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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

四 伊予の蕉風俳諧

 蕉風の伝播経過

 伊予の蕉風俳諧は、大きく三つのグループに分けて考えることができる。一つは、松山藩士の中に優秀な俳人を生みだした江戸其角門のグループ、二つ目は、淡斎を中心とした大阪惟然系のグループ、そして三つ目は、東予を中心に広まった支考系のグループである。このうち、元禄・宝永期の伊予俳壇を代表するのは、何といっても第一のグループであろう。そして、このグループは、蕉風俳諧の全国伝播の特色を示してもいる。
 そもそも蕉風俳諧は、江戸深川の芭蕉庵を起点として、全国各地へ広まっていく。その一つのルートは、芭蕉自身の行脚によって形成されたものであるが、もう一つ、江戸が起点であったことが、蕉風俳諧の全国伝播を助けている。江戸には、参勤交代制によって全国から藩士たちが集まって来るし、また各藩の江戸在勤の藩士も多く、江戸での生活をきっかけにして蕉風の俳諧を学ぶ者が多かった。そして、彼らが地方へ蕉風俳諧を広めていく役割を果たしていくのである。前者の例としては、貞享元年(一六八四)の『野ざらし紀行』の旅で形成された尾張蕉門や、元禄二年(一六八九)の『おくのほそ道』の際の加賀蕉門などがあげられよう。そして、後者の顕著な例として、大垣藩、出羽秋田藩などと並んで、伊予松山藩があげられる。

 其角と彫棠

 伊予の蕉風俳人としては、粛山・彫棠・三嘯らの名があげられる。彼らは皆、其角の門に入り、江戸を中心に活躍した。其角は、膳所藩常府の侍医東順の子で、医名を順哲と称し、芭蕉が江戸に下って間もなくその門に入り、蕉門随一の高弟として尊重された人物である。其角と松山藩士とのつながりは、伊予松山藩常府の侍医彫棠を介してのものと考えられる。
 彫棠は、貞享四年(一六八七)其角編の『続虚栗』に登場してからずっと、其角門の重鎮として活躍している。彼は、江戸を活躍の場としていたために、直接伊予俳壇に及ぼした影響はほとんどなかったが、何といっても粛山・三嘯らを其角に引き合わせた功は大きい。また、元禄五年(一六九二)一二月二〇日自邸に芭蕉・其角らを招いて巻いた歌仙は、永く伊予の地に伝えられ、後に花入塚として記念の芭蕉句碑が建立され、松山俳壇のシンボルとして尊重されるようになる。この時、芭蕉が主賓として「打よりて花入れ探れ梅椿」の発句をよみ、亭主の彫棠が「降り込むまゝの初雪の宿」と脇をつけている。連衆は、他に其角・桃隣・黄山・銀杏がいた。彫棠は、正徳三年(一七一三)没する。

 松山藩主松平定直と俳諧

 松山に蕉風俳諧の流行をもたらした最大の功労者は、藩主松平定直であろう。彼は、万治三年(一六六〇)一月、今治藩主松平定時の子として生まれ、後松山藩主松平定長の養子となり、延宝二年(一六七四)家督を相続してから、享保五年(一七二〇)定英公に譲るまで、四七年間松山藩を治めている。享保五年一〇月二五日六一歳で逝去する。
 彼は、儒学をはじめとして、学問を愛好し、文武両道にたけた名君であったために、松山藩全体に文運興隆のムードがみなぎった。また、彼は俳諧も嗜み、三嘯・橘山・日新堂という俳号を持っていた。『松山叢談』第五下には、「公俳諧を好せられ其角へ入門被遊。其節芭蕉は専ら諸国行脚にて江戸には長く住居無き故とぞ。其餘嵐雪等も毎々御呼被遊候由。」とある。彼の句は、元禄一三年(一七〇〇)の『焦尾琴』、宝永四年(一七〇七)の『類柑子』、延享四年(一七四七)の『五元集』などにみられ、元禄初年頃其角門に入ったと考えられる。しかし、それ以前から俳諧を嗜んでいたらしく、『御船屏風』には、上方の貞門・談林俳人の短冊が集められている。
 『御船屏風』については、和田茂樹が「久松家旧蔵『御船屏風』」(愛媛国文研究一四・昭39)で詳説され、その成立を元禄三年冬以降五年五月以前としておられる。さらに、「岡西惟中の天和二年四月に来松、貞享二年には四国遍路を志した大淀三千風の来遊によって、松山藩の風雅精神は深められ、これが縁となり、藩の委嘱によって、京阪在住の二人が当時名声高い俳友に執筆を求めたと臆測される。」と述べておられる。そうしたことを考え合わせると、定直は、其角門に入る以前から俳諧を嗜み、惟中や三千風の来遊に刺激され、上方の俳人の自筆短冊を収集、自らは、江戸在住の彫棠・粛山らの導きによって其角門に入り、俳諧愛好の精神をさらに高めていったとみられる。
 其角の撰集をみてみると、定直との親しい関係がよくあらわれている。『焦尾琴』には、定直の四〇の賀を祝った内輪の会で、其角が「御秘蔵の墨を摺せて梅見哉」という即興の句をよんだことが書かれており、リラックスした様子が読みとれる。また、『五元集』では、侍従の役を受けて朝廷へ参内する定直を祝した句の前書に「わが三嘯公」と記して、我々の俳友と呼んでいるなど、二人の身分の差を越えた風雅の友としての付き合いがうかがえる。ともかく、このように藩主自らが俳諧を嗜んでいたことは、伊予に俳諧が広まる上で、ひじょうに大きな意味をもっていたと考えられる。

