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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

三 大森彦七

 大森彦七は南北朝時代に活躍した伊予の武将で、名は盛長、生没年は明らかではない。一族を挙げて足利尊氏にくみし、細川定禅に従って延元元年(一三三六)の湊川の合戦に楠正成の軍を破り、尊氏から砥部・松前の庄を与えられた。『太平記』巻第二三「大森彦七事」には、暦応五年(一三四二)の金蓮寺の猿楽興行の時に鬼形となった正成に苦しめられる話があり、謡曲、浄瑠璃、歌舞伎などの芸能をはじめ、草双紙、俳諧、川柳などの好個の素材となった。(第三章参照)

 謡曲

 『太平記』の鬼女伝説を謡曲に仕立てたものに『大森彦七』があり、筋は殆ど同じである。正成を滅ぼした功績により恩賞を賜った大森彦七が、遊興のために田楽に行く途中美女に化けた正成の霊と格闘し、また、天下の転覆を謀る正成の霊鬼に襲われるが、名刀の威徳でこれを退散させる。ワキ彦七、前ジテ女、後ジテ正成の霊鬼。江戸時代初期の作と思われる。これに対して「大森正成」は、前者が鬼女伝説に材を得て五番目物(霊鬼物)の性格を持つのに対し、湊川の合戦に想を得た二番目物(修羅物)で夢幻能の形をとっている。別名を「大森楠」「追善楠」という。夫の追善のため湊川にさしかかった正成の妻の一行(ツレ)は、森あみだ仏と名をあらためて正成の菩提を弔っている大森彦七(ワキ)と会い、その案内で正成自刃の場にやって来る。彦七が踊り念仏をはじめると、澄み渡る夜空に甲冑姿の正成の亡霊(シテ)が現形して、後醍醐帝の召しに従って北条氏を滅ぼし、尊氏と戦ってついに湊川に戦死した次第を語り、回向を謝して消えていく。劇的な場面転換もあり、曲柄は割合にととのっている。室町末から江戸初期の間の作であろう。なお、貞享二年(一六八五)六月から一一月にかけて四国路を巡った大淀三千風は、その俳諧紀行『日本行脚文集』に、江原(荏原)の町を過ぎて彦七の古城に至り、自作の謡『彦七』の面影と少しも違わないことを偲んでいるが、この曲は伝わっていない。

 浄瑠璃・歌舞伎

 彦七を素材にした浄瑠璃には、はやく「大和守日記」に古浄瑠璃『大森彦七』の名があり、古靭文庫蔵『大森彦七盛長』も焼失して伝わっていない。彦七物の芸能で悪役彦七のイメージを確立し、後の文芸に影響を与えたのは、宝永七年(一七一〇)初演の近松門左衛門作『吉野都女楠』(資825~835)であろう。この作品は、『太平記』を素材として、正成の戦死から子息正行の旗揚げに及び、後醍醐帝が吉野に皇居を定められるまでの出来事を扱っているが、内容の中心は尊氏の臣小山田前司一家の悲劇にあり、敵役として彦七が深く関わっている。彦七登場の場面をまとめると、次のようになる。

 〔第一〕正成は出陣の途中、義貞の妻勾当の内侍が、宰相清忠のためにかねて横恋慕していた敵将大森彦七の許に、無態に送られるのを救い、桜井の宿で一子正行に別れを告げ、遺訓を授けて湊川に向かう。
  正成は湊川で奮戦の後、一族郎党と潔く自刃する。そこへ彦七が軍勢を引きつれて現われ、正成の首を討ち、抜かぬ太刀の功名を喜ぶ。
 〔第二〕義貞の情義に感激した小山田高家は、自ら義貞と名乗って彦七の手に討死し、義貞の危急を救う。
 〔第三〕尊氏は彦七が打った義貞の首を疑い、その実否を糺す。
 〔第五〕勾当の内侍が三種の神器を奉じ、高家の妻がその供をして吉野に向かう途中、宰相清忠がこれを奪おう とし、彦七もねらい寄るが、神器の霊験によって宰相は討たれ、彦七は宝剣に首を刺し貫かれる。

