データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

三 日記

 平安朝の女流の自伝的なかな日記に対して、男性のそれは漢文で日々のできごとや体験を記録したものであって、その中に感懐・思索をまじえている。伊予の日記もほとんどはこの後者を受け継ぐ学者・文人の日記である。ただ藩や寺社等で書かれた公的記録としての日記は扱わない。

 近藤篤山

 明和三年(一七六六)一一月九日宇摩郡小林村西条(現土居町)に生まれた。幼名は大八郎・新九郎、長じて高太郎。名は春崧。号は竹馬・駿甫・勿斎・尋芳堂・白茅亭。昌平黌に入り、尾藤二洲に師事。業成って帰郷、小松藩儒官となる。また私塾挹蒼亭・緑竹舎を開設して子弟を誘掖、「伊予聖人」と称せられた。弘化三年(一八四六)三月二六日没した。
〈篤山日誌〉一七冊。文化一〇年(一八一三)から弘化三年(一八四六)までの漢文記録日記。喜怒哀楽の情などを記述せず、日々の行事を簡潔明快に記録した日記である。一例として陽明学者池田草庵が但馬からはるばる訪ねて来た日の記述を掲げよう。

  弘化二年八月十三日晴午後陰暖 但馬養父郡宿南村人池田禎蔵(草庵本名)者介于真助乞見
  弘化二年八月十四日雨終日陰 八時池田禎蔵来見 僅森之助門人安積儀一郎陪従

 時に篤山は八〇歳、草庵三三歳。草庵の「近藤翁記謁」によれば、篤山は陸王の学を排撃論難して止まずとある。情意をまじえて記述に委曲を尽くすなど朱子学を信じて動ぜぬ篤山は忌み嫌ったのであろう。
 『篤山日誌』は、篤山をめぐる県内外の門弟・学友らの動静を窺い、「徳行天下第一」と仰がれる篤山の学問と人格が県下全域に及ぼした影響を知る重要日記である。

 尾埼星山

 文政九年(一八二六)七月二八日宇摩郡関川村北野(現土居町)里正尾埼芳蔵末子として生まれた。本名は義正。字は士弘。通称は三郎左衛門。号は山人・樵蔵・抑々斎。真木愷三郎と自称した。西条の矢野翠竹、小松の近藤篤山・同南海に師事。後、大阪に上り、篠崎小竹の女婿後藤松陰につき、更に江戸に出て、昌平黌・麹溪書院に学ぶ。また水戸徳川斉昭の侍講鶴峰戊申に国学を習い、松江の金森建策に洋学を学ぶ。ついで安井息軒、佐藤一斎らの教えを受け、和漢洋の学を修めた。尊皇壌夷論を唱え、沢宣嘉らを庇護して国事に奔走したが、後、帰郷、西条藩儒官となり、維新後は、西条藩学々頭兼参政、文武館総督。廃藩置県後、学区取締に任じ、明治九年、三齢学舎を開設、子弟の教育にあたった。晩年、古銭の収集、研究を楽しんだが、明治三六年(一九〇三)九月一一日没した。
〈星山尾埼山人日記〉三巻。嘉永六年(一八五三)五月一日から明治三五年七月三〇日までの日記を昭和五〇年五月二〇日嫡孫尾埼弘氏が三巻にまとめ編さんしたもの。(但し、文久元年~明治二年欠。三木左三らと国事に奔走中暇なきためか。)
 日記は漢文体で簡潔に記述している。一例を掲げよう。

  安政二年十月二日晴 小川介之丞入麹溪書院 余往周旋焉 夜初更後帰
    将二更前地大震 走出戸 輾転数四 屋瓦壁尽落 小川町下町辺大起大延焼 以地震無救者故也 此夜
    露坐徹暁 老曰 嗚呼 実天地之大変也 可不曜哉 一首を詠じて去
     土の坼け山の崩るる災ひは 異人寄する咎なるべし

