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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

第五節 浄瑠璃

 県下には、伊予源之丞(松山市古三津)、大谷文楽(喜多郡肱川町)、朝日文楽(西宇和郡三瓶町)などの人形浄瑠璃が残って今も上演されており、往時の盛況がしのばれるが、そこで上演されている曲目は殆どが上方で上演されていた古典的な作品である。伊予において創作され、人形にかけられた作品のあることを聞かないが、次に取り上げる二、三の作品は例外的に伊予の浄瑠璃と認めてよいものである。

 宇佐美淡斎

 淡斎の書いた浄瑠璃に『出世奴孫子軍配』と『鎌倉山星月夜』がある。後者は残念ながら江戸藩邸の火事で焼失したが、前者は孫の正篤の写していたものが残った。これを母方の曽孫に当たる内藤鳴雪が「宇佐美淡斎小伝」とともに雑誌「日本及日本人」大正六年正月号に紹介した(資725~768)。
 淡斎は俳人でもあった幾杯の嫡子として寛延二年(一七四九)の生まれ。名は正平、字は子衡、俗称源兵衛、漢学を松山藩の儒者丹波南陵、詩文を円光寺の僧明月に学び、古学を好み、老荘にも通じた。その人物・逸話は、『却睡草』(資717~723)、『松山叢談』第一〇中、鳴雪の「小伝」に詳しい。それによると、淡斎は藩の蔵本二十一史を読破し、詩作を好みその数は数十万に及んだという。詩集五篇あり、一篇五冊宛あってそれを一つの箱に入れ、蓋に肖像画を貼り、おのれ亡きあとはこれを位牌にせよと言っていた。『淡斎漫筆』『南北遺稿』の著もあったが、詩集ともども伝存しない。三津浜、松山町奉行を勤めて奇行が多かったが、聖人の道をもって治めた。
 淡斎が詩作にふけり、浄瑠璃までを書いた心情は『却睡草』が語っている。淡斎は「諸国の町奉行に豪傑多し」としてその例を上げ、「元、町奉行は支配違いの事故御上へ障らず、夫故に器量有る者を捨処也。右二人なども皆学者にて、一通ならずまがる故に捨てられし也。我等も少し学問せし故に少し才覚有る様に見ゆる故、人に忌み悪まれたり。されど悪事もせぬ故せん方なく町奉行に仕たり。さる故に町奉行役になれば、士の流し者に逢ひたる也。最早仕様もなければ、養老の式など行ふて奇妙の事しておどける也。」と言っているが、ここに淡斎の置かれている状況がよく語られている。才能あり学識のある者が、その能力を正当に認められないばかりか、かえって疎外され、適当に閑職に追いやられる。そうした誰にも理解されない疎外感、孤独感が文学を生む土壌である。淡斎の言う「養老の式」とは八〇歳以上の老人を集め、酒肴をもてなし、盃を与えて、敬老の風を高めたことをいうが、しかしこれも淡斎にしてみれば、奇妙の行いであり、おどけたことで、自嘲すべきことであった。外の見る目と自分の内心は遠く隔っていた。淡斎が作詩にうちこみ、「一日半時も詩を考えざる事なし。我詩は拙くとも甚だ達者にて速かに成る也」と言い、その詩集を位牌とまで考えたのは、詩によって疎外された自己を回復しようとしたからにほかならない。自己を真に表出する場は詩にしかなかったのである。
 この淡斎が余技として書き残しだのが浄瑠璃であった。「先生殊の外芝居浄るりを好めり。三津は浄るり流行処故、先生いつも聞きに行かるる也。故に浄るりある時は必ず、まづ先生の棧敷を設け置く事也とぞ。」とは三津浜奉行時代の行状である。また松前にも芝居見物に行った話もある。このように淡斎は浄瑠璃を好んだばかりでなく、鳴雪によると、その家には数十冊の浄瑠璃丸本が残っており、それはもとあった半分にすぎないもので、「とかくこの丸本は非常に沢山であっ」たそうである。地方の浄瑠璃会で語られ、上演される作品は、これら丸本の「さわり」に当たる一部分のみであろうから、通しで見る機会は殆どなかったであろう。それだけに作品全体の筋や構想を知るには丸本によらなければならない。淡斎は芝居による実地と読書による知識と、その両方に通じていたことになる。「想」さえ得れば、いつでも書ける素地はできていたと思われる。
 また浄瑠璃は庶民の慰み物であり、「情」を基としていて、学問の理とはしばしば背反するが、この点も淡斎はよく人情に通じていた。『却睡草』の著者も「能く人情、時務に通じ」と評し、淡斎みずからも、若者をそしる老人を昔の規準でものを言うもので「人情時勢を知らぬ也」と笑い、「又、人情時勢に通ぜぬものは、何程学問しても役に立たず(中略)才量有る人の学問して人情、時勢を知らば、政を施可ものと成るべし。」と言っている。人情を説いた古学派らしい考え方である。三津浜奉行の時、袴も着ず煙草盆を持たせて町を廻ったが、それを咎められると、町人の町を廻るに袴などはおこがまし、煙草盆は火の用心になると言った。かくさばけて下情に通じていたのである。淡斎は学問と人情の一致を求めたが、人情は人物の情を描く上で必要であったし、学問はその勧善懲悪の仕組みとなってあらわれている。浄瑠璃は淡斎にとって詩作ほどに精魂をこめたものではなかったが、書かれるべくして書かれたものであるといえよう。

