データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

六 蕉風復帰と松山俳壇

 松山俳壇の様相

 伊予全体が淡々流に染まった享保・宝暦の頃、松山だけは、元禄期から引き続いて蕉風俳諧の伝統を堅持していた。ただ、淡々流の俳人との交流は少なからずあり、志山は来遊した富天を招いているし、更互や五雲らも淡々系の俳書にも句を寄せている。しかし、基本的には彼らは蕉風の流れを汲む者で、松山俳壇で蕉風復帰の運動を展開していった。

 志山の活動

 小倉志山は、元禄一四年(一七〇一)松山に生まれ、俗称は茶屋長次郎と言い、宝暦一二年(一七六二)六二歳で没している。紅魚園・兎角坊などの俳号も使っている。彼は、寛保三年(一七四三)一〇月一二日芭蕉五〇年忌に、久万の菅生山大宝寺境内に芭蕉の句碑をたてる。これが、霜夜塚と呼ばれる県下最古の芭蕉塚である。塚建立と共に、久万の俳人だちと追善歌仙を興行、翌延享元年一一月に、追善俳諧集『俳諧霜夜塚』を刊行する。
 このように、志山は芭蕉の世界を追い求めていったが、積極的に新しい境地を切り開くまでにはいたっていない。それよりも先述の通り、富天をもてなしたり、延享四年一志編の『素羅宴』に、更互・幾山・呉風とまいた三つ物が収められるなど、むしろ淡々系ともみられる面がある。また、寛保三年廬元坊編の『花供養』にも献句しており、美濃派との関係ももっていたようである。志山は、あくまで自由な立場から、幅広く俳諧を学んだと考えるべきであろう。しかし、彼自身は蕉風俳人として芭蕉を追慕するという意識を常にもっていたようである。

 霜夜塚

 芭蕉追慕の情を示した霜夜塚についてみてみよう。寛保三年建立されたこの碑の表面には「芭蕉翁」と刻まれ、右側面に「松山城下紅魚園志山造立焉」、裏面に芭蕉の「薬のむさらでも霜の枕かな」の句が、ほられている。芭蕉句碑が建てられることの意味はひじょうに大きい。碑建立と共に、人々は蕉風の継承と発展を願う心を新たにするわけで、しかもその碑の造立を記念した句集が作られるとなると、まさに蕉風継承を実行することになるからである。この霜夜塚も、伊予の地で、蕉風の亜流が次第に平俗に堕していく中にあって、蕉風復興の気運をいち早く示したという意味で、大きな文学的意義をもっものである。

 句集『俳諧霜夜塚』

 霜夜塚建立を記念した句集『俳諧霜夜塚』は、翌延享元年一一月刊行される。その序の中で志山は、芭蕉塚を久万に建てた理由を次のように述べている。「ことし寛保癸亥の冬神無月十二日は、芭蕉翁五十遠回にあたらせ給へば、遠津島根はさらなれや、深き山家の奥までも追福の沙汰、華をあやどり月を磨むにはいとありがたふこそ。」とあり、蕉風俳諧が、深い山里まで及んでいることを示そうという意図のあったことを表明している。また、「爾迚冥加を思ふの時節なれば、妻子の恨を忘れて此日もとゞりをはなし、頭陀に居士衣を入れ、二日たらでも道法なれば行脚の杖と定め菅のみやまに分入ぬ」として、芭蕉五〇回忌を機に志山は剃髪し、芭蕉の行脚をまねて、久万まで旅したとも記している。このように、蕉風の広がりを示し、また芭蕉の行脚の境地を求めて、霊場として由緒深い久万の大宝寺が、碑建立の地として選ばれたのである。志山は、序の最後に『もとゞりにかへて霜夜の塚供養』の句をしたためて、芭蕉追善の意を表わしている。
 この時志山は四三歳で、自序に「予蕉俳に遊ぶ事三十年におよびぬれど」とあるので、早くから俳諧を学び、俳歴をつんでいたことがわかるが、まさに充実した時期に霜夜塚が建てられたのである。『俳諧霜夜塚』には、自序に続いて寛保三年時雨忌に巻かれた追善歌仙があげられている。その歌仙の連衆には、非石・得真・互中・寿風ら久万の俳人一三人が、名を連ねている。このように、蕉風俳諧は山間の地久万にも深く浸透しており、その後も久万俳壇は、すぐれた俳人を輩出する。
 さて、「茶のはなに五十年弔ふ山路哉」という志山の発句にはじまるこの歌仙の脇をよんだ非石は、菅生山大宝寺院主斉秀和尚で、この興行の亭主をつとめた人である。また、連衆のひとり寿風は、没後追悼集『俳諧十夜の霜』が刊行されるなど、久万俳壇の中心として活躍したと思われる。
 本書には、続いて諸国から寄せられた追善の句が集められており、近江の角上、姫路の寒瓜、京の風之らの句もみえる。また、松山の五雲・更互、三津の乃翁・含芽や、志山の娘才女の名もみられる。本書は、当時の久万、松山俳壇の隆盛を広く全国に向けて示すと共に、伊予の名を高める役を果たしたものである。