 久松粛山の活動

 さて、松山藩士の中でも最も俳人としての才能を発揮したのは、久松粛山であろう。粛山は、承応元年(一六五二)松山に生まれ、元禄元年(一六八八)から江戸詰となり、五年帰藩し、宝永三年(一七〇六)五五歳で病没した。その間、藩の重責を果たし、定直の信任も厚かった。
 彼は、三一歳の時、折から松山に来ていた岡西惟中の門に入り、一知軒の号を受けたとみられる。その後、江戸勤番となってからは、彫棠と同じように其角門に入り、元禄三年其角編の『いつを昔』に「伊与粛山」として登場、以後其角関係の俳書に度々顔をみせるようになる。元禄四年成立其角編の『雑談集』に跋文を寄せたり、其角・彫棠らとの歌仙がいくつも作られるなど、其角門の中でも特別に親しい関係にあったと思われる。
 また彼は、芭蕉に烏頭巾を贈り、その時直接芭蕉と唱和する機会も得ており、文化七年(一八一〇)刊の『今はむかし』に収録され、永く伊予連衆の語り草となっている。
 粛山の場合も、その主たる活躍の場は彫棠同様江戸であり、「江戸粛山」として認められていたが、松山俳壇に及ぼした影響はかなり大きかったと思われる。特に、松山帰藩後は、松山俳壇に蕉風俳諧の新鮮な風を送り続けていった。

 蕉風と松山藩士

 これらの人々のほか、伊予俳人の中に蕉門俳人の名が何人か見いだせる。奥平一泉・随友・千閣といった人々の句は、元禄二年の芭蕉七部集の一つ『阿羅野』に入集しており、早くから蕉風俳諧を学んでいたことがわかる。このうち一泉は、奥平次郎太夫といい、松山藩士であった。また、黄山という人も、其角関係の俳書によく名がみえ、明和七年(一七七〇)の蝶夢編『類題発句集』では「江戸黄山」として句がとられている。黄山は、江戸在勤の藩士ではないかとも思われる。
 こうして、元禄・宝永期には身分の上下を問わず、松山藩士の間に蕉風俳諧が広まり、松山に蕉風俳諧の伝統がしっかりと形成されていくのである。

 惟然系の俳人たち

 第二の淡斎を中心としたグループには、応三・更互・鈍子・昔桑・及風・潜志・朝省・也水・春志・素嵐・伯然・和絃らの名をあげることができる。彼らの句は、淡斎の編集した俳書はもちろん、惟然系俳人の俳書や、大阪を基盤とした俳人の撰集に収められている。つまり、彼らは、大阪蕉門の流れ、特に惟然の影響を受けたグループなのである。
 このうち、更互は、『其木からし』に、「互子東武へおもむかれ侍る舟よりの便り」云々とあり、また、元禄一四年(一七〇一)刊其角編の『焦尾琴』に二句収められていることから、松山藩士かとも思われ、第一のグループとの交流が認められる。この『其木からし』の記事は、元禄一三年夏のことであるから、参勤交代で江戸へ向かう藩主定直に随従した時のこととも考えられる。ちなみに、『松山叢談』第五上には「元禄一三年五月一〇日松山御発駕、六月朔日御着府」とある。そして、江戸在勤中に、第一のグループとの交流を得たものであろう。

