データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

二 実録

 実録は、実際に世上に起こった事件に取材し、そのありのままの筆録であることを建前とするが、多くは口承・舌耕(講談など)に拠ったもので、読者の興味をひくため虚説をまじえ、脚色を加えており、いわば実録体小説と理解してよいであろう。お家騒動・敵討・武勇伝・裁判物の類が中心で、いずれも実名入りであるため(架空の人物もまじるが)、出版取締令に抵触するのであろう、出版されることはなく、写本で貸本屋に多く出廻った。実録物を専門に筆写・製本している業者があり、かなりの種類と量が流布していた。作者は記されていないが、業者お抱えの専門作者がいたであろう。貸本屋は各地にあり、本に本屋印の押してあるものもある。後述の『予州神霊記』には、松山湊町二丁目書林大和屋与五兵衛の印(下図参照)があり、余白に大和屋は見料(借賃)が一昼夜四厘と高いため、「一昼夜三厘 月定四銭 年定四十銭」と希望価格を呈示してある。時代により、本により見料は異なるが、これは明治初年の・この本の値段と思われる。他に本町三丁目野中栄三郎の印のある本もある。(長友千代治『近世貸本屋の研究』参照。)
 伊予の実録物としては、奥平久兵衛謀反の松山騒動、山家清兵衛暗殺事件の宇和島騒動、武左衛門一揆の吉田騒動に取材したものが代表的なもので、実録体小説となる以前のもの、実録体を借りて書かれたものなどそれぞれ幾種かの形態を見ることができ興味深い。
 また、これら実録は、それを虚説としりながらも、すでに実説の不明な事柄については、意外にリアリティをもっているという皮肉な結果ともなっている。その眉唾が文芸のおもしろさである。

 伊予名草

 二〇巻三冊の写本。序文に、五倫の儒教道徳を説いた後、「文化二年丑稔梅月 鶴羨斎伊東通忠誌」とある。これが作者であるか否かは不明。内容は加藤嘉明松山城築城のことから始まり、松平定国襲封で終わっている。この間のできごとを中心に、逸話・口碑等を含めて実録風に記述している。したがって核となる主題はないが、奥平久兵衛の謀反が重要な事件として扱われている。以下各巻毎の内容を紹介する。