 志山と久万俳壇

 霜夜塚建立は、久万俳壇を活気づけるのに大きな役割を果たした。また、志山は、霜夜塚建立以前から久万俳壇と交流をもっていたが、これによってその存在を久万俳壇の指導者として俳壇史に刻みこむことにもなったであろう。そして、安永四年(一七七五)蒼々林青玉ら編『俳諧ふたつ笠』には、久万の女流俳人として、志山の娘路紅の句が収められている。
 こうして、志山によってリードされた久万俳壇の活動をもう一つ見ておこう。それは、宝暦元年(一七五一)の寿風追悼集『俳諧十夜の霜』である。寿風は、寛延四年(一七五一)六七歳で没したが、久万俳人の中でも中心的存在で、霜夜塚建立にも力をつくしている。俗称を満口市良兵衛昭恒という。
 『十夜の霜』には、寿風の辞世「慾垢をそゝぎ捨てたるしぐれ哉」を立句とした久万連衆の連句が収められている。また、半笠庵五雲の序、江月軒更互の跋、そして、「名とげては子供に天の棹をささせ風雅に遊ぶ寿風子の身まかりを一七日にとむらいて」という前書のある志山発句の歌仙が収められるというように、松山俳壇の中心人物五雲・志山・更互各々からの追悼のことばを集めている。その他、各地の俳人から追悼句を集め、京都井筒屋から出版している。これは、久万俳壇の隆盛を如実に示すものにほかならない。

 松山藩士中山更互

 更互は、志山や後述の五雲に比べると、俳諧活動はさほどめざましくなく、前述の『十夜の霜』の跋を書いているほか、『素羅宴』『俳諧霜夜塚』などに句が収められている程度である。彼は、松山藩士で俗称は中山文右衛門、宝暦九年(一七五九)七二歳で没しており、比明堂、江月軒とも号し、享保から宝暦の頃活躍している。更互という号をもつ俳人は、元禄期蕉風俳人のうち、淡斎グループの中に一人いるが、この更互と同一人物とすると、『其木からし』に登場する頃、更互は一三、四歳となり、淡斎に「歌仙の讃」のいきさつを知らせるには、あまりに若すぎると思われる。別人と考えざるをえまい。しかし、淡斎グループの更互が松山藩士と考えられ、この中山更互も同じ松山藩士となると、全く無関係とも考えにくい。
 ともあれ、元禄期に松山藩士に浸透していった蕉風は、点取俳諧に堕しきれなかった松山藩士の中で生き続けていったと考えられる。ただ、更互は、淡々流の影響もうけており、甥の五嶺が、「伯父比明堂更互より一巻の秘伝書を次て是を以て年来予は乙字をなす。其角淡々の伝流の深意なり。」と書いているように、淡々流の書を伝えたりしている。

 松山藩士河端五雲

 松山に蕉風復興の気運をもたらした人として、五雲をあげておかなければならない。五雲は、元禄一二年(一六九九)に生まれ、安永元年(一七七二)七四歳で没している。彼は、河端藤太夫という松山藩士で、正徳三年(一七一三)藩主定英の小姓となり、享保八年(一七二三)江戸常府を命ぜられ、要職を歴任、将軍家にも出入し、明和五年(一七六八)七〇歳で隠退、松山に帰郷する。彼は、江戸在府中、蕉風復興を唱えた佐久間長水らの五色墨の運動にふれ、長水の指導をうけたのではないかとされている。
 彼は、江戸でもかなり注目された俳人であったらしく、松山帰郷の時には、多くの人が名残を惜しんで、送別の句会を催してくれたことが、明和六年(一七六九)五石編『矢立の露』に記されている。また、松山藩の記録である『松山叢談』の中にもくわしく記されている。「河端藤太夫俳名五雲とて名高き俳人なり。五雲などの時代の句と今の句を考るに玉と瓦のごとく後世に至りて益々光輝を生じ芭蕉門の俳意を得たるといふべし」として、句もいくつかあげられている。また、将軍家から達磨の月見という題をいただき「九年めは家根もやぶれて月見かな」の句をよみ、賞讃されて朱達磨の紋をいただいた逸話や、旅行中安芸国御手洗の港で、遊女にかわって湊明神奉納の句を吟じてやり、後に撰者が、この句は五雲以外のだれも作りえないと感心した逸話もあわせて収載されている。これらの記述は、五雲の名声が高かったこと、そして伊予の人々が、五雲を誇りとしていたことを示すものであろう。
 五雲が俳人として活躍したのは、江戸であり、元禄期の粛山・彫棠らと同じであったが、彼らと比べると、五雲の場合、松山俳人との交流もあり、先の『十夜の霜』に序を寄せるなど、松山俳壇に対して大きな影響力をもっていた。五雲の弟子には、松山藩士の中山五嶺、高木五橋ら多数おり、それらの人々を通じて松山藩内に蕉風復帰の気運が高まっていく。また、五雲の子五石も東交斎・文貫堂とも号する俳人で、江戸の蕉風俳人と交流をもっていた。
 こうして、享保・宝暦期の俳壇全体が洒落風や花鳥風等に堕した中にあって、かろうじて松山だけは、詩としての俳諧を堅持し、蕉風を継承していった。これは、先の更互も含めて、松平定直以来の藩士たちの伝統が保持されたことにほかならない。五雲の句は『矢立の露』『大名竹』という句集にもまとめられている。