 出世奴孫子軍配

 この作品は江戸在勤時に書かれた。作中にみえる歌舞伎役者山下金作が寛政一一年に没しているので、それ以前、淡斎の四〇歳代中頃に書かれたものであろう。
 本作は九段からなる時代物である。「出世奴」とは太閤秀吉のことで、その出世の物語を扱う。第一 足利室町御所 永禄八年将軍義輝に三好長慶、松永岩成ら甘言を弄し、奢りをすすめ、義輝の心をかける九条の傾城花橘を御所に呼び入れる。雄田延仲(信長)参上し、義輝に諌言、義輝怒って謹慎を命じる。
 いわゆる「大序」の幕明の場である。大序は宮中や御所などの場が設定されるのが普通で、帝や将軍の前に臣下の者が威儀を正しての幕明となる。ここではそれがすぐくずれて花橘の登場となる。義輝の放埓、延仲の帰国によって、冒頭から三好・松永の謀反による乱れが予想されるものとなっている。第二 京四条河原(茶屋前)義輝妹秀姫、祇園に代参、途中腰元頭浪の戸と御供の斯波義高との恋をとりもつ。(橋上)見通法印という占師来りて卦を見る。そこへ念仏飴の飴売面白く歌いながら飴を売る。その顔を見て法印、秘伝の書を川に投げる。飴売りに天下を取る相あるはずなし、わが法破れたりと言う。飴売り喜び、お礼にと南鐐銀一片を与えて立ち去る。
 二段目は仕込み(伏線)の場で、特に見通法印と飴売りの思わせぶりな出合いと南鐐銀を与えての別れは、以後に謎を残す。義高・浪の戸の恋の逢瀬の色めいた場面もあって、楽しませる場もある。固い学者に似合わず、腰元どものきわどい話に巧みさを見せ、芝居通らしく役者の名をあげて興をそそっている。第三 室町新御殿 義輝、花橘と遊興、三好、松永ら謀反の談合、それぞれの恋(花橘・秀姫)も叶えんと言う。飴売り来て商うを秀姫出て休息させる。松永、飴売を侍に召抱え此下東吉と名のらせ、秀姫との恋の媒を頼むが、秀姫は東吉に一目ぼれ。その後へ花橘出て、三好らの謀反を知るが、恋も叶わぬとあって三好は花橘を斬る。三好は義輝をも討ち、謀反の旗上げ。義高・浪の戸奮戦討死。東吉は秀姫を連れて落ちる。
 人相ただならぬ飴売りが秀吉となる人物であることを明かす。飴売りとなって歌をうたい、口上を言うのは、歌舞伎のやつし事の芸にならったものであろう。今は身を飴売りとやつしていても、いつか花咲くわけである。女にもてるので松永に召抱えられ、恋をとりもつどころか、秀姫と契りを結ぶのは奇想ではあるが、不自然の感はまぬかれない。ただこれが六段目への伏線となっている。この段の中心は謀反と修羅(戦い)にあるが、花橘を単なる遊女ではなく、義理ある女にして、凄絶な最期を遂げさせているのが印象的である。第四 道行連理の草枕 東吉が秀姫を連れての熱田までの道行。東海道の地名を織りこみながら、二人の恋の心を語る。東吉は、素姓は賤しいながら大志ある心のうちを語って秀姫を元気づける。道行は一曲中の聞かせどころ、見せどころ、普通はもっと後に置かれるが、構想上早く出したのであろう。第五 熱田神宮前 海道のあばれ者西の十郎、東の虎の二人、松永に頼まれ、秀姫を奪わんとして、逆に東吉に組みしかれる。松永いかって斬り込むと、東吉はなだめて明晩自分が媒をして秀姫を渡そうと約束する。二人のあばれ者、東吉に感じて家来となり、小西行長、加藤虎之助と名のる。
