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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

三 談林

 江島山水と『山水十百韻』

 伊予の談林俳人としては、まず江島山水を挙げるべきであろう。前記の入集状況一覧で分かるように、撰集には殆ど顔を見せていないが、延宝七年(一六七九)に『山水十百韻』(横本二冊)を刊行している。「身に虱家には鼡花に鳥/筆に理究を三の春風」以下独吟の自作十百韻に、新風の総帥として当時世に鳴る梅翁こと西山宗因の批点を乞うたもので、延宝七年三月下旬聴雨軒の跋があるが、上巻末(第五巻)の奥に、延宝六年四月上旬の日付を記す七五歳の宗因の褒詞があるので、それ以前に作られたことが分かる。法橋兼豊(半井ト養門、江戸住)が序文を寄せているが、それによれば、出版は兼豊の勧めによるものという。
 山水の伝については、『江島氏系図』『江島家譜』などの資料があり、松田修『日本近世文学の成立』によれば、山水は当時今治藩の江戸留守居役であった江島長左衛門為信の俳号で、松風軒とも号した。寛永一二年(一六三五)、日向国飫肥藩士江島為頼の三男に生まれたが、明暦元年二一歳の時郷国を出奔して京・江戸など各地を漂泊する間に、教訓書『身の鏡』(万治二年刊)と『理非鑑』(寛文四年刊)および軍学書『闕疑兵庫記』(寛文七年刊)等を著述、出版した。浪々の身での仮名草子・軍学書の著作出版が機縁となって、寛文八年三四歳の七月、今治藩主松平定房に馬廻り役百石で召し抱えられた。仕官後は順調に昇進して、延宝三年四一歳で、前年襲封したばかりの定時公(延宝四年卒)によって江戸留守居役を命ぜられた。『山水十百韻』は江戸藩邸の新藩主定陳公のもとで重責を果たす余暇に制作したものである。宗因の判詞と共に、いかにも談林的な洒脱味の横溢したもので、毎句に軍戦および儒学上の話題や故事・用語を詠み連らねた「兵俳諧」(第四巻)「儒俳諧」(第八巻)など、軍学者・儒学者としての素養を発揮した興趣深い作も交じえる。延宝八年の四月には今治に帰任するが、五月には、西鶴の四千句『大矢数』の興行に、同じ梅翁門として、「飛や螢宇治瀬田ならず大矢数」の発句を贈っている。天和元年七月には、藩の御用達商人で惟中門の黒部加墨(元禄三年没)の案内で惟中の来訪を受け、三吟その他の交歓があった(白水郎子記行)。貞享二年九月には、三千風も行脚の途次挨拶の発句を送ってきている(日本行脚文集)。元禄四年五七歳で遂に家老となり、同七年には五百石に加増されるなど藩主の厚い信任を得たが、元禄八年(一六九五)一〇月八日、六一歳で没した。海禅寺に遺髪塚が遺っているが、墓は現在不明である。

 曙舟と詠句大概

 惟中系の松山の曙舟は、天和元年(一六八一)に俳論書『詠句大概』(半紙本一冊)を著している。曙舟は、延宝八年の西鶴『大矢数』(第百五巻)に一座しているほかは、当時の撰集や惟中の『白水郎子記行』にも名が見えず、その伝は明らかでない。定家の『詠歌大概』をもじった書名や、「歌の言葉の事」「古事をとる事」について説く点など、体裁・内容とも惟中の俳論書の影響が濃いが、春澄・如泉らを称揚し、『七百五十韻』(信徳撰、延宝九年刊)などから例句を挙げている点には蕉風への過渡的動きをうかがわせ、「ぬけ」などの談林の手法を説いていることとあわせて有益である(尾形仂「未刊連歌俳諧資料 第一輯6『詠句大概』解説)。

