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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

八 幕末期の松山歌人

 松山も幕末期に至ると歌壇は盛況を呈してくる。特に石井義郷を中心としたグループは、江戸の海野遊翁について学び、その名を広く知られることになる。その他儒学、国学、心学の学者も多く輩出しているが、それらの人々も歌を詠み、俳諧のみならず、歌においても、子規をはじめ多くの歌人を生む地盤を作っていくことになる。

 近藤名洲

 新居浜角野の生まれ。名は元良、通称平格、名洲は号である。江戸の大島有隣について心学を学び、松山に帰って田中一如を助けて六行舎にて心学を講義した。そのかたわら歌を詠み、多くの紀行文を書き残した。『元良歌草』一冊は整理されたものではないが、三八〇首ほどの歌を書きとめている。安政四年に久万地方に講義に出かけた時の紀行文『久万山回村詩歌』には漢詩とともに二八首が詠まれている。素朴な詠みぶりで、心学者らしい教訓をのぞかせた歌もある。「親を思ふその涙より生へ春に咲ける桜の千代もたがはず」は孝子伝説のある十六日桜の詠。「さくら咲く雨の庵の静けさに人の心の花も見えけり」は西山の花を見ての詠であるが、人の心のあたたかさにふれた感動が重ねられている。慶応四年(一八六八)没。六九歳。

 田内董史・幸子

 董史は通称求馬、愛南と号す。杉山熊台に漢学を学び、香川景樹に国学、和歌を学んだ。石見、小松、江戸等にて書を講じたが、晩年は松山に帰り立本舎にて子弟の教育に当った。その潔癖・気慨の人であったことは『松山叢談』第一三下に詳しい。その歌は『田家日記』一冊に約六三〇首、和文数篇を収め、年月順に配して詞書があるので、それ自体歌日記の形をとっている。自然詠の多いのはもちろんであるが、その中にみずからの述懐や人事を詠みこんだ歌にみるべきものがある。弘化四年(一八四七)歿。四九歳。
 妻の幸子も和歌をよくし、董史亡きあとその哀傷の日々を綴った歌日記に『蜑のすさび』がある。夫を慕う綿々たる情が美しい和文で綴られていて感動的である。またこの中には董史に親しかった人や弟子の歌もある。石井義郷、中嶋包準、木村信順、三輪田綱麿などの名が見える。四周忌の追善でこの日記は終っている。
  露のこぼれるのを見て  白露と消えをあらそふ身をおきて人うらめしく思ひけるかな         董史
  ある聖を北山に尋ね参りて 帰るべき身をも忘れて語らへはこの世離れし心地こそすれ         董史
        亡き人の手向に折りし朝顔の花はいつより露けかりけり     幸子

 石井義郷

 松山藩士、名は喜太郎、萩の舎と号した。十二、三歳から歌を好み、初め三浦幸郷につき、後伊藤祐根に学ぶ。天保七年、海野遊翁に入門し歌のさまを教えられた。その結果、遊翁をして、自分の死後は短歌は清水謙光に、長歌は義郷に問えと言わしめるほどに長歌に長じた。三津浜勤務であった時、興居島の堀内家にある『源氏物語湖月抄』を読み、殆ど暗誦するほどに至り、これによって歌が飛躍的に上達したという(『松山叢談』第一四下)。幕末期松山の歌の大御所で、多くの門人がいる。『石井義郷歌集』はその集大成で、短歌、長歌、施頭歌、今様歌など九四〇首ほどを収めている。『石井家集』は約七三〇首、『萩の露』は四季・恋・雑に整理した五五〇首、『芳宜の屋集』は長歌三七首、施頭歌九首、『秋萩』は一三四首の短歌を含んだ歌文集で(以上相互に重複する歌がある)、相当の数の歌を詠み残している。歌風はその朴実温厚な人柄にふさわしく、端正な詠みぶりである。それだけに斬新さはみられないが、さまざまな題材を自在に詠みこなし、完成されたスタイルを持っている。来住千古の歌を「さまを旨として、ただごと歌多し」(秋萩・天保一三年)といっているが、みずからの歌も遊翁の教えの通り、「さま」の整った「ただごと」を用いた平易率直な詠が多い。長歌も四〇句に及ぶ長いものが多く、中には八〇句余の叙事的な長歌もあるが、ことばによく情感をのせえているものもある。安政六年(六八五九)没。四八歳。