  巻一 嘉明勝山に築城、福島正則これを検分し、嘉明の逆心を知り奥州に国替え。嘉明に諌言した堀主水と河村権太夫暇を乞う。権太夫は浪人の時、真田幸村に五〇万石を望むが、閉門の嘉明のことを思ってのことという。
  巻二 堀主水大砲を撃って立退く。嘉明怒って高野に隠れいる主水を討つ。蒲生忠郷入城。鷹狩りの時中村忠四郎の笛を聞いた石鎚の天狗が礼に与えた箱に、蒲生家断絶の一札あり。禁忌を破ったため蒲生家断絶。松平定行入城。
巻三 島原の乱に黒田将監と石原勘解由・津田十郎兵衛を討手に差し出し、黒田奮戦し負傷、津田は討死、石原らは無事帰国。将軍家綱日光社参の折、警固不備により定長閉門。松平薩摩守家久とりなしにて御免。家久かつて家康をねらって失敗、定行の仲介にて降参、それより縁籍関係となる。定勝室は家久娘。以後両家親密なり。
巻四 定長、貞享三年綱吉の厄年に金的を射て面目を施す。伊佐年波神に祈り、その告げにより成功、湯月八幡宮を再建。今治藩主定時、奥平久兵衛を饗応し、子の定直を定長の養子擁立と引きかえに、久万山六千石を約す。
巻五 松平藤十郎(定次孫)、石手の祭礼に角力取り朝山にからまれ、百姓ら四人を斬る。久兵衛これを讒言し、今治より定直養子と決まる。失意の藤十郎は江戸に出て病死、定直に家来のことを頼む。
巻六 定次伝来の雲山の茶壷は示威のため二千両で入手、割るが本に復す。小白竹(瀧)の琵琶は薩摩より贈られしもの。定英、奥方お栄の方を離縁するが、薩摩との仲疎ならずという。薩摩は久兵衛のたくみとて怒る。
巻七 お栄の方出産、女子というを久兵衛男子と主張して引き取る。この定喬成人して家督を継ぎ、大阪にて川舟を出しぜいを尽してお栄の方に対面。江戸城内で仙台侯と旗本と争うを定喬おさめて、鬼神と称せらる。
巻八 吉宗日光参詣の折定喬今市を警固。中村勘兵衛老勇並びに眼力の逸話。松平筑後守閉門のとりなしのことなど。
巻九 定英弟定章、久兵衛と謀反の密談、事成らば懸案の久万山を与えんという。久兵衛、江戸より帰り服部玄蕃等一味を集める。脇坂五郎右衛門、毒薬を求めて長崎に出立、この時千秋寺住職に斡旋を頼む。
巻十 吉田権兵衛、一子十八太殿の御側用人故に一味連判を強要さる。一旦加判して帰宅、十八太に遺言して切腹。
巻十一 十八太は父は病死と言いなし、事の次第を奥平藤左衛門に告げる。藤左衛門江戸へ密使に下男肋助を遣す。
巻十二 藤左衛門は久兵衛と兄弟。久兵衛は享保飢饉の折、藤左衛門が大阪にて金を借り百姓を救おうとしたことにつき過失を申し立て、藤左衛門を久万に山居させ、さらに暇を出す。定喬帰国の途次岩城島にて休息、神谷らここにて毒殺せんとするが失敗、三津の茶屋にも立寄らず無事帰城。久兵衛ら不審に思うが、詮議もならず。
巻十三 岩城島での危機回避は前例なき神谷らの餐応を疑った黒田庄左衛門の働きによる。以前神谷と十河又右衛門と争論のことあり、恥辱をとった十河切腹、家は断絶、その下僕時蔵を黒田家来としている。