 五雲の弟子五嶺

 五雲の弟子の内、中山五嶺は、松山藩士で千八百庵・井蛙亭と号し、寛政三年(一七九一)七〇歳で没している。先の更互の甥で、更互からいろいろな伝書を受けている。五嶺の句は、『俳諧霜夜塚』にあり、二〇代で既に五雲の弟子として俳諧を学んでいたようである。安永期には、神社奉納額の選者として活躍しており、更互・志山・五雲という中心人物なき後の松山俳壇の中心となったとみられる。
 五嶺はまた、『俳諧器水弁』『俳諧十七ヶ条』という二冊の俳論書をまとめている。これらの中で彼は、俳諧における故実を書き集めている。新しい革新的な理論はあまりうかがえないが、星加宗一氏は『俳諧十七ヶ条』の中の「俤を不取事」の項に注目されている。この項で五嶺は、俳諧とは根からない事を創案して、前句から一句を案出するものであるから、あくまで独創的新鮮なものでなければならないとしている。これなど、芭蕉が常に新しさを求めたのと軌を一にするものともみられる。

 芭蕉句碑の建立

 このような蕉風復興の気運は、各地の芭蕉句碑建立という形になって表われるようになる。先述の寛保三年(一七四三)の霜夜塚をはじめとして、同年松山の竹翁は、太山寺門前に「八九間空に雨ふる柳哉」の芭蕉句を刻んだ柳塚を建立している。また、宝暦四年(一七五四)大洲旧太子堂に梅嶺の建立した雪見塚「いざさらば雪見にころふ所まで」、宝暦年間、土居入野の医王寺に時風の建立した芭蕉句碑「物云へば脣寒し秋の風」、寛政五年(一七九三)松山市港山の不動院に方十ら三津連衆の建立した亀水塚「笠を敷て手をいれてしる亀の水」、同年北条市灘波大師堂に建立された藤花塚と、芭蕉五〇回忌から百回忌にかけて、あちらこちらに芭蕉塚が建てられ、蕉風俳諧が賞美されるようになる。その中で、明和七年(一七七〇)越智青楯の建立した花入塚は、松山と蕉風俳諧とのつながりを象徴的に示すものとして注目される。

 花入塚

 先述のとおり、元禄五年(一六九二)松山藩常府の医官彫棠の寓居で、芭蕉・其角・桃隣らを迎えて歌仙がまかれた。「打よりて花入れ探れ梅椿」の芭蕉発句のこの歌仙を、桃隣が懐紙に筆録し、その懐紙が彫棠から門人越智擲瓢に伝えられ、更にその子麦邑から孫の青梔に伝えられた。そして青梔は、父麦邑の遺志を継いで、その懐紙を松山市道後の石手寺境内に埋めて句碑を建立した。これが花入塚で、今も石手寺境内の中心部にある。
 さらに青梔は、花入塚建立を記念した俳書『花入塚』を安永五年(一七七六)京橘屋治兵衛板で刊行する。これには、風徐・野菱の明和七年一〇月一二日の序文に続いて、冒頭に元禄五年の「打よりて」の歌仙が収められている。そのほか、梅十題・椿十題として各地の連衆からよせられた歌仙表が収められ、松山では、風徐・青梔・五雲・野菱を中心とした連衆の表六句が各々収められたほか、数多くの松山俳人の句が集められている。青梔の跋文をみると、祖父擲瓢が江戸勤番の際、其角や彫棠から俳諧を学び、その縁でこの懐紙が伝えられたこと、以来三代にわたって公務のかたわら蕉風俳諧を学んでいったことが記されており、藩士たちの間に蕉風俳諧が広く伝わっていた様がうかがえ、興味深い。
 こうして建立された花入塚を前に、以後祭祀が催され、その都度記念句帳が作られるなど、花入塚は蕉風俳諧の象徴として、松山俳壇に無言の影響を及ぼしていくようになる。

 美濃派の狂平

 松山でもう一つこの時期注目する必要のあるのは、美濃派の流れである。支考のおこした美濃派は、東予を中心に広まったが、松山の臥牛洞狂平は、道後円満寺に支考の仮名詩碑を建てるなど、美濃派の普及に力を尽くした。この仮名詩碑は、宝暦五年(一七五五)支考二五回忌を機に建立したものである。そして、宝暦一三年には松山来遊中の二六庵竹阿を交えて碑前で追善供養が行なわれ、それらのいきさつや句作をあつめて狂平は俳書『きさらぎ』を刊行する。
 この『きさらぎ』には、青梔や風徐らの句もあり、互いに交流のあったことが知られる。この他、美濃派の芭蕉供養興行句集として、明治期まで出版された『花供養』には、松山の俳人が多数名を連ねており、寛保三年(一七四三)最初の『花供養』には、更互・五嶺・志山らの名がみえる。これらをみると、松山では各流派が自由に交流をもち、互いに影響を与えあっていたように思われる。