 星山日記は、明治維新前後の動乱の世情と、それに対処してゆく星山の姿を明瞭に窺うことができる。

 武田成章

 文政一〇年(一八二七)九月一五日大洲生まれ。通称は斐三郎・斐。号は竹塘・裁之。本名は成章。山田東海・常磐井厳戈らに師事。後、大阪の緒方洪庵の門に入り、更に江戸に出て伊東玄朴に従い、傍ら英仏学を修めた。安政元年(一八五四)幕府に任用され、ロシア船取扱役・箱(函)館奉行諸術調所教授に任じ、各地を測量、五稜郭を築いた。
 維新後陸軍大佐となる。明治一三年一月二八日没した。
〈黒龍江誌〉文久元年(一八六一)四月二八日朝五時三〇分箱館発、同年八月九日午前一一時箱館帰着までの黒龍江方面見聞調査日記である。調査団一行が調査船「亀田丸」に乗り組み、航海術の訓練を兼ねて、黒龍江に至るまでの地域、黒龍江方面各地の形勢、交易の状況等を具に調査した日録である。航海中の日々の船中の模様、各乗組員の職務遂行状態、気象状況等が克明に記録されている紀行日記である。

 克  譲

 天明七年(一七八七)松山正覚寺僧乗信の二男として生まれた。幼名は恵忠。字は大痴。号は二洲・頑石・石室・道楽山人。初め杉山熊台に師事、後、石見・京都に出て仏道修行。生涯住所を定めず、諸国を巡錫、仏道を説く傍ら和歌・俳句・漢詩を創作し、書画骨董を楽しんだ。紫人撰『俳諧四国集』に伊予俳人として句が記録されるほどであった。また、奇石収集家としても著名であった。
 元治二年(一八六五)一月一日中島正賢寺で没した。
〈石室日記鈔〉四冊五四巻。文政元年(一八一八)から文久二年(一八六二)までの諸国巡錫行脚日記で詩歌も多く記録されている。冒頭を掲げよう。
             
  巻一 文政紀元戊寅 石見    至丙辰三十九年(安政三年)     至文久二壬戌四十五年
  夏五月念一 随阿母発家   宿正賢寺
     発松藩趣三津途中
  郷園随母発 遠去予章城 更不労作橘 自懐橘弟情
    〃   四日奉謁鵬鳴大和上 ○六月十五日紀肥後木葉村称念寺主堕袱事 ○七月十六日和上の命に応じて仏生山真影の記和文に物す 八月十日大高坂竹石鵞石の記
    ㊟① 後漢の陸績が幼少の時袁術にまみえ、母におくろうとして饗応の橘を懐に入れた故事。
     ② 大高坂南海のこと。天山・竹石と号す。文政元年作「天造筆研記」亀石等の長詩を指す。

 三輪田米山

 文政四年(一八二一)一月一〇日久米日尾八幡神社宮司家に生まれた。幼名は秀雄。本名は常貞。号は清門・子廉・得正軒。河内守を称した。日下伯厳に書を学び、明月の筆法を独習、後、深く王義之を学び独得の書風を体得、多くの優れた書を遺した。明治四一年一一月三日没した。
〈三輪田日記〉弘化三年(一八四六)より明治三四年(一九〇一)間の和文日記。一二一冊。米山及び家族の動静、明治維新前後の社会情勢等が克明に記されており、当時の状況を知る重要記録である。一例を掲げよう。

  弘化三年元旦 旧例之通日尾社於中座奉幣 天下泰平祈念
  〃 二月三日 ①浪江 鷲野蕗太郎方へ年始 (注①弟高房)
  〃 二月十日 ②綱丸 謡稽古始      (注②弟元綱)
    二月十三日乃万次郎右衛門方へ返之
    後藤点論語 孟子・蒙求 国字解 和漢名筆本都合十八冊
  嘉永六年六月○江戸より盆頃書状差越 蛮船三日来 二百三百鎧の袖を連ね 炎天に冑星を輝かし 馳せちがふ様 すさまじき事也し由 将軍にも甚御恐有之 名に高き執政の阿部侯も蛮夷には甚御恐有之 震ひ声の小声にて御評議 有之 甚不評 且諸大名不機嫌の由(巻十七、六月末尾付記)

