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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

四 教訓物

 近世は、文化が町人・庶民にまで広がっていく時代であり、彼等を対象とした、平易なひらがな書きの教訓書が多く書かれた。名をなした学者にもこうした啓蒙的著作がみられる。教訓そのものは教育・思想に属するが、その中に人間性や人間の心にふれるところがあるので、ここに取り上げることにする。

 中江藤樹

 慶長一三年(一六〇八)三月七日近江小川村(現安曇川町)に生まれた。通称は与右衛門。諱は原。字は惟命。号は黙軒・顧軒・天君。元和三年(一六一七)祖父と共に大洲に来る。元和八年家禄を嗣ぎ、寛永三年(一六二六)郡奉行に抜擢さる。このころより学、日に月に進み、初学者のために『大学啓蒙』を著わし、次第に朱子学の格套を破る。寛永一一年(一六三四)藩老佃氏に書簡をのこして脱藩、近江に帰った。正保元年(一六四四)『陽明全書』を入手、読破して開眼、日本陽明学の祖となり、「近江聖人」と仰がれた。慶安元年(一六四八)八月二五日没した。
〈翁問答〉二巻。寛永一八年(一六四一)「予陽ノ同志ノ求メニ依テ」(跋)著わした。「天君」と「体充」の問答形式により、孝を中心とする藤樹の道徳哲学を平易な仮名交り文で書いた啓蒙的な書である。陽明学の中心思想「致良知」の語はまだ見えず、従って陽明学を体系づけたものでなく、「拘攀ノ意ヲ放去シ、自ラ本心ヲ信ジテ其跡二泥マズ」、意を誠にして「全孝」の心法を具体的に述べたものである。「孝」を「太虚」即ち至高の徳、人間存在の根元と断じ、四書五経の心を師範として実践することこそ、我が「心学」と力説する。しかし、後に再三改訂を加えた経緯は中川謙叔の跋文に明らかである。
 〈鑑草〉六巻。正保四年(一六四七)著。刊行の動機は『藤樹先生年譜』、「池田氏に与ふる書簡」に明らかで「翁問答其意二叶ハズ」修正を期していた時「梓人ノ手ニモレテ既二梓ニチリバメシ」を知り、板を廃させた償として、日ごろ重要と考えていた「女中方ノ勧戒」のため板行したものである。
 巻一 「孝逆之報」・巻二「守節背夫報」・巻三「不嫉妬毒報」・巻四「教子報」・巻五「慈残報・仁虐報」・巻六「淑睦報・廉貪報」の六巻より成る。八箇の教訓毎に一般的訓戒を述べ、次に例話を挙げ、それに藤樹の評を加えている。例話は、『伊勢物語』・『大和物語』・『古今集』から若干とっているが、ほとんど明の顔茂猷の『廸吉録』、朝鮮李氏世宗一六年(一四三四)刊の『三綱行実』からとった。因果応報の理に基づき、女子の家庭内道徳を述べている。
 『翁問答』との甚だしい違いは、宗教観である。『翁問答』では、「世教ノ妨」と仏教を激しく非難したが、『鑑草』では、「明徳仏性ノ修行即チ後生仏果ヲ得ル修行ナリ」といい、「之ヲ学ブモ。可也」。と儒仏共に同じ人間の修行の道としている。真摯な仏教信者である母への孝養心と格套に泥まぬ藤樹の学問の進展であろう。

 大高坂維佐

 万治三年(一六六〇)一一月一七日成瀬忠重の女として阿波高陵に生まれた。大高坂芝山に嫁し、貞享二年(一六八五)共に松山に来り、四代藩主定直夫人正心院に仕え、「才以聞兼学文墨嫺」と称された。元禄一二年(一六九九)九月一七日没した。
〈唐錦〉元禄七年(一六九四)稿。『古今集』(雑上読人しらず)「思ふどちまどゐせる夜は唐錦たたまく惜しき物にぞありける」から題名をとった。事情があって、板行は、寛政一二年(一八〇〇)である。(裔孫大高坂延年の序文によると「家伝宝為」として深く秘蔵していたとし、『欽慕録』では(或曰、某書事有、忌諱触、故其印行禁」としている。)内容は「女則」(五巻)・「装束抄」(一巻)・「姿見」(一巻)・「写絵」二巻)・「古教訓」(一巻)・「柳桜集」(四巻)計一三巻で、「温良は女の道の要」とし、日本・中国の古典・歴史・故事を引用し、和歌を入れて女子教育の在り方を示した。男女は陰陽、相互に敬愛すべきものとし、また、女子といえども「中」・「理気」等儒学の根本となる思想を学ぶことが婦道高揚の道とも教えている。他に『続女訓』(一〇巻)の著もある。