 石田画水

 八日市(宇摩郡土居町)の石田画水は、前期の寛文六年『俳諧洗濯物』(一雪撰)に初出し、寛文七年の『続山井』(季吟撰)・『伊勢踊』(加友撰)に入集するほか、豊前中津の胡今撰『到来集』(延宝四年)には発句二八・付句一四と大量入集する。画水の素性は詳らかでないが、同書には「住所八日市にて」として「八日市をなす人立や初薬師」という句のほか、「厳島にて」「山伏廻門にて」「旅宿にて」といった前書のある旅行吟や、「石田画水、中津より難波へ舟出のとき」と前書のある潮竿の句も見え、中津を訪ね俳交のあったことがうかがえる。また「勢州山田十万句に」と前書のある句も見えるなど、広い交遊を持っていたことが分かる。談林の惟中とも交渉があり、『俳諧三部抄』(延宝五年)には、発句八句が入集するほか、「聖廟を造営せらるゝは、石田氏画水軒のすき人也けらし。余と俳諧したしみありて、常にうなづくのみ。されば千里を遠しとせずして、菅家奔走の奉納の俳諧の発句を集められ、余にもして見よとすゝめられ玉ふに」云々とある、五月日付の「□(東力)嶋天神堂奉納」と題する惟中の俳文が見える。天和二年に来遊した惟中は、讃岐に向かう途次「年ごろしたしき石田氏画水丈人」を訪ねたが、折ふし江戸に下っていて会えなかったことを『白水郎子記行』(八月三日の条)に記している。

 惟中の来遊

 一時軒惟中は、画水に限らず、多くの伊予俳人と交渉のあったことが『俳諧三部抄』(11名入集)『近来俳諧風体抄』(34名入集)によってうかがえるが、すでに度々言及した通り天和二年(一六八二)四月松山に来杖して三か月滞在している。その『白水郎子記行』によれば、藩の老臣久松一知軒(粛山と推定される)を初め、寒川朝利・長沼扁舟・野田一牛・烏谷唱見・同唱夕らの藩士や、酒造業後藤故心や明星探月らの富商、その他多くの知友・門人の歓迎を受けて俳交を重ね、また求められるまま詠歌大概・伊勢物語・徒然草・源氏物語などの古典を俳士らに講ずるなどした。
 七月一日松山を辞し、今治の黒部加墨のほか、壬生川・船原・小松・氷見・西条・永安・朔・三島など東予各地の俳人を歴訪して交歓を遂げ、讃岐に去っている。

 三千風の来杖

 貞享二年(一六八五)八月には、四国遍路を志した大淀三千風が、讃岐・土佐を経て阿波に向かう途次、予州では内子の曽根高久、松山の秦一景、今治の江島山水らに挨拶の句を届けている(『日本行脚文集』巻五)。

 坂上羨鳥とその撰集

 坂上羨鳥は、承応二年(一六五三)宇摩郡中之庄村(伊予三島市)に生まれ、通称半兵衛、名を正閑と言い、仙翁亭と号した。松山・今治・丸亀・高松など、諸藩の御用金調達方をつとめた豪農商で、享保一五年(一七三〇)七月、七八歳で没し、菩提寺である持福寺に葬られた(近藤佶「坂上羨鳥伝」愛媛国文研究七号)。羨鳥は、商用で上方に往反するかたわら京坂の俳人との風交を求め、その句は二五歳の延宝五年、惟中撰の『俳諧三部抄』に初出する。元禄期以降は北条団水・池西言水・椎本才麿らに従い、元禄九年に『簾』(一冊)、同一四年に『たかね』(三冊)、正徳三年に『花橘』(二冊)を刊行した。『簾』は団水・言水・才麿・園女・我黒・雲鼓らと巻いた連句四巻、付合四および自他の発句一三句を収める僅か一二丁の小冊子にすぎないが、五年後の『高根』は、連句二一巻、諸家の四季発句六百余のほか、前句付(四七句)を収める、さらに還暦の年に出版した『花橘』には連句二〇巻、諸家の四季発句七百三十句を収め、作者は二四箇国二百七十余名に及ぶ。