 三輪田元綱

 文政一一年(一八二八)六月二一日久米日尾八幡神社宮司家に生まれた。米山季弟。幼名は綱丸・綱麿、長じて綱一郎といった。田内董史・常磐井厳戈らに国学を学び、ついで大国隆正・平田篤胤・同銕胤に師事した。文久三年(一八六三)足利三代の木像の首を三条河原に曝したのは著名。
 明治一二年(一八七九)一月四日没した。
〈三輪田元綱要集〉元綱の著作「元孝への遺言」・「獄中述懐」・「蓬仙日記」・「葛農舎集」四部を大正六年に合わせて編さんしたもの。「蓬仙日記」は安政六年(一八五九)から万延元年(一八六〇)間の日録で、当時の社会状勢、元綱の動静、近藤芳樹らとの交友等詳細に知ることができる。

 山田常典

 山田常典の書いた「嘉永日記」は、嘉永七年(一八五四)一月一〇日米国使節ペリー再度浦賀に来航してより同年三月九日までの間の日米両国人の動静・民情・感懐を詳述した記録日記である。見返えしに「渡津海の霞の隙をほの洩れて見ゆることなる異国の船」の歌を掲げ、次に米国船七隻の絵図、次に「廿三日かの船をすべ司るペルリといへるが艀にてものせしといふ書」を齎すと記し「鮑厦旦坐駕船逓被理書状」の漢訳を載せている。続いて船名・主要人名・兵数・献上物・交渉経過・民情等を述べ「この夢語をみて」と題し 「沖つ波隔たる国の舟人を間近く見つる夢の侈さ」と結ぶ二か月の詳細な日録である。

 その他の日記

 伊予各地には個性豊かな優れた日記を書き遺した人は多い。前掲のほかに注目すべき日記と思われるものを若干掲げよう。
 三上是庵の嘉永五年~安政六年までの『燕巣日記』、鷲野南村(一八〇五~一八七七)の弘化三年『鷲氏日乗』、陶惟貞(一七九九~一八七三)の文政一二年から嘉永六年までの『半窓日記抄』は記録覚書日記である。伊達宗城(一八一八~一八九二)の『予州日記』(五冊)も文久二年から慶応三年まで若干の和歌を含むが、大名家記録である。武田敬孝(一八二〇~一八八六)文久二年の錦綱舎への『登黌日録』、慶応二年芸州へ使いした際の『使芸日記』、同年長崎へ使した『北遊日記』翌三年土佐へ使した『小東遊日記』等も興味深い。大山為起(一六五一~一七一三)の『味酒日記』は元禄一三年から宝永四年までの記録で「味酒神社造営日記」・「大山佐兵衛らの日本紀竟宴和歌漢詩」・「太守参拝記・祈祷」・「味酒講記目録」・『地震』を収集した神社記銀である。兵頭守貫(一七四一~一八一七)、矢野道正(一七九五~一八五四)らの日記も同類といえよう。常磐井厳戈(一八一九~一八六三)の『都路乃日記』は天保九年(一八三八)二月二一日肱川を下って京都に上り、有栖川宮家・吉田・正親町・玉木の各家を訪問、四月六日帰郷するまでの日記であり、嘉永三年(一八五〇)の『庚戌日記』も家に帰りついて「旅衣月日を越えて今日は又事なふかかる古里の雲」と安堵の情を述べた紀行日記である。郡中玉井惟友の宝暦一二年(一七六二)八月四日から一〇月二七日に至る紙販売の『上阪日記』、豊川渉の『いろは丸航海日記』、近藤平格(一八〇〇~一八六八)の心学修行及び講話の『江戸日記』、丹下光亮(一八二一~一八七八)の心学講話『順邑記』、長野祐憲(一七八五~一八四三)の『道後入湯日記』等も注目すべき紀行日記である。
 寺院記録日記にも優れたものが多い。『常楽寺日記』は、修験諸山の「触頭」で、寛文より安政に至る「諸山伏中へ可被申掟」・「願書」・「口上」・「覚」を日録的に正確に写している。宇和島金剛山大隆寺晦巌(一七九八~一八七二)の『晦巌日記』(四七巻)は特別価値が高く、興居島の堀内匡平(一八二四~一八八三)の学問研鑽・御陵参拝等の日記も興味深い。