  巻十四 時蔵誠心をもって黒田に仕え、武術の稽古を願う。黒田その心底を察し、時蔵に武術を指南、享保二〇年、時来たれりと、時蔵を侍とし、十河庄助と名乗らせ、別れの盃をする。
  巻十五 庄助は神谷の下城を待ちうけこれを討ち切腹、黒田はこれを届出。庄助は又右衛門の側に葬られる。
  巻十六 一味の医者道益毒薬を外堀に捨てて逃げ、土佐に隠れているを捕え打首。奥平宇兵衛も発覚を恐れ切腹。久兵衛一味の悪事露顕、久兵衛は生名島に流罪、伊藤重兵衛が切腹をすすめるがきかず。
  巻十七 久兵衛養子となっていた弁之丞改名して直次郎となる。吉田十八太も次第に出世。藤左衛門嫡子藤五郎召出され新知二千石。藤左衛門も玉子二つに割れる夢を見、吉と占われる。三千石にて帰参する。
  巻十八 定章、京にて病死。久兵衛、無実なる由を定章に訴えんとして下人を江戸に遣す。この書状は備中守(定章の嫡子定静)に渡り、定静は封のまま定喬に提出。久兵衛は切腹、脇坂は打首となる。
  巻十九 石黒平左衛門、江戸の急使の途次、武術修業の男と出会い立合って引分け。定喬は定静と懇意。
  巻二十 定喬病死し、直次郎相続して定功、定功早世して、定静が出家相続。人つかざるも家老の諌めを守り、信頼を得る。子なきによりお鉄方(定喬女)に田安宗武二男を養子に迎え、定国となる。

 以上代々のできごとが事実らしく書かれているが、嘉明逆心のこと、定英室お栄の方離縁の実情(寝所の訪れに老女気付かず鈴を鳴らさなかったこと)、雲山の茶壷入手の事情など史実の上で確認できないものであるし、蒲生家断絶の話、定直養子に際しての定時・久兵衛の取りひき、松平藤十郎の石手寺での喧嘩、お栄の方より男子引き取りの久兵衛の不敵なふるまいなど、かなり説話化されたものとみてよい。その他、島原の出陣、小白瀧のこと、定喬のお栄の方との対面、奥平藤左衛門久万山塾居のことなどは史実にあるにしても、これもかなり説話化されているであろう。説話松山藩史の性格を持っている。
 松山騒動も史実上は認められないものであるが、『松山叢談』には藤左衛門らの蟄居にっいて、口碑では「奥平久兵衛隠謀より讒言を以て斯は至らしめたるとぞ」とあり、久兵衛処罰についても口碑では、瀧本勾当が盲目を利して久兵衛の動向を探り、水野吉左衛門に報告したとある。口碑では久万山騒動などこの時代の一連の事件が久兵衛謀反としてとらえられており、本作でも定時・久兵衛密談以後この線に沿って脚色されている。この中で、藤十郎排除のこと、千秋寺和尚のこと、吉田権兵衛のこと(巻九)、岩城島での休息時の黒田庄左衛門の働きなどは、『伊予の湯下駄』には見えない本書独自のものである。しかしこの事件も長い藩史の中の一説話であり、虚構化、小説化は十分に進んでおらず、実録体小説の域にまで達していないものである。