   嘉永申はしめのとし霜月十日あまり一日に海野遊翁大人うせ給ひけるによめる
  青柳の したやの君は なき人に なられにけりと かしこより ここよりつぐる 玉づさを よみおどろきて そはいかに そはそはいかに 夢なれや こは夢なれや うつつとも 思ひわかねど 涙のみ 出でに出できて うちなげき なげきあるまに 貞敏が かはる玉章 東より またも来ぬれば とりあへず ひらきてみるに 青山の 下谷にゆきて なきからの 右に左に 泣き倒れ ふしまろびぬと くり返し 書きてはあれど ことかさね 言ひてはあれど かなしさに 読みこそかぬれ 涙こぼれて
    返し歌   青柳の下谷の道の遠ければからをも行きて見ぬがかなしさ
          聞くたびにおどろかるれど今日までにさめぬは夢のこころなりけり
    述懐    わが浦の尋ねやみまし昔より拾ひ残せる玉もこそあれ
   (讃岐への旅)いつまでも東と思ひし大嶽の西になるまでわれは来にけり

 義郷の歌友・門人

 義郷の歌友・門人の歌を集めたのが『名もしらぬ巻』である。序文は星野久樹で、義郷が心を尽して百余首を選み、「名を問へば、また名もなしとて」それをそのまま巻の名にしたとある。天保一三年、義郷三一歳の撰である。星野久樹、佃久徴、宮城正澄、吉田政安、谷田久照、十倫、守梁、惟貞など二二名、殆どが松山であるが、川之江、三島、今治の人もまじる。ただ現存は一二首の抜粋のみである。
 『類題現存歌選』は義郷の師遊翁の撰、遊翁の歿後門人が志を継いで増補、嘉永七年に出版した。これに義郷をはじめ二一名の伊予歌人の歌が入集している。石川正親、服部正名、西村清臣、徳本恒教、安東貞敏、浅井政達、河端氏瞳など松山が主で、梧菴一人が今治である。このうち『名もしらぬ巻』と重複しているのは七名、このほかの歌人も含めて義郷の歌友、門人と見てよいであろう。
 『ひなのてぶり』にも以上の歌人の歌が入集している。正名二七首、清臣二二首、久樹九首、政達七首、正親六首、政安五首、氏瞳五首、元総四首、恒教二首などである。義郷は三五首である。
 このうち西村清臣は通称弥四郎、雲岫と号した。義郷、遊翁に和歌を学んで、義郷とともに松山の双璧と言われた。明治一二年没。六八歳。歌集に『西村清臣家集』二冊がある。「枝ながら手折れる花を慕ひ来てそれにも蝶のとまりぬるかな」「山の端にうきたる今朝のむら雲や夜半の時雨の名残りなるらん」の詠がある。井手真棹は清臣男、井手正寛の養子となった。維新後は栄松社頭取として金融に携わるかたわら、歌道に通じ蓬園吟社を創設した。『与茂芸が園』『詠史百首』などがある。
 星野久樹は通称は次郎左衛門、翠斎、星の舎と号した。義郷門人。国学、絵画にも通じた。清臣とともにその才を謳われた。明治四年没。六〇歳。「山の端の花に暮らして山の端の花より出づる月を見るかな」

 堀内家の和歌

 松山港の沖に浮かぶ興居島庄屋堀内家には長郷、昌郷、匡平の三代に亘って歌人が出た。長郷は通称喜佐平、松蔭、三稜と号した。幼くより国学を学び、和歌をよくした。その歌は景浦直孝『堀内匡平伝』に三二八首収録されている。天保一四年(一八四三)没。七七歳。
 長郷男の昌郷は猶蔵、五兵衛と称し、父と同じく松陰、三稜と号した。国学では源氏物語の研究が有名で、『葵の二葉』(天保一一年)一八巻一九冊は、源氏物語中の人物・趣向の対立するものを取り上げ論究したもので、情趣の細かい点にまで及んでいるのが特色。『底の玉藻』 一〇巻一〇冊は典拠・準拠の考察。両書ともかなり精密に考証的に論じたものである。両書とも大部なものであるので、これを匡平が簡略にまとめて出版したのが『源氏物語比母鏡』である。歌集に『堀内三稜翁詠草』なる一冊があるが、符箋には「三稜の子昌郷の詠草なり」とある。『花のしがらみ』は内扉に「堀内匡平詠歌」とあるが、これも実は昌郷の歌集である。千百首余を収め、和文ものせる。匡平の序文によると、昌郷は特に歌集としてまとめなかったので、自分が残った歌を収集したとある。景浦前掲書には一二二首を抄出している。弘化三年(一八四六)没。四六歳。
 匡平は通称寛左衛門、伸八、号は桑涯、四十八崖、後の松蔭。祖父、父の影響をうけ、勤皇家として活躍し、一時幽閉されたが、松山藩に建白書を差し出して真情を吐露した。維新後は子弟の教育に当った。明治一六年没。六〇歳。『堀内凌』は堀内家の資料集で、匡平の「良夜不見月の文並其叙」「堀内家蔵書目録」などがある。
 長郷の歌には「大空の雲居にまじる声すなり心高くや春の雲雀は」「天地の勅をかしこみ大君に仕へまつらん道な忘れそ」など万葉調の大柄な歌が多く、昌郷の歌は「咲けばかつ散るものながらいかなれば花のわかれをわすれかぬらん」「かへりこぬ昔思へばうたた寝の夢よりもなほはかなかりけり」といった繊細で叙情的な歌が多い。匡平は「俤のきえぬ昔の古ことをふり出でて今日雪に語らん」などやや知的な詠みぶりである。