 五段目は、道行に続いて、次段へのつなぎの段である。東吉に妻子ありとわかって秀姫の悩み、松永との約束が次段で一挙に解決される。二人のあばれ者が秀吉の臣となるきっかけも面白い趣向である。第六 中村の東吉住家 妻のお竹一子久次郎と、東吉を待つ。東吉帰って秀姫をかくまいの姫と偽る。隣のお福が東吉を誘うを利用して、松永にお福を姫と偽って闇中駕籠に乗せて渡す。そこへ見通法印実は武智十兵衛満秀、延仲の使者として東吉に仕官をすすめる。お竹は自害して秀姫を夫にとりもち、久次郎を託す。
 六段目は東吉とお竹、秀姫の三角関係を解かねばならないが、お竹の自害で終わる。秀姫との関係を知り、東吉にさげすまれたことを恨み、夫の出世のために身を引くのである。孤閏を守ってきた貞淑なお竹だけに哀れであるが、自害に至る動機があまりに単純で、唐突な感はまぬかれない。そのために愁嘆が十分に生きてこないうらみがある。「義理に命を捨るのは、かうした物といふ事を、世上の人の戒に、思ひ切って死にまする」というのは「世の風俗を風錬せしにや」(却睡草)に当たるのであろうが、お竹の情に基づいたというよりも、学者の理によった作意が出ている。お竹の嫉妬や未練の情との葛藤の上にそれを描くべきであったろう。第七 清須城内 かくまっている慶覚(義輝弟)の首要求の命。東吉は延仲に目見えに参上、女房たちを使って陣立を披露、深江局戯れて従わぬを、その首を斬り大軍を動かす法を見せる。延仲御台几張前、一子延高とお通の仲を話せば、延仲、お通は京都在勤時に産ませた娘と言う。立ち聞きした二人は畜生夫婦となったことを恥じ自害。延仲は延高を慶覚の身代りに立てるための嘘であったと明かす。慶覚かくて還俗。
 七段目、東吉の女房を使っての陣立がこの作品の題名の出所である。女官長を斬って軍の統率法を示すのは、『史記』孫子列伝にある。三味線を使ってのにぎやかな場面であるが、その中に残酷な趣向を織りまぜている。武士の斬り捨てにも反対し「人命なれば卒尓の事有るべからず」と言っていた淡斎も、浄瑠璃では技巧に走ったあまり、日頃のこの信念を忘れたかのようである。次の身代りは当時の浄瑠璃に多用された趣向であるが、ここは恋仲の二人を畜生夫婦とだまして自害させる手のこんだやり方である。その後の愁嘆はよくできている。第八 室町御所 延仲、慶覚の首持参、見知りの女房首実検。安心した三好が宝剣の所持をあかすを、延仲これを奪い、慶覚と延高の取り替え子の次第を明かす。先の女房も入りこませていた森蘭丸であった。延仲、天下奪取の野望の遠謀の実現を喜び、東吉に義輝妹秀姫を側室に出すよう命じる。
 八段目は、大序・七段目で忠臣と思わせていた延仲が、実は天下をねらう悪人の本性をあらわすどんでん返しの場である。取り替え子の趣向は普通忠臣が殿の手を救うためのものが多いが、わが野望のためにするのは『本朝二十四孝』の影響もあろうか。延高・お通は畜生夫婦とこれで二重に無駄死をしたことになる。第九(1)津島社頭 新羅王明智斎、百済に国を奪われ、日本に逃れ百姓となる。一子はあばれ者故に勘当。娘を養う。浪人これを知って明智斎を殺し、印璽を奪い、来かかった弥宜も殺す。娘には犯人は弥宜、敵は自分が討ったと偽り、夫婦となる。(以上夢中劇)(2)本能寺 延仲、満秀以上の夢を同時に見る。満秀実は明智斎の一子。几張前と兄妹の名のり、父の敵をねらう兄に几張前は身代わりとなって討たれる。満秀は秀姫とともに延仲を討ち、自害して、東吉に父の望みであった朝鮮征伐を託し、かつての南鐐銀を返す。