 伊予の湯下駄

 一〇巻一冊。本書は、金毘羅舟の中で、さる山伏の語る話を書き留めた形式をとっている。久万山騒動に関しては大宝寺の縁起、道後湯の町の由来、和霊宮のことなど伊予を紹介しているところのあるのは、中央の読者を対象としていると思われる。あるいは貸本業者の手によって作られ、流布したものなのであろう。それだけにまた小説化も著しい。『伊予名草』とは異なり、奥平久兵衛の奸計謀反によるお家騒動に焦点を絞り、それを基本構想にしてさまざまの脚色を加えている。(資628~660)
 久兵衛は、殿が御湯殿の女中に生ませた子を預り、これを立ててお家乗取りをはかるが、これは『伊予名草』で弁之丞を無理に養子にしたのを踏まえ、お家騒動劇の構想をより明確にしたものである。殿を除くための最も簡便な方法は奢りをすすめることで、ここでは道後の遊廓の設置(享保一一年頃か)と関係づけられている。家老の諌めによって遊廓での遊興はやめたものの、近習のすすめで遊廓を城内に移しての遊興となる。歌舞伎などではよく用いられた趣向で、後出の『出世奴孫子軍配』(第四章第五節参照)にも用いられている。該当の定喬公がかかる暗愚の殿であったわけではないが、そういうことにしなければ小説的面白さが出ないのである。こうして忠臣は遠ざけられ、甘言を弄する久兵衛一味のみが幅をきかせていくことになる。
 これに対し、善の側ではまず水野吉左衛門が偽聾になる。これは『松山叢談』で、瀧本勾当を使った口碑を転じたもので、これも当時の演劇や草紙類に多い趣向である。吉左衛門は偽聾で久兵衛らを安心させ、わが身を悪の中で保っていくとともに、彼等の動きを探り、悪のだくらみを把握していく。わが身を圏外に置くことによって辛抱強く時の至るを待つ、こういう男の存在も必要なわけである。目付・山内与右衛門は、悪意をもって定英公を惑した科で享保一八年役儀御免、切腹となっており(松山叢談)、『膾残録』には「初め遠島と思ひしに切腹被仰付侯故」とあるのを、本書では、彼を和霊久兵衛(山家清兵衛のこと。その事蹟が語られている。)の甥として、和霊久兵衛同様主君に諌言して聞かれず、遠島のところ、一味にだまされて切腹させられることになっている。与右衛門が亡霊となって若殿や忠の者の夢に現れ、危急を告げるのも山家清兵衛と同じであって、和霊物がここにも取り込まれている。悪に対抗する忠臣の働きも実録物お家騒動の興味の一つである。
 久万山騒動は、寛保元年茶の値下りにより銀納の困難を訴えて百姓達が大挙して大洲領へ立ち退いた事件で、久兵衛らは不相応の饗応を受け、遊興にふけり、賄賂をとり、下の人々の痛みを顧みなかったためこの騒動に至ったとして遠島になった(松山叢談)のであるが、本書では久兵衛らが法外の運上金を課したためとある。石手川をはさんで藩兵と対峙した百姓の様子も活写されている。ただ大宝寺斎秀和尚は登場しない。
 奥平藤左衛門は諌言から勘気を得て大阪へ立ち退くが、『伊予名草』の下男肋助の急使の件は、ここでは奴六平が若殿毒殺の報を得て江戸に走ることになっている。これを追う刺客をだまし討ちにするさまが面白い。毒殺はお家騒動には付き物で、『伊予名草』にもあったが、本書では六平の活躍にもかかわらず、長子は毒殺され、大殿も毒の病に倒れる。次子直次郎は英明の生まれつき、悪人討滅のため帰国の途に就くが、岩城島の休息所で謀殺を巧む一味の計画を告げるのが与右衛門の亡霊である。この危機回避は、超現実なものに頼った本書よりも、庄左衛門の明知に拠った『伊予名草』の方がよい。
 直次郎無事入部の後は、悪人討滅へと転じられるが、ここからはたわいない趣向が多い。見えすいた久兵衛一味の強盗事件、脇坂五郎右衛門の妖術を使っての久谷山中への立籠りなど、話としては面白いが、それだけのもので、読者へのサービスであろう。『伊予名草』にある久兵衛生名島にて再び謀反のことは、ここでは愛人おゆた(道後の遊女)を使っての話となっている。古左衛門の計略に乗せられて失敗したとはいえ、おゆたの女ながらに単身生名島まで行く献身ぶりは心ひかれるものがある。
 以上みたように、本書はお家騒動の実録体小説として典型的な性格を持ったものである。虚構が目立って、史実からみれば荒唐無稽であろうが、読み物としては大変面白いものになっている。筋立に重点を置いているので人物の細かい心理描写や際立った性格創造はみられず、文章も類型的な語句が多い。これは口承的文芸の特色であり、文芸的には必ずしもすぐれたものとは言いがたいが、庶民の娯楽として、また身近な事件に取材した文芸として、独自の地歩を主張しうるものではあろう。

