのてぶり』には重忠七首、円静(浄)四首、貞中三首のほか、西条藩では、三木松窓二七首、塩出忠敬六首、望月九八郎母住子九首、真部母住子九首、真部惟清・西福寺栄研一三首、為雍六首、小松藩では、近藤忠行一七首、飯尾葛蔭一六首、荒木黙住七首、森川定見六首などが目立つ存在である。小松は歌人数が二編では初編の一〇人から一八人に増加している。

 近藤篤山

 小松藩の儒者近藤篤山も歌をよくした。尾藤二洲に師事し、川之江に帰って塾を開き、享和二年小松侯に聘せられ、以後四〇年余教化に尽した。弘化三年(一八四六)没。八一歳。その『篤山歌集』は天保四年から始っているので、本格的に作歌し始めたのは晩年であろうか。それでも多くの歌友のあったことは『篤山歌集』から窺われる。川之江の長野祐憲、宝寿寺覚弁、近藤忠行、黒川石漁(通侃)、荒木執本、越智萱庵らの名が見え、特に覚弁宅では歌会が多く催され、「宝寿寺閑居正月兼題」(天保七年)「宝寿寺閑居和歌集会兼題」などとある。その他の歌会では「氷見越智萱庵宅和歌会の宿題」「清新堂和歌会兼題」「松下堂和歌会席上」など種々の所での和歌会が記録されている。歌は篤山の老の慰みであったのか、積極的な作歌のさまが窺える。篤山の歌は、自分の生活のありのままを詠んだものが多く、平明率直な詠みぶりの中に心ひかれるものがある。「ねぶりつつさめつつぞ聞くこの庵のあし垣近き音の流れを」「世をいとぶ心ならねど老らくはただ静かなる庵ぞ涼しき」は老の心を歌った佳詠である。「見渡せば麓はくれて夕霞だなびく遠の峰ぞをかしき」は松下堂で「遠峰帯晩霞」の句を題とした句題和歌である。覚弁との影響関係を思わせる。なお篤山に『寝室独歌』が『篤山余稿』に収められているが、その歌はほぼ『篤山歌集』のものと同じである。
 川之江の長野祐憲は港役人を勤めた人で、豊山の弟。上松の途次には篤山宅にも立ち寄っている。その『うたかた』は、古今集の六義について、例歌をあげながら具体的に解説した歌論書で、祐憲や妹の歌も含まれている。その他『紀氏古今集序説俗解』や『石燕記』がある。石漁は篤山とは異父同母弟。周布郡干足村庄屋で「山もみぢ深きおもひのけふの会にあふは嬉しき涙なりけり」などの歌があるが、俳人としての方が名高い。
 『東海道中日記』は文政四年の江戸行で、著者は不明であるが、西条藩士である。歌、地の文ともにかなり熟達しているので、技量ある歌人のものと思われる。

 真鍋豊平

 宇摩郡関川村(土居町)の千足神社神主。蓁斎、水穂舎と号した。一絃琴の名手として知られているが、和歌にも通じ、京都、大阪にて琴、歌を教授した。『詠草』『自詠草』『水穂舎長歌集』八冊、編としては『水穂舎月次集』『水穂舎年々集』があり、歌合で判者になったものに『百六十六番歌合』三冊があるが、これらは大阪のもので、伊予歌人は含まれていない。長歌にすぐれ、その数も多い。明治三二年没。九一歳。今一首をあげれば「女郎花にほひし秋をさながらに千代経しのちもかぐはしきかな」