 九段目は二場に分かれ、第一場は夢中劇である。延仲を悪人とした前段に続いて、その過去の悪業をも暴き出す。そして満秀の父の敵が延仲であるとして本能寺にうまくつないでいる。さらに秀吉の朝鮮征伐へと展開させている。几帳前の身代りは盛遠と袈裟の趣向であるが、葛藤の心の描写が不十分である。
 この作品は以上みたように史実からすれば荒唐無稽な筋立や趣向を用いているのが特色である。それは史実に対する解釈の域を越えており、むしろそうしたとんでもない筋の展開の意外性に面白さを求めている。そこに淡斎の自由奔放な思い付きや空想力がみられるが、その趣向は案外に既成のものを使っているのである。
 本作に最も大きな影響を与えているのは、近松の時代物『津国女夫池』(享保六年・竹本座上演)である。三好長慶が義輝に奢りをすすめ、傾城を御所に入れること、畜生夫婦と誤解すること、敵同志が夫婦となることなどが『津国女夫池』からのヒントである。斯波義高・浪の戸の恋も冷泉造酒之進と清瀧の恋をうつしたものとみてよいであろう。また近松作『本朝三国志』(享保四年・竹本座上演)の、小野お通が春忠に仕えて子を生むこと、小西行長があばれ者で加藤清正に推挙されることなどの影響もみられる。身代わりなどは、その手は古い古いなどと言われながら、それでも多用された趣向で、こうした既成の趣向を様々に組み合わせているのである。
 このように本作は技巧的に爛熟した時代の傾向を持っているが、浄瑠璃史からみれば、その最盛期を過ぎて、明和二年に豊竹座、同四年に竹本座が退転し、以後は作品の上でも前の作を解釈し直し、焼き直していく衰退期に入った。本作もそうした傾向の作品であることは否めず、延仲を悪人とした冴えをみせているにもかかわらず、近松のように人間の情を掘り下げて悪の悲劇を描いていくまでには至らなかった。勧善懲悪の衣を着せるのが精一杯のところであった。深い思索と疎外感を持っていた淡斎も、手慰みの浄瑠璃ではそれを十分に生かしていくことはできなかったようである。文章などはさすがに手馴れていて巧みである。
 次にこの作品が実際に上演されたかどうかという問題である。『却睡草』には「大阪、江戸の作者などにみせられたりしに、其才に驚けり。此時其本へふしを付けさせられたり。」とある。これによれば語ることのできるように節付けされたのは確かなようであるが、おそらく上演まではされなかったとみてよい。上演されたら、丸本が出版されていたはずである。しかし節付けされたということは、詞章が浄瑠璃のリズムに合っていたことを示すものであるし、また舞台にかけて特に支障をきたすような点は見当たらない。事情はわからないが、本作が大阪あるいは江戸の勾欄にかけられなかったのは、惜しまれてならない。