 松の山鏡

 『松の山鑑』『松乃山鑑』とも。伊予史談会にこの三種の本を蔵しているが、これは『伊予の湯下駄』と同じもので、異本と見てよいであろう。三本とも多少の異同はあるが、ともに八巻にまとめてあるのが特色で、『伊予の湯下駄』と比べると、省略された章がある。両者の先後関係は不明であるが、『松の山鏡』の末尾に与右衛門について「温泉郡江戸村てふ処に社を建てしめ給ひ、文化十一甲戊のとし三月廿三日神霊を祭り鎮めて、山内神社と号し奉る」とあるので、この年以後の成立ということになろう。
 松山騒動については、口碑、説話化、小説化という三段階の展開をみてきたのであるが、宇和島和霊騒動についても同様ながら、松山騒動とはやや異なった性格を示している。

 山家清兵衛暗殺事件

 伊達秀宗の宇和島入部に際し、その父政宗によって家老に抜擢され、添え遣わされたのが山家清兵衛公頼である。清兵衛は創業資金として政宗から借入した三万両の返済、大阪城修築の工事費捻出等に苦心し、そのための緊縮政策が桜田玄蕃等対立者の反感を買い、秀宗の不満ともなって、元和六年(一六二〇)六月二九日の夜、上意討と称して暗殺された。しかしこれは後の資料によって、妥当と思われる根幹のみを記したのであって、その当時の資料が一切残されていないところが、またこの事件の特色でもある。五代藩主村候の時に焼却されたともいわれるが、むしろ家老暗殺という一藩の不祥事を覆い隠すために早く煙滅されたとみた方がよいであろう。すなわち史実を失ったこの事件は最初から口碑・伝承によって生きる運命を与えられていたのである。それはこの事件だけでなく、その祭祀されるに至るまでをも色どることになる。
 清兵衛が和霊宮として祭られた時期も十分明らかではないが、それまで児玉明神として祀られていたのが桧皮森に移され、山頼和霊神社となったのは承応二年(一六五三)のことと言われる。児玉、和霊、いずれも非業の死を遂げた清兵衛の荒ぶる魂を鎮める、すなわち鎮魂の意に外ならない。清兵衛はたたりをなす神、御霊神として人々に恐れられ、生き続けてきたのである。和霊神社という命名そのものが、すでに清兵衛の霊威の物語の成立を物語っていないであろうか。清兵衛は無実にして凶刃に倒れたこと、亡魂はなお主君を守り、賊徒は清兵衛の霊威に滅されたことなどである。しかもその霊威を恐れる余りこの物語すらが容易に姿を現さなかった。
 史料はなくても、口碑・伝承、またそれによる物語は実録風に多く綴られていたであろうが、深く秘された。「宇和島ニハ屹度記録モ有之、家中町方ニテ私ノ覚書ニモ委ク記置申者モ在之由、唯今ニテハ神慮ヲ威レ、中々他所ヘハ出不申、口上ニテ物語ニ申サヘ委細ニハ不申故」(和霊明神由緒)という状態であった。ここに言う記録・覚書も伝承化されたものであろうが、神慮を恐れて他出しないという。それは『和霊宮御霊験記』にも「此の書は世間流布の集書と違ひ、我家の秘宝にして他聞を免さず、予密に誓て借受け、我家の重宝とす、神威の恐れは猥に拝見を免さず、若拝見を願度及び候はば、三日限に用立つべし、左も無き時は神慮に不叶して、御罰を蒙る事疑無し、可恐事也、奉拝見分は先ツ手水して拝見仕るべし」とあり、『和霊宮霊験記』にも「戒禁」として「一、此書畳へ直に置くべからず、一、身体穢ある時は必ず見るべからず、一、日久しく他所へ置べからず」とある。神霊を人の身としてあげつらうことが、これほどの恐れとなっているのであろうが、人があげつらわなければ神霊の物語も流布しないという矛盾がそこにある。したがって右の諸書の言は同時に転写、転読の事実を物語る。拝見は三日限とか、日久しく他所へ置くべからずという戒禁には、むしろ神威を借りて、貸出し頻繁な本の紛失を防ごうとする口ぶりさえ窺える。和霊物語は口碑・伝承に次いで、すでに実録風の物語が成立したものの、深く潜行しながら読まれるという形態をとることになった。そこに御霊神信仰のヴェールをかむった物語の特色がある。もちろん次にはこのヴェールを大胆に脱ぎ捨てる時代が来るわけで、貸本屋への進出、さらには歌舞伎・浄瑠璃、講談、小説へと再生していく道をたどっていく。

 和霊明神由緒

 本書は和霊物の中では最も古い「宝暦八年四月二十三日」の奥書を持つ。本書は西園寺源透が大分で購入したもので、恐らくその辺の人が宇和島の知人に清兵衛の事蹟を質したのに対して、その知人が書き送った返書をまとめたものである。「爰元ニテ諸人の語伝モ有之候得トモ、実ノ証拠ナク、自伝へ誤モ可在事二俣エバ」それらの虚説を排し、実のみを伝えようとする態度をとっている。となれば筆はおのずから清兵衛を離れざるをえない。秀宗の逸話に終始した感さえある。しかし秀宗と清兵衛の関係については的確な把握をしている。政宗は、清兵衛の忠実厳密清直方正な人柄を見込んで秀宗に添えたこと、秀宗は大閤秀吉の養子として育てられたので大気であり、拾万石でも不足すること故、清兵衛に厳しく監督させたこと、それを秀宗は若き心に不本意に思ったこと、それにつけこみ奸妄の者が讒言し、無実の罪に陥し入れられたこと、奸妄の者三、四人は不慮の禍烈にあい、また家断絶となったことなど、事実らしきものを簡潔に記している。実録的物語に拠ったふしもないではないが、それにしてもその中から事実と思われるものだけを抽象した書き方なので、ほぼ妥当なものとなっている。秀宗の方は、無実の清兵衛を捨てたのは誤りであったが、本来はよき主人であったとして、幼き時、秀頼と組討の遊びで、秀頼を踏みつける時に懐中より鼻紙を出して足下に敷いて、直に踏まず淀君を感心させた話、また参勤の帰途難風にあい、舟まさに覆らんとした時にも、諸士と運命をともにしようと泰然自若であったことをあげている。この二つの逸話は生彩があって面白いものである。