 岡 研水

 宇和島藩士。生没未詳。文化文政ころの人。諱は鼎信。通称は定太郎。京都に上り、伊藤東所の堀川塾で古学を学んだが、後、頼春水の門に入る。更に江戸に出て崎門三宅尚斎派服部栗斎につき、ついで昌平黌に入って尾藤二洲の薫陶を受け、朱子学の蘊奥をきわめた。帰藩後、藩学教授となり、昌平学派朱子学興隆の中核となった。
〈話児録〉子孫に遺すために書いた随筆風教訓書。序に「戯に題す」として「つれづれに日暮し硯取り出て由なき事を書き連ねばや」と詠じている。「由なき事」の裡に児孫への期待と願望をこめて著わしたものである。内容は、巻一(一〇話)・巻二(一〇話)・巻三(七話)・巻四(一三話)・巻五(一〇話)・続巻一(一一話)・続巻二(一二話)・続巻三(一一話)・続巻四(一三話)・続巻五(四話)計一〇一話で、平易な仮名交り文で見聞、体験等を述べている。

 近藤篤山

 〈忘れ草〉文政五年(一八二二)篤山五七歳の某日、学舎の講話を終えたあと、佩刀を持ち帰るのを忘れ「文事ある者は必ず武備あり、武備ある者は必ず文事ありと聞けり。今、子の書を講ずるも文事ありと言ふべし。しかるにその佩刀を忘れたまひしは、恐らくは武備なきものに似たり。いといぶかしくはべるなり。」とたしなめられ、「我、誠に過てり、過てり。」と迂闊さをわびつつ「身を忘れる」ことこそ一大事と教えた書である。忘れ物の最も甚だしいものは「自己」を忘れることで、醜い欲望を捨て「天下に敵なき仁者」となるための処世法を説いた短編教訓書である。
 〈古霊教諭講義〉天保一一年(一八四〇)九月、七四歳の篤山が百姓教育の教本として里正らに与えたもの。朱子が「あまたのことすべて説き尽くす」と感嘆した『小学』外篇嘉言第五「立教広」の最後の文章「古霊ノ陳先生仙居ノ令ト為リ」て住民に示した二〇項目を徳目別に平易に解説した書である。陳先生(一〇一九~一〇八〇)とは、字は述古、福州侯官の人。台州府属の古霊地区仙居の長官となり、儒教に基づく徳治の誉高かった人。篤山がそれにあやかるよう里正らに教えた書である。

 小沢種春

 寛政一二年(一八〇〇)九月一二日摂津今津生まれ。字は子敬。号は東陽。大阪懐徳書院に入り、中井竹山・同履軒に師事。また、京都公家で世々儒道を以て朝廷に奉仕する東坊城家に入って宋学を修め、正親町三条家の家士を務めた。和歌は歌道を以て朝仕する御子左家、権大納言冷泉為則に学んだ。暫く禁裡に奉仕したが、病を得て南宇和郡内海村の叔父小沢光義宅に寄宿、私塾を開いて子弟を教育した。明治四年(一八七一)二月三日没。頌徳墓碑は、西海町内泊にある。
〈教訓童草〉上下二巻。文政一〇年(一八二七)三月稿。
 著作の意図は序文に次の通りある。
  孟子日、五穀者種之美者也、苟熟為不□稗不如、夫方今儒家概乎世教不熟、徒五教之文称、以専彼邦之政談、則其道高雖、亦甚迂遠而反、雑学者流之乎世教飽熟不如、遍卑近之説収、以能、我国俗導、之捷径也

 上巻二五項、下巻二五項、計五〇項を挙げ、「名利嗜勿、富貴勿好、唯徳累要為」との信条に基づき、和歌を加え、挿絵を入れて平易な文章で徳目を解説した。

 その他

 三上是庵が慶応二年(一八六六)「幼な子が踏みはづすべき危ふさも無くて高きに登る梯」と詠じ、五常・四端・七情・五倫を説いた『幼学梯』、安政五年(一八五八)から翌六年までの講義記録『三上先生筆記』も優れた教訓書である。また松山藩士籾山資敬が子孫の奮起を期待して二二話を書き遺した『焼野の雑子』、吉田藩士伊尾喜鶴山著、二男沢田一三九編『鶴山遺訓』等も異色の家訓書である。
 大名家はどの藩にも家訓があった。西条藩五代藩主松平頼淳の『童子訓』、松山藩四代藩主松平定直の『小訓』、六代藩主松平定喬の『伊呂波禁戒』等はその代表である。