 伊予の俳人 淡斎

 さて、グループのリーダー格淡斎とは、どのような人物であろうか。享保七年(一七二二)刊『鹿子の渡』の鬼貫序に「一如軒旦海はじめ伊予国松山の産、淡斎という習字の先生、今は姫路に仕う。」とあり、晩年は姫路に住みついている。淡斎の編著には、元禄一四年刊『其木からし』、前述の『鹿子の渡』、享保一五年(一七三〇)刊『桜雲集』があり、『其木からし』では淡斎を名のり、『鹿子の渡』で一如軒且海、『桜雲集』で一如軒遊機を名のっている。この三つの編著のうち享保の二冊の俳書は、淡斎が姫路に移って後の作で、伊予との関係はさほど濃くない。『鹿子の渡』は、播州の惟然系俳人との唱和・諸家の四季の吟・「増位山紀行」などを収めたもので、伊予の俳人の句は、更互・昔桑らのものが収められている。また、『桜雲集』は、人麿一千年忌に、広く蕉門以外の人々の句文をも集めて編したものである。
 これら二冊に対して、『其木からし』は、伊予の蕉門俳人の活動を知る上で貴重である。本書は、淡斎が元禄一二年(一六九九)京都の惟然の居を訪ね、以後元禄一四年三月初めまでの間、惟然をはじめ、一派の句文や松山における風交などを書き留めたものである。

 『其木からし』

 自序は「元禄己卯初冬中二日」に書かれたもので、これは、元禄一二年の時雨忌(芭蕉の命日一〇月一二日)にあたる。「一もとの芭蕉は甲戊の凩に破れたり」と序文に書いているように、この題名には芭蕉の死を悼み、芭蕉を追慕する意がこめられている。そして、惟然が毎年時雨忌に、誓願寺の見松院で芭蕉追悼の句会を催しては、その徳をしのぶ由を記して、芭蕉の真の後継者として惟然をたたえて序文がしめくくられている。その序に応じて、巻頭に元禄一二年時雨忌の追悼歌仙がおかれている。あるいは、この歌仙を含めたものを序とよんだ方がよいかもしれない。
 ともかく、本書は、芭蕉を追慕した上で惟然一派の宣伝をするという意味をもっている。特に惟然の俳論を知ることのできる貴重な資料でもある。「発句付句ともにするくといひて」や「句はたゞ自然になす物あり。打まかせてよし」など、自然のまま軽妙洒脱な惟然の句風についてふれている。このような惟然の俳風は、淡斎にも忠実に受け継がれており、元禄一一年ころから顕著となった惟然の口語調は、淡斎の句にもよく表われている。

 「歌仙の讃」のいきさつ

 『其木からし』には、芭蕉の「歌仙の讃」をめぐるいきさつについても記されている。「歌仙の讃」は、淡斎の父井海が芭蕉におくった歌仙にこたえて芭蕉が書いたものであるが、「歌仙の讃」とともに井海のおくった歌仙の第三までと、その間のいきさつを知らせた更互の句文、さらに亡父井海をなつかしみ、芭蕉追慕の情をしたためた淡斎の句文が、「懐旧」と題してここに収められている。
 これによると、井海は、芭蕉が江戸で新風を起こしつつあった天和年間に、いち早くその俳風に共鳴し歌仙を送り、それを縁に芭蕉との交流をもったことがわかる。その歌仙の第三までは次の通りである。
    雪しやれて翁閑けん芭蕉洞
     こゝに水仙の薫りさら也
    ほのほのと掃除司のおとつれて
 「さび」の世界を求める芭蕉の俳風への共感・賞讃の気持ちが表わされている。これは、当時江戸の情報が間をおかず松山に入っていたことを示すものであり、江戸と松山とは藩士たちを介して想像以上に緊密につながっていたようである。それはともかく、井海は芭蕉との面会がかなわないまま没し、芭蕉もなくなってしまう。
 一方、淡斎は、芭蕉の没した元禄七年からは京都におり、粟津の草庵にも出入りして父井海のゆかりで芭蕉直門の人々とも風交をもったことが記されている。こうしたいきさつを元禄一〇年冬稿し、本書編集の機会に惟然の勧めで収録したことがかかれている。