 和霊宮御霊験記 和霊宮御実伝記

 この両書は、題名は異なるが、内容はほとんど同じである。単なる異本関係で、同一の書とみてよい。『御霊験記』は乾坤二巻一冊、宇和島叢書本は天保一五年の奥書があり、他の一本は安政二年書写の細川勝頼所持本で、神慮を恐れ増補せずとある。また「世俗の集書と違ひ実録」とある。この実録は事実の記録の意味であろうが、虚説の多いのはもちろんである。
 この両書は本の体裁・内容ともに実録物の性格を持っており、やはりお家騒動の構想である。秀宗の弟に信行なる人物を設定して、信行が悪心を起こし、兄に代らんとしてまず清兵衛を除こうとする筋立である。乾巻は清兵衛暗殺までで、清兵衛が信行の悪心を知って諌言するのを、信行は逆に清兵衛が鉄砲を鍛えていることを種に讒言する。次いで偽の上意討の者を差し向けるが、失敗。毒殺も清兵衛に向けられるが、清兵衛は未然に察知、病気と称して引き籠る。医師随玄は清兵衛の高潔な人柄に感服し、一味の氏名をしるした遺書を残して自害する。信行一味の討手の者、清兵衛蚊帳の中にて仮眠するを襲い、殺害。母公・奥方に毒酒をすすめると、母公これを飲み天狗となって飛び去る。奥方も鬼が城より黒雲舞い下り連れ去る。一説として、母公・奥方は雪輪の瀧にうたれ、百日断食して母公は天狗となり、奥方は空しくなったともいう。
 信行を加えたほかは比較的単純な筋立で、随所に実録小説的な扱いをみることができる。忠臣もいるが、さしたる活躍の場はない。それは後半の清兵衛の神威の物語に重心が置かれているからである。
 後半は清兵衛亡霊となって秀宗を守る物語である。翌年傷寒が流行し、一味の者が患い登城できず、清兵衛の亡霊が挨拶に罷り出る。秀宗参勤の江戸では、清兵衛亡霊が大火の予知をしたので、秀宗公義に申し出て未然に防ぎ賞美される。また帰国の海上にて難船の時には、一味松永の船が雷に打たれ沈み、帰国後天祥院三回忌を正眼院で行った時は、天俄にかき曇り雷落ちて一味の者多く死す。その他清兵衛の霊は信賞必罰を示す。秀宗は山家の宮を造営し、忠義の勘左衛門に山家の姓を与えて奉公させる。信行は悪心あらわれ蟄居するが、殺生にあけくれ、大鯉をとらんと池に潜り、池底で坊主に抱きしめられ、家来に助けられたものの狂乱して死ぬ。秀宗は吉田家より神官を招いて祭るに、雷暴れて清兵衛の霊渡御あり。
 本書では信行一味に対する報復は清兵衛の霊で一貫している。それ故に霊験もあらたかなのである。しかし、天狗になった母公の結末がつけられていない。つまり本書は「小天神記」であって、まだ「女天神記」にはなっていない。その芽が生かされていない。また、信行の結末は奇想であるが、これは民話にあるものを利用したものであろう。他の霊威は口碑によるものと創作の両方があるであろう。難船の折の落雷は、『和霊明神由緒』にみた秀宗難船の逸話を脚色し直したものと思われる。このように見ると本書はお家騒動に脚色はしてあるが、その面白さをねらうよりも、霊験物語に重点を置いているといえるであろう。そこに秘蔵された因がある。しかしそれも次第に開放されていく。伊予市玉井家所蔵の『和霊宮御実伝記』の包紙には「壬子蔵 和霊大明神御実伝御祈祷全四巻 家内船中安全病難火難賊難除守」とある。壬子歳は嘉永五年で、この年玉井家当主三木(俳名)は和霊宮に詣でた形跡がある。とすればこの本はその時に購入し、和霊宮に祈祷したものと考えられる。霊験の性格は残っているものの、本自体は販売の対象になっていたとみてよい。ようやくその時が来たのであろうか。

