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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

四 戯作

 戯作とは、黄表紙、洒落本、草双紙、読本、滑稽本、人情本など、江戸時代の中期から明治初期に書かれた散文系統の町人文学の総称であり、それらの作者を戯作者という。彼らは、和歌や漢詩文などの正統をなす雅の文学に対して自らを俗の場に置き、なぐさみ物の作者と称することで、さまざまな趣向をこらすとともに、諷刺的な精神を込めた。中央の文壇に活躍した伊予と関係のある著名な戯作者としては蓬莱山人帰橋、柳園種春の名が挙げられるが、伊予にあって伊予人気質を描き、また伊予に残された戯作も注目される。

 当世芸評判

 天明六年(一七八六)に書かれた鼻下斬無丈作の諸芸評判記『当世芸評判』は、当時松山藩で流行していた庶民の芸尽くしである。江戸初期から中期にかけて江戸や上方で遊女や役者の評判・批評を書いた評判記類が流行したが、中期以降は衰退し、以後は、戯作、角力、人物、狂歌、名物、古銭など各種の評判記がともかくも幕末まで刊行された。この諸芸評判は江戸後期に地方で記された評判記の一種である。筆者鼻下斬無丈の本名経歴は明らかでない。本書は、武芸、学問、宗教、医術、格闘技から、職人芸、工芸細工、芸能、歌舞音曲、遊芸、さらに「あたま押し上手」「世渡上手」「長湯」「砂糖喰」「古今大通」「大ちゃく」「利口をゆふてばかな男」などの変人・奇人に至るまで、侍のたしなみ、世俗芸、腕自慢など九十余芸の評判を挙げて、簡単に自らの見解を加えたものである。文学的な価値は乏しいが、当時の地方風俗や庶民文化の豊かさを知る好個の資料である。

 松山肌競・興醒草

 現存の写本に二本ある。一本は京都大学文学部穎原文庫蔵本、他の一本は伊予史談会蔵本である。写本としては後者の方が忠実な写本のように思えるが、前者には扉表に「大野文字衛著、松山肌競、興醒草」とあり、裏表紙見返に、同筆で「明治廿六年春、余此書を写し同人輩に廻し、其後書を失ひたるにより、丗七年八月、又此書を写し保存し置くこととせり。松山に於ても余り此書なし。三鼠」とあって、資料的には有益である。「三鼠」は大原観山の四男岡村恒元の号であり、その証言によってのみ「大野文字衛」を作者として知ることができるからである。ただ大野文字衛の正体を明らかにし得ないのは遺憾である。
 『松山肌競』は、魚楽の序文に「文政改元の季夏」とあるから、文政元年(一八一八)六月の成立であり、「世の通人達の一笑に備へん事を得ば、予は元来実に惣座中の幸甚ならん」とあるから、いわゆる洒落本制作の意識のもとで書かれていることは明らかである。流行の服装や藩内の情報などにのみ敏感で、武芸学問そっちのけの「当世肌」、神仏参詣に熱心で、慶事の贈り物にぬかりなく、役付になることに汲々とする「あせり肌」、生活設計がまるでだめで、その日暮らしの「不工面肌」、骨董品に凝る唐音かぶれの「雅人肌」、中身はからの作りだけ立派な印籠を吊げた「空見へ肌」、稽古場の段式のあがるのと一度江戸へ行きたいのと小役人の役職にあるのだけが望みの「小手襦半肌」の六章からなる。どこにでも居そうな中下級藩士の気質を、やや誇張して滑稽に描き出すことに成功した小品と言えよう。序文によれば「各思案をこらす。予も其例に加わり、終に『から見へはだ』一くわいをつづり第五章とす」とあるので、序者魚楽が大野文字衛の分身でないとすれば、そして同序中の「糟粕」「洞亭」「胡秋」「酒仙」もまたそうでないとすれば、六人一章ずつの合作ということになる。文字衛はその発案者にしてまとめ役ということであろうか。
 『興醒草』は、「肌競後編」と角書があることから『松山肌競』の続編として書かれたことは明らかである。また、「つちのと卯の春」とあり、文政二年が「巳卯」であるから、翌年に継がれたことも明らかである。題意は序中に「予嚮に肌競一編を顕はして、世の馬足役者の穴を穿つ。今またこの冊子をつづりて、前編にもれたるを拾ひ、世の見功者連中の興を醒さんと斯なん」というによる。序者は「御免奈才」と署するが、大野文字衛の別戯号であろうか。
 「と、か様にささいな事までに気をいため、自分の気で自分の気をいためる事、臼で物を突きへらすが如し。夫故気臼家というならん」というオチのついているのは、冒頭の一編「気臼家」であるが、このような形で、「二上り家」「見焼家」「野羅家」「意足太家」「蚊虻家」「林食家」「芝居家」「理窟家」「夜目通家」「穴臋家」「奉燈家」の十二章から成っている。前編の「肌」という類型的気質名に対して「家」という名の気質の穴をうがとうという寸法である。「気臼家」で「近頃はいろいろ肌くらべじゃの料理見立じやの、数々新作があるそうなが、是等をこしらゑるはようない事じゃ。定めて隙人の馬鹿等が作った事であろうが、同じ傍輩の事を作るは御上へも不忠じゃ」と主人公に非難させ、「二上り家」では「二上りの事は皆様御ぞんじの事故、管をまかず」と結んでいる。この種の表現は随所に見られ、おのずから戯作に韜晦する姿勢を示すことになっている。「奉燈家」に登場する桂流の落咄をする大阪者は、作者の代弁者であろう。「四国辺の御城下に頓田怪智助さま」という町奉行のきびしすぎる論義が、かえって小悪党を生み出すという話は、松山城下の実在の町奉行へのあてこすりでなくて何であろう。
 「気臼家」に出てくる『料理見立』は管見に入らないが、本書巻末の「近日追々出来」として挙げられている作品『珍連呉服見立』『当世海魚見立』と一連のものと思われる。「近日追々出来」はともかく、『料理見立』はできていたのではないかと思われる。