 京都滞在中の淡斎

 淡斎は、元禄七年(一六九四)ごろ京都に出たものと思われ、元禄六年(一説には五年)購入された松山藩京都屋敷詰になったと推測される。元禄一三年二月上旬には、四二の厄年を迎える藩主定直の厄払のために、奈良岡寺の初午に代参し、二月九日京都に戻っている。その時の紀行も『其木からし』に収められている。京都に戻った淡斎は、二月中旬故郷松山への帰参を命じられ、初夏松山着、以後当分の間松山に居たようである。しかし、松山帰参後も惟然との交流は密で、『其木からし』下巻の松山帰参後の部分にも、惟然の「伊勢記行」という文稿が収められていたり、また、元禄一六年惟然編の『二葉集』に序をよせ、伊予の俳人が皆国名を付記されているにもかかわらず、淡斎だけは著名な俳人と同じように国名を付記されていないところから、二人の関係の密なことが推測される。

 淡斎の松山帰参

 このように、直接芭蕉に師事した惟然らの影響は、淡斎を通じて伊予にもたらされる。松山に戻った淡斎は、鈍子・応三・及風・昔桑らとの俳席に度々参加し、ある時には亭主として、ある時には主客として句をよんでいる。これまで書面でしか京の俳風に接することのなかった伊予の俳人にとって、京・大阪の俳風を身につけた淡斎と直接接することは、大きな喜びだっただろう。そして、淡斎を介して惟然に傾倒していく者がふえていったと思われる。たとえば、『其木からし』に収められた昔桑の文稿に、「その秋のころほひよりひたすら和キの誹情にうちかたぶき、明暮其すがたの高遠ならん事に心付て」とあるように、淡斎の松山帰参によって、その俳風に従うようになった者も出てくる。さらに、昔桑が「また鳥落人はものゝおのづからなるをよろこほひ、その情の和げる事たれか是をこれとせざらん。予も其流の清きにうきたゝん事を思へども」と記しているように、惟然に傾倒する俳人が多くいただろう。
 以上のように、淡斎を中心にした惟然グループが形成され、俳人の数はかなりの数にのぼると思われる。その中でも、鈍子は特にすぐれた俳人と評されており、元禄一三年に『月のあと』という俳書を編集したことが、『俳諧書籍目録』にみえる。

 支考系の伊予俳人

 第三のグループは、東予を中心とした支考系の俳人たちである。このグループには、特別に活躍した俳人はみられず、むしろ、たしなみとして俳諧を楽しんでいた傾向が強いように思われる。また、東予には、談林の坂上羨鳥がおり、蕉風よりも羨鳥の影響の方が大きく、蕉風俳諧が東予俳壇を席捲するようなことはなかった。
 東予に蕉風俳諧をもたらしたのは、除風・支考・廬元坊ら、来遊の俳人であった。支考は、宝永二年(一七〇五)除風とともに讃岐から伊予路に入り、今治から船で竹原に渡っている。この間の紀行は『乙酉紀行』として盤古編『六華集』の上巻に収められている。支考は、川之江閑鴎亭、豊田伽席亭、天満岱雅亭、同無心亭、同李青亭、同不朴亭などに立寄っている。ただ、これらの伊予俳人の句は一句も記されていない。これら東予の俳人はいずれも、先に除風が伊予路を訪れた際風交をもった人物であり、地方の有産階級の趣味人としてかなり知られていた。このうち、閑鴎・若朴・無心は、羨鳥が元禄一四年(一七〇一)刊行した『高根』にも出てくるし、元禄一三年寸木編の『金毘羅会』にも、若朴・閑鴎らの句が三千風・轍士・羨鳥ら談林俳人の句とともに収められている。ということは、彼らは蕉門俳人というよりも、蕉風の影響をうけた俳人と言った方が適当かもしれない。趣味として幅広く新風を受け入れたであろうが、反面、深く蕉風を学び活躍するようなことはなかった。廬元坊が後に伊予路に来遊したのは、支考の勧めによるもので、支考のおしすすめた美濃派拡張の命をおびていたものと考えられるが、その後も、美濃派の勢力は伊予にはさほど浸透しなかったようである。