 予州神霊記 宇和島女天神記

 この両書も異名同書である。題名の意味も一は一を具体化したまでで同じである。前述のように『予州神霊記』は貸本屋で扱われていたものである。この両書のすべてが貸本屋のものであったわけではないであろうが、実録物としては一層虚構化の進んだもので、神威に対する恐れは薄れてきている。それよりも筋の面白さを読ませるものになり、和霊離れの傾向も出てくる。
 事件の時代はまず元禄一五年と設定されている。主人公も山辺清兵衛で、菅原氏の流れを汲み、百石取りの士分である。相手役越智武左衛門も「こしち」と読まれているが、これらは伊予を知らぬ作者のなせるわざであろう。そういう作者の書いた物語が和霊離れとなるのは当然のことであるといってよい。
 事の起こりは、家老大橋右膳と悪党曽我太夫の結託である。右膳は殿の代参として篠山権現に参り、狼籍し閉門、その後殺生する山で長太夫に会う。長太夫は出羽・姫路で悪事を働いた怪盗で、宇和島でも右膳を利用しようとしている。一方山辺清兵衛は武術にたけた忠節の士で、木刀でその腕を示し、怪猫を退治して殿の信を得る。殿の妾腹の子春松君の乳人瀧野の夫が越智武左衛門である。右膳はこの春松君を奉じて殿を討とうとするもので、謀反物、お家騒動物となっている。殿が参勤中利根川改修を命ぜられるのは、大阪城修築のことの転用であろうが、その御用金五万七千両を輸送する清兵衛・武左衛門を討って、金を奪い軍用金にしようと計画する。松山領三ツが浦で、清兵衛は蚊帳で簀巻にされ海に沈められ、武左衛門は落穴で生け捕られる。御用金は奪われ、その罪は清兵衛らに押しつけられる。瀧野は春松君を連れ久万の岩屋に隠れ、清兵衛中間銅介は清兵衛母と妻と一子清之助を京都清水寺にかくまう。それから拷問に屈せぬ武左衛門、つくり気違いとなって探索を続ける銅介と、苦難の物語が続く。右膳らは殿の帰途を海賊を装って討たんとするが、清兵衛亡霊が殿の夢にこれを告げる。清兵衛母と妻は清之助を殺して、養老の瀧にうたれて雷神となる。雷神となった母と妻は宇和島に帰り、長太夫らを亡し、右膳も雷に打たれて死す。帰国した殿は清兵衛の忠節に感じ、和霊宮に祭る。
 蚊帳中での清兵衛暗殺、亡霊、雷神など、僅かに和霊物の要素は踏まえているが、内容は大きく改変されている。長太夫の悪人ぶり、銅介のつくり気違い、瀧野の忠節など脇役たちの方が活写され、「女天神記」物へ大きく傾斜してきている。浄瑠璃・歌舞伎は本作を基に脚色したものである。(第五節参照)

 明治の和霊物

 『宇和島神霊記』(明治三七年)は、四代目石川一口講演、丸山平次郎速記、中村卯吉復文の全くの講談本である。『予州神霊記』を部分的に改変したもので、基本的に大きな違いはない。舌耕という立場からみれば、こうした講談は江戸時代より語られていたとみてよい。出版時からいえばこれより早く、末広鉄腸の『南海の激浪』が政治小説の一つとして明治二三年に出ている。民本思想に基づき、百姓の立場に立った政策をとる清兵衛像を創り出した点に特色がある。その後も曽根彪・三好春樹『和霊宮霊験実記』(明治三六年)、門多栄男『和霊神社祭神山家清兵衛公頼公』(大正一〇年)、三好春樹『和霊祭神歴史小説山家清兵衛』(昭和一三年)などが書かれた。史実と小説の間で、清兵衛像はまだ模索されている。

 吉田騒動

 世に武左衛門一揆と呼ばれる吉田騒動の起こったのは寛政五年(一七九三)二月であった。製紙納入の法華津屋両家が藩吏と結託して、百姓から紙を下値に買い、高利で金を貸したため、困窮した山奥の百姓らから起こって吉田領八三か村九千六百余人が宇和島の八幡河原に結集し、苛酷な新法の撤廃を訴えた。この時家老の安藤儀太夫が河原で切腹したので、これに感じて百姓も引揚げ、願いも達せられて、騒動は結着した。安藤儀太夫は忠烈の士として安藤神社に祭られた。寛政七年一揆の頭取(主謀者)武左衛門らが判明し処刑された。武左衛門を崇拝することは藩の忌むところで、その墓も再三にわたってこわされたので、その所在を失ったという。そのためかこの事件の実録もすべて儀太夫中心のものである。

