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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

五 蓬莱山人帰橋

 安永・天明年間に活躍した狂歌師・戯作者の蓬莱山人帰橋は、狂号を大の純金無といい、他に蓬莱帰橋、浮世偏歴斎、道郎苦先生などと号した。上野高崎藩大河内侯の家臣河野氏というが、実名、生没年は詳らかでない。近年、伊予三島から出た越智氏の流れで、高崎侯に仕えた越智通秀、または通祝であろうとする推定が行われている。蓬莱山人帰橋の号は、深川富岡八幡宮前の橋が蓬莱橋で、その近くに居住した縁によるものといわれる。洒落本、黄表紙の著作が多く、とくに深川を背景にした洒落本に傑作が多いのも、その生活と関係が深いのであろう。大田蜀山人、朱楽管江、清水燕十らと親交があり、洒落本を専門にする作家として蜀山人、田螺金魚とともに第一人者山東京伝に次ぐ位置を占めた。洒落本・黄表紙の外に、絵本「抛入狂花園」明和七年(一七七〇)頃刊、染織法を記した『更紗便覧』安永七年(一七七八)刊、遊里評判記『九蓮品定』(刊年不明)なども残しており、その多芸多趣味ぶりが窺われる。

 帰橋の洒落本

 帰橋の代表的な洒落本の展開と特色を見ると、まず安永三年(一七七四)刊の『婦美車紫鹿子』が注目される。これは江戸の岡場所七十か所の特色を挙げて簡単な比較を加えた『九蓮品定』を中心に組みたてられた遊里案内記的な性格を持ち、風俗資料的な価値が大きい。芝神明の生姜市で出会った侍野呂右衛門と大和屋が茶屋に休み、野呂右衛門が九蓮品定という江戸中の遊里の品定めと女郎買いの道具類を記した一巻を大和屋に見せる。それから両人は高輪の茶屋から品川の廓にくり出し、大和屋はもてるが、野呂右衛門は振られる。一つの遊里の微細な観察と描写に徹するのではなく、多方面に取材しての比較論に帰橋の特色が現れている。次に、安永八年(一七七九)刊の『美地の蠣殼』では、俳諧宗匠のもとに集まった三人の遊人が深川遊女の噂話から深川に赴いて、厚薄二様の待遇を受ける四人四様の遊びの様が描かれる。作中に出る四人の名はみな当時の名優の俳号をもじったものである。遊里の情調よりも客と妓のすきのないやりとりを中心とする初期洒落本の典型的な形をなしており、夢中散人寝言先生作の『辰巳之園』(明和七年)などと並び称される深川物の代表作である。また、同じ安永八年刊の『竜虎問答』では、『美地の蠣殼』を発表したことに不満を持つ客が遊里は吉原を第一とすべきだと非難したのに対して、作者と思われる人物(貴橋)が深川が吉原に劣らない理由を挙げて応酬する遊里比較論を展開しており、深川の遊里に愛着を持ち、その土地の風俗や気質、遊びの実態などを写実的に描く帰橋洒落本の特色を発揮している。これ以後、帰橋の洒落本は滑稽とうがちを中心とした深川風俗の描写が一層深みを増しており、天明元年(一七八一)刊の『通仁枕言葉』は事実談をそのまま写したかのように遊人の会合の席に作者が登場して深川の最新の知識が語られる。作中に作者が出る趣向は黄表紙にある趣向で、帰橋の作品にはかなり多く見られるが、作品によってはむしろ実在感をおとしめる悪い洒落に落ちたものもある。翌年の『富賀川拝見』では男に真心を疑われる仲町の遊女おたよによって深川女の意気地が写実的に描かれているが、末尾の作者の登場は蛇足であろう。更に天明三年(一七八三)刊の『愚人贅漢居続借金』では作者とその交友仲間の四方赤良、志水燕十、朱楽管江、雲楽斎を実名で登場させて、深川に遊ぶさまを具体的に描いており、実在人物の日常生活を暴露的に描く体験派作家の特色が現れている。この暴露趣味的な写実の行き方が藩侯の忌譚に触れたのか、天明四年以後には彼の洒落本は見られない。
 帰橋の作品はこのほかに安永七年市村座の春狂言に上演された奈河亀輔作『伊賀越乗掛合羽』をあてこんだ際物の洒落本『伊賀越増補合羽之竜』(安永八年)がある。お家騒動に敵討を組み合わせた話に黄表紙趣味の趣向を多くとり入れたもので、しんみりした深川情緒は感じられない。また、『鴨長明四季物語』をもじった『家暮長命四季物語』(同)は、町医者家暮長命を訪ねた可流、定可が町芸者のお秋、おゆりをつれて深川の山開きに出かけるが、おゆりはお秋としめしあわせて口実をつくり、ひそかに情人成平としのび逢うという話である。登場人物はそれぞれ鴨長明、家隆、定家、業平のもじりで、町芸者の恋の手管を描いた佳品といえよう。『遊婦里会談』(安永九年)は、作者帰橋のもとに船臥、馬遊、隣波、廓子が集まって各地の遊里の珍奇な話題を披露する話であり、その人物名はそれぞれ深川、新宿、品川、吉原のもじりである。この登場人間たちに会合させて各遊里の風俗や気質などを語らせる趣向は、山東京伝の『古契三娼』(天明七年)に受けつがれた。帰橋にはまた『間似合嘘言曽我』(天明五年)、『壁与見多細見之御太刀』(同六年)などの黄表紙もあり、滝沢馬琴がその著『近世物之本江戸作者部類』に「小本作者の巨擘」と評したように多面的な活躍を示して、のちの山東京伝らの作風の先(足へんに従)となった。