 三輪田家の和歌

 米山は書家として有名であるが、久米村日尾神社の神官の家に生まれた。名は常貞。各地を放浪しながら書に精励し、そのかたわら毎日のごとくに歌を詠んだ。その歌数は五万首にのぼるといわれるが、現在『日記』等にみられるのは二万首ほどである。歌集『菜の花』は八六歳春の二か月間ほどのもので、千百余首を収める。殆どが春の歌である。米山の歌は
奔放無技巧、心に浮かんだ情をそのまま平易なことばにうつしたものが多い。それだけに未熟なものも多いが、その書と同じく雄勁なリズムの万葉調のものもある。日常の思いを平明率直に表現した歌として注目してよいであろう。明治四一年没。八七歳。
    寒ければ人もとひ来ず我ひとり寒し寒しと言ひてくらしつ        米山
    酒飲めば筆は運べど執る筆も指より落つる心地こそすれ         米山
    身を捨つる藪はあれども心をば捨っる藪なきことの悲しさ        米山
 弟の元綱は、通称綱麿、綱一郎。勤皇の志篤く、江戸に出て文久三年足利三代の木像を梟首して尊皇の気を吐いたが、そのため但馬に幽閉された。維新後は朝廷に登用されたが、病を得て帰郷した。明治一二年没。五二歳。『葛農舎集』は綱麿と称していた時の歌集で、自序によれば田内董史に教えをうけ、点をもらったものとある。二七〇首を収め、うち三四首が長歌である。『蓬仙日記』は安政六年(一八五九)の日記と思われるが、この中にも長短歌、今様など六八首を含む。以上二書は『三輪田元綱要集』に収められているが、本集にはこのほか勤皇の真情を吐露した『獄中述懐』『元孝への遺言』などがある。また『三輪田資料』(松城要集一八所収)にも、米山・元綱の歌三二首が見える。なお元綱の妻真佐子は三輪田高等女学校を創立した人として知られる。
 元綱の歌は「なき人の面影ばかり身にしめてこの水無月もこの世にて見し」のような感概のこもった歌もあるが、「花くさの花のひもとく時をしもいかでかなしき秋というらん」など自然詠は平凡で、むしろ長歌にすぐれている。「伊予高根作歌一首井短歌」は五三句の雄篇で、万葉調の勁いリズムで歌われている。

 その他の歌人

 伊東祐根は大洲より松山藩士伊東祐之の養子となった人で、水練の達人であった。歌に長じ、義郷等に歌を教えたが、その歌は『松城要集』四に僅か二首を見るのみである。天保五年(一八三四)没。七三歳。その子裕明も和歌をよくしたという。
 木村信競は出淵町の町年寄を勤めた富豪。通称次五兵衛。信翁と号す。和歌、国学をよくしたようであるが、今は『松城要集』一三に一二首残るのみである。また尊皇の志厚く三輸田元綱や菅長好の活動を支援した。『藤古路最』『皇朝身滌矩則』には神への尊信と日常の道徳が説かれている。明治一六年没。四三歳。「惜しからで君に捧げし益良男の身は白玉の大和魂」「益良雄は打つも打たるも皇のへにこそ死なめたゆたひはなし」は尊皇歌。
 栗田白堂は千嶺、璞堂とも号し、「のどかにも霞める山の桜花月移ろひて面白きかな」など四首が残る。
 竹内信英は松山藩家老、無弦と号した。『孟浪蕪吟』の二七首抄本が残る。明治二三年没。七四歳。
 和歌を中心にした紀行文では、保見文陸(三津の人)の天保一五年江戸より帰省した時の『いよ日記』、松平定昭(一四代藩主)室雅子の同じく江戸からの紀行『雅子日記』(元治元年)があり、武知五友が慶応の頃和歌山へ使いした時の『如鏡稿』には漢詩と和歌がある。三上是庵の『あやにしき』も明治八年江戸から帰郷の旅である。是庵には『己巳短歌』(松城要集四)もある。(第六節随筆参照)
 久米淡斎、名は次平、旭川とも号す。明治三八年、七二歳で没す。子の嵓が編した『淡斎遺稿』には約二千首が納められている。久米嵓にも『時舎家集』(詠史之巻)があり、河野通有や足立重信も詠まれている。
 久松邦子は一二代藩主勝善の女、一四代藩定昭室となる。日尾直子の門に入って和歌を学んだ。明治三七年没。六二歳。その歌を井手直棹が編集したのが『花の雫』(明治四二年刊)で四六一首を収める。「初秋の風をいづこに折りこめてならす扇の涼しかるらむ」「おのが身の枯れゆくことは思ほえで若木の花の盛りをぞ待つ」など。