 伊予簾

 武左衛門一揆の顛末を記したもののうち特色のあるのが『伊予簾』である。四巻一冊、作者は不明であるが、随所に評論的な筆致が見え、他の実録物とは趣を異にしている。たとえば今度の騒動は七年以前三間郷の百姓の強訴の延長であるとして、その時の張本人二人のうち三島宮神主土居式部についてはその来歴を述べるとともに、「彼る名家に有りながら名もなき土民の一揆に立交るのみならず、頭人の悪名を蒙り、其の申訳も立たざるは不似合至極の事共也」と批判している一方、「常々農家へ立入り百姓共の歎き悲しむを見るに忍びず、終に汚名を蒙り、数代の名家を滅亡の基ひとなせしは無念とはいふも余り有り」と立場は同じながらやむをえぬ行動であったことに理解も示している。さらに「此の度の一揆も彼の幽魂出て事を発せしものならんと風説専ら也」として怪異のあったことを述べ、それは信用しがたしといいながらも、党を組んで強訴するは子細あることだから、それを聞き、仁恵を施すならば幽魂出て害をなすことはないと言っている。
 山奥から起こった一揆が村々を巻きこみながら怒涛のように八幡河原に集結する様子はかなり克明にリアルに描かれていて迫力がある。疱瘡がはやっていて、病人を捨てて出て行く百姓、長雨の中、炊き出しの粥で僅かに飢えをしのいでいる有様、それにもかかわらず願書も出さず頑張っている様子、中に返り忠をする百姓のあること、またこれを聞いて胸を痛め仮小屋や食を手配する宇和島藩主村寿や町人のことなどが筆者の意見を加えながら生々と書かれている。口碑を生む余地の少ない現実の事件である上に、『伊予の湯下駄』とは異なり、一揆そのものを主題としたので、リアルな報告文学的な筆致となったのであろう。
 後半は家老安藤儀太夫の切腹とそれに対する批評、評価が中心である。かかる騒動の起こるのは、国政を預るものにぬかりがあったからにほかならず、儀太夫は家老としてその罪を一身に負ったのである。河原の百姓の面前での切腹を時と場所を弁えぬとの評に対し、筆者はこれを否定し、儀太夫を賞揚している。
 儀太夫の切腹が引き金となってこの騒動は鎮まるのであるが、結果的には百姓たちは目的を達した。しかしこれほどの一揆を指導した頭取について本書は触れない。「後に至り一揆の頭分三四人流罪に処せられ又壱人は死刑も是有りといへども」とあるだけで、武左衛門の名は見えない。百姓の動きをあれほど克明に描いた筆者が指導者を無視している。武左衛門の物語は、結局百姓の側から口碑として語り出さるべきものであった。
 『みなみいよ』第一六号に楠本長一の紹介されたものに『庫外禁止録』がある。『伊達秘録』にも登場する鈴木作之進勝名の著で、寛政七年のものという。事件当時の最も信用できる記録ということになるが、この中に取り調べられた一味の氏名が並んでいる。しかし「囚人の内御領中一円の頭取と号する者はなし」とする中で、上大野村の武左衛門は「詳に事分ル者ニテ山奥中の願書も取斗ひ夫ニ付ては所々より少々ヅヽの礼物も受候故先此者第一の頭取とは成也」としている。紹介が断片的なので不分明な点もあるが、以上のようであれば、武左衛門はやはり主領格の者ではあったろう。『伊予簾』がこれを無視した意図は不詳である。
 この騒動を扱ったものに『吉田騒動記』『伊達秘録』『安藤忠死録』がある。いずれも『伊予簾』と同様の内容であるが、武左衛門についての記述が加わっている。『吉田騒動記』には「拾ヶ村頭取六人之内上大野村武左衛門と申す者願書其外受答へ仕る(此所口伝あり)」と出てくるが、その処刑のことはない。『伊達秘録』では岡部二郎九郎という下役人が百姓を信用させて聞き出し、頭取の武左衛門は処刑されたとある。彼は土佐の生まれともある。武左衛門を逆賊としながらも、彼の頭取としての姿が浮かび上がってくる。それは口碑の中で一揆の英雄としての姿が成長して来ていることの反映であろう。この両書に「此所口伝あり」というのは、この事件が口碑として物語られていたことを示す。それ故に、彼が主人公となった実録が遂に書かれなかったのは惜しまれる。
 吉田騒動は実録体小説にまで展開せずに終わったが、それは一揆という事件の性格にもよるであろう。その中で『伊予簾』という評論的実録体文学を持ったことは誇ってよいであろう。