 除風と伊予

 さて、支考の先導役を果たした除風について考えてみることにする。除風は、備中に生まれ、真言宗の僧侶で、倉敷の南瓜庵に住んでいたこともある。諸国を行脚して回ったが、宝永三年(一七○六)山崎宗鑑の遺跡である讃岐観音寺の一夜庵に移り、延享三年(一七四六)八〇歳で没している。除風の編著のうち、元禄一三年(一七〇〇)刊『青莚』に淡斎の句一句、宝永元年刊『番橙集』、翌二年刊『冬の花』に前述の伊予俳人らとの風交が記され、三年刊『芭蕉翁追善一巡百韻』には閑鴎・江楓・若朴らとの歌仙、李青・岱雅・露浸・艸也の発句、享保三年(一七一八)の『雪の光』には川之江の閑斎・南州・豁軒・河岸の句が収められており、除風と東予俳壇との関係の深かったことが知られる。
 除風は、元禄一六年、川之江中之庄に吟遊した『番橙集』の旅のほか、宝永二年支考と共に再び来遊、さらに、『俳諧雪之光』に「豫州中曽根とかやいへる里に忠栄子あり。(略)一日庭上にあそふ事四五吟、誹諧ありて誹諧なし。唯景をあらして去のみ。」と前書して「石の名に雨こほれてや菊の花」という百花(除風)の句が収められていることから、この時にも川之江にやって来ていることがわかる。このように、何度か川之江を訪れては、俳人たちと交流し、東予の俳人たちに影響を与えていった。和田茂樹は、「除風・支考の東豫紀行ー蕉門俳諧と伊豫ー」(愛媛国文研究八・昭三四)で、『番橙集』と他の俳書に収められた伊予俳人の句を比較され、写生的態度の深まりのみとめられることを指摘されている。さらに、そうした傾向は、「除風の自然観照の態度にもとづくものであろうか。」としておられる。このように、この時期の東予俳人たちは、蕉門俳人として雄飛することはなかったが、地方の趣味人として除風の新鮮な俳風を受け入れ、写実的創作態度をもつに至ったと考えられる。

 『藤の首途』と東予俳壇

 こうして新風を受け入れた東予俳壇は、享保期になるとやや様子がかわってくる。先述の除風の『雪の光』では、宝永期の編著に登場した閑鴎・江楓・若朴らは姿を表わさず、かわって豁軒・河岸という俳人が登場してくる。また、享保一六年(一七三一)刊廬元坊の『藤の首途』でも、除風の編著に登場した東予俳人のうち、岱雅を除いた他の俳人は顔を見せていない。
 『藤の首途』は、享保一五年廬元坊が師支考の命をうけて、一派の地盤拡張のために中国・四国を経て筑紫へ行脚した際の紀行である。伊予では、川之江の敬尓、豊田の風鴒、天満の岱雅、飯竹の以弁、豊岡の素来らを訪ねている。中でも風鴒は、終始廬元坊の世話を焼いている。これらの俳人のうち、岱雅は支考来遊の際からの因みで、この時には廬元坊に閑静な草庵を提供している。しかし、廬元坊が師の縁ということで特別な気持ちで訪問したわりには、あっさりと岱雅亭をあとにしている。また、川之江の敬尓亭では「松讃」と題する句文をつくっている。その中で廬元坊は、「だとへ風雅は日夜にたのしむとも一句に奇怪を求ず、仮にも言語を彩色事なかれと松の讃になぞらへて爰に其人を諷諫する物ならし」と、技巧をこらさず平明な句作をするよう、敬尓を諫めている。それに対し、敬尓は、蕉門は俗談平話を用いるということを廬元坊に教えられ、これまでの自分の俳諧を恥かしく感じたとし、「芭蕉葉の日脚追へん影法師」と、自分も蕉風俳諧に傾倒したことを表明している。敬尓は、これまで蕉風の影響を受けずにいたのであろう。ただ、このあたりの記述には、美濃派宣伝の嫌味が感じられる。
 廬元坊を親身に世話した風鴒は、豊田の素封家で趣味として俳諧を嗜んだ。その妻の葭女も俳諧の嗜みがあり、廬元坊・吏碩・風鴒・葭女の短歌行も『藤の首途』に収められている。
 支考や除風の場合がそうだったように、廬元坊の来遊によって東予俳壇が蕉風に一新されるような大きな影響はみられないが、地方俳人たちが新風に積極的に触れようとしている様が、『藤の首途』にもよくあらわれている。