 宇和島天神記

 宇和島の和霊神社祭神山家清兵衛事件を脚色した作品で、淡路人形座の演目にある。新見貫次『淡路の人形芝居』によると、中村久太夫座が安政四年(一八五七)に上演したのが最も古い記録で、その他の座も宇和島巡業の際には必ずこれを上演したという。徳島の人形座もこれを上演したという話もある。作者は不明であるが、実録物の『二名島霊神譚女天神記』『予州神霊記』(第四節参照)あたりから脚色したもののようである。なお伊予の人形座にはこの作品は伝えられていない。
 作品の構成は一二段一二幕で、梗概を記すと、鎌倉在勤出立の遠江守晴之公は清兵衛に若君春若を託すが、清兵衛は若君の乳母瀧野の夫越智武右衛門を推す。大橋右膳は軍師曽我長太夫らを集めて謀反の談合。殿から利根川改修費用五万七千両を届けよとの手紙に、清兵衛・武右衛門が役に当たる。大谷が浦の宿で清兵衛は浜へ連れ去られ蚊帳で簀巻にされ海に沈められ、三ツが浦浜へ帰った武右衛門は落とし穴で捕えられ、御用金は奪われる。一味はさらに瀧野を捕えようとするが、わが子武三郎を身代りにして若君を連れて姿を隠す。牢に繋がれた武右衛門は拷問されるが、瀧野が現れ夫を助けて逃げる。清水寺の近辺に清兵衛妻初音は姑と一子清之助と隠れ住んでいる。清兵衛の奴胴助が来て、清兵衛の死を告げる。殿には清兵衛の亡霊が現れていきさつを語る。初音と老母は美濃国養老の瀧に行き、敵を討つべく願をかける。満願の日、胴助や武右衛門が来て、時節を待つと話す。大橋の家来が襲うが、これを捕えると、殿の帰国時、海賊を装っての暗殺計画を白状する。霊雲寺で殿の暗殺計画や金の配分を密談している折、にわかに荒れて棟木が落ち、長太夫ら一味はひしがれて死ぬ。和霊神社に清兵衛は正二位和霊大明神として祭られ、清之助は跡目を継ぎ、胴助は三百石を与えられ、敵討を許される。清之助は養老の願かけの力によって、右膳を簡単に討ち取って大団円となる。
 浄瑠璃の構想では謀反物に仕組んであるが、主君にまで危害の及ぶことはなく、忠臣の清兵衛が犠牲になる。清兵衛の死によってその家族や武右衛門らが流浪しながら若君を守っていく物語となっている。瀧野が一子を身代りに立てるところはあるが、殺されてはおらず、浄瑠璃特有の愁嘆の場がない。苦難の物語ではあるが、最終的には清兵衛の霊神や瀧にての願かけによって解決される。清兵衛の霊威を語るとともに、浄瑠璃らしい義理と人情の悲劇に仕立てる趣向もあってよかった。史実・伝承からはかなり離れてきており、清兵衛が主人公になっていないので、清兵衛の霊威も形式的なものになりつつあるのは、けだしやむをえぬところであろう。

 宇和島騒動

 ついでに歌舞伎にもふれておく。明治六年大阪筑後芝居で、勝能進・勝諺蔵合作『君臣船浪宇和島』が上演されたのが最初。同二二年には千歳座で『晴行天浪宇和島』が上演され、その後も『神霊宇和島物語』『神霊宇和島実記』などの外題で度々上演された。総称して『宇和島騒動』という。最近では『君臣船浪宇和島・宇和島騒動』が昭和五三年一一月二二日より大阪道頓堀中座で上演され、それがテレビ愛媛開局十周年記念特別番組として五四年七月二一日に放映された。市川猿之助・鷹治郎・段四郎などが出演した。
 歌舞伎も浄瑠璃とほぼ同じ構想であるが、謀反には側室お辰がわが子を主君に立てるために右膳と通じるという、歌舞伎らしいお家騒動物に仕組んである。瀧乃は大屈山で若君を養うが、山姥の趣向を取り入れている。また清兵衛妹刈屋、武右衛門弟伊予之丞を恋仲として、碓氷の矢の根紛失の科で流浪させて、この事件にからませている。四幕目の世話場では、胴助に初音を養わせ、金をめぐっての胴助の苦心、そのため身を売る初音、しかもその金を流してしまい自害する老母の悲劇を、悪党の源五郎をまぜて仕組んでいて、見所がある。清之助を源五郎に奪われた時、胴助は養老の瀧に入り、腹を切り腸をつかんで天に投げて祈る。その念力で源五郎は引き寄せられ、矢の根も浮かび上がる。五幕目、主君の毒殺をはかろうとする計画を告げるのは清兵衛の亡霊である。
 全体的な構想は浄瑠璃に拠りながら、部分的には歌舞伎的な趣向で見せ場を作っている。主人公を家来の胴助にしたのも古くからの歌舞伎の手法で、流浪する主君の家族を助けて活躍する。ただ清兵衛はここでも脇役であり、亡霊以外に存在意義が与えられていないのは、早く忠臣の死を迎えるこの事件の特色によるのであろう。