 夢の旅

 多田無三考作で天保八年(一八三七)の唐翩朴の序をもつ滑稽本『夢の旅』は、二人のだわけ者が家を抜け出て、一人は狂歌師二九丸、一人は俳諧師別々と名乗り、天保八年の晩春に内子一二景の名勝一見の旅に出る話である。内容は、作者の題言によれば内子一二景に遊ぶ夢を二八夜見続けたのを求められるままに書き記したものといい、夢中の内子道中案内記の体裁をなしている。滑稽本は、題材を日常一般の庶民世界に
求め、会話を主としてそれに洒落や地口を盛り込み、日常動作を細かく写しながらおかしみを誘うものであるが、最初の晩に六〇ばかりの親父に泊り賃として酒代をせびられ、俳諧師を領主から触れ書の出ていた怪しい旅人の徘徊と間違えられて非人たちに村境まで追い払われる話や、僧侶に出会ったら荷物持ちを交代する坊主持ちにしていくうちに寺の門前に出て、僧侶が多いので声高になって荷物のやりとりをして喧嘩と間違えられる話、口から出まかせで正直者の侍の剣術の相手をすることになり、腹痛をまねて逃れたために折角の料理を食べそこね、夜中に店の万頭を取りに出たところが鳥もち桶に口をつけて手足が動かなくなり、店の者たちに唾を吐きかけて洗い流してもらうなど、滑稽な失敗のくり返しが描かれている。低級・卑俗な愚行の数々に加えて、洒落や冗談の応酬、狂句の即吟などをおもしろおかしく書き立てており、同時に旅行案内記の役目をも果たすなど、滑稽本の体裁も忠実に踏まえている。作者の多田無三考、序文を記した唐翩朴の経歴は詳かではない。

 二名島桜早咲

 慶応二年(一八六六)大洲出の官吏山中幸忠(梅亭薫々)作の読本『二名島桜早咲』は、伊予国江原城主江原近江守家を中心とする敵討物で五巻からなると推測されるが、現在は三、四巻のみ残されている。その内容を見ると、三巻は〔一〕桜井民部、篠塚卓馬主従が山路に迷い、宿を借りた山中の一軒家で夜中に大石に圧殺されんとするところを不思議な声に助けられ、盗賊母子を打ち果たすこと。〔二〕桜井一心斎の敵をたずねて木曽街道から関ヶ原を経て江戸へ向かう民部主従の道行。〔三〕近江守の使者として隣国に向かった月山右近が恨みを持つ高石蔵人と加古百助に銃撃されて横死すること。四巻は〔一〕月山家に弔問の上使がたち、蔵人も平然と悔みに来る。〔二〕百助は右近の家に盗みに入って逃亡し、貧民の娘お夏に焦れて思いを遂げられず、これを殺そうと忍び入って誤って母親をしめ殺す。お夏は卓馬の弟善吉の妻となり、夫の病気平癒の祈願中を百助が見つけてねらう。お夏は二一人の美女に襲われる夢を見るが、夢占で病気平癒の前兆とよろこぶこと、など、善
悪入り乱れた複雑な構想の敵討物の体をなしている。作者山中幸忠は上浮穴郡小田町の生まれで字は忠恕、通称は稜威道別、槃堂と号し、他に桜蔭、温故堂、梅亭薫々、梅花亭、曲渓などの別号がある。学を好み、武田塾軒、矢野玄道に師事して和漢の典籍に通暁し、『大洲名所図会』など多くの著作がある。詩文、和歌、絵画、てん刻などに秀でた多趣多芸な人物であったといわれる。大洲藩主加藤泰秋に仕えて中小姓、維新後は官吏となり、後に大洲町の戸長となって地方自治の基礎を築いた。明治一六年没。

 山陰土産蟹の横這ひ

 明治三六年(一九〇三)に今治出の素州片鱗(丹下謙吉)が書いた『山陰土産蟹の横這ひ』は、同年正月七日に東京を発ち、岡山から津山、鳥取、倉吉、米子、松江、広島とめぐった山陰巡歴の紀行である。丹下は安政四年に今治藩士の二男に生まれ、藩校から東京の駒場農学校に進んで獣医学を学んだ。明治三一年岩手県に出仕して県獣医学校教諭を兼ね、のち、農商務省、宮内省に転じて、主馬寮種馬所ならびに馬政局の技師を歴任した。内外各地を奔走してわが国の馬種改良に多大の貢献をなしている。昭和四年没。この紀行は戯作の体裁をとっているが、鳥取県日野郡の青馬購入、黒坂の養蚕、大東のデボン牛などの記述が詳しく、山陰地方の畜産振興のさまを見る巡察の旅であったと思われる。また、鳥取県倉吉の牧田婦人の貞潔とその宿の繁昌のさま、後醍醐天皇隠岐島脱出と御来屋の由来、米子の地名説話、鳥根では大坂の陣における亀田山城主松平直政と真田幸村の故事、毛利元就弓矢の故事など、故事、名勝、行政、庶民生活なども書きとめられている。