 また、かねて猿楽見物の折に彦七が勾当の内侍に懸想していたこと、湊川の合戦で彦七が正成と組打ちになり、危うく首打たれそうになったこと、彦七が勾当の内侍を背負って陣屋へ帰ろうとするが、あまりに重いので振り返って見ると、和田新発意源秀の仮装であったので、震えながら逃げ出したことなど、『太平記』の彦七説話を巧みに換骨奪胎して見事にパロディ化している。
 つぎに、文耕堂作、享保一八年(一七三三)初演の『車還合戦桜』は、湊川の合戦から六年後、坊門宰相清忠が謀反を企て、彦七の舅阿波入道を通して彦七を味方に引き入れ、また正成より依託の宝刀を奪おうとするが、尊氏は正成の遺児正行と協力して清忠を滅ぼすという筋で、その第四段の大森彦七佯狂の場が眼目になる。かねて正成の娘二葉の前と許嫁の仲であった彦七は、正成から後醍醐帝より拝領の宝刀を正行に渡すよう託されていたが、清忠に渡せと迫られる。そこで彦七は猿楽の場に向かう途中ひそかに刀を二葉の前に渡して、正成の怨霊に奪われようとしたと狂気を装い、舅の本心を見抜いてこれを倒す筋立てで、後の新歌舞伎一八番の一『大森彦七』(福地桜痴作、明治三〇年初演)の原拠となった。また、近松半二他作、明和二年(一七六五)初演の『蘭奢待新田系図』は、『太平記』に描かれた新田義貞の忠節を背景にして、小山田高家、勾当内侍、正成の後室、大森彦七、児島高徳、楠正行、大塔宮護良親王などに関する史実を適宜配したもので、彦七は四段に登場する。彦七は後家、実は正成の後室の娘お此と縁組を約していたが、お此は大塔宮と逃避行中の尊氏の娘織部姫の身代わりになって死に、彦七は鬼女の面を被せた大塔宮を娘と称して、後家に帰して和睦を説く役回りを与えられている。これらの作品では、彦七は情義に厚い武士に設定されているが、一面あまりに荒唐無稽な筋立てで、作品の興趣を殺いだことも否めない。
 一方、歌舞伎に彦七がはじめて取り上げられたのは、中村明石清三郎、市川団十郎作、元禄一〇年(一六九七)初演の『参会名護屋』であると思われる。これは足利義政の子春王の叔父正親町太宰之丞が、主家を横領しようとするお家騒動物であるが、彦七は舞台に登場しない。最後に太宰之丞が正成の精魂、名護屋山三郎は彦七の障碍であったとして雲中に現形するが、団十郎の演ずる不破伴左衛門、すなわち鍾馗の精霊の降魔の利剣に切り従えられるというところに、彦七説話が用いられている。その他、正徳三年(一七一三)には『女楠太平記』、延享二年(一七四五)には二世津打治兵衛他作の『おんな楠よそおい鑑』、翌三年には中村清三郎他作の『天下太平記』が演ぜられているが、作品が現存せず彦七の扱いは明らかではない。

 草双紙

 彦七は草双紙類にも多く取り上げられている。井原西鶴の浮世草子『西鶴織留』巻四の二「命に掛の乞所」に、はやらない医者が、彦七の絵馬の掛烏帽子の緒が書き落とされていることを指摘して評判を得たが、彦七の時代は髪にしのびの緒を付けていたことを知らされて恥をかくという内容で、役に立たぬ物知り、絵馬医者のいわれを語る段に出ている。また、明和五年(一七六八)刊の建部綾足作『西山物語』は綾足の代表的な読本であり、前年洛北一乗寺村で起こった妹斬殺事件、いわゆる源太騒動に取材して、大森彦七の末孫による悲恋物語に脚色し、自らの説くますらを精神を形象化したものである。源太騒動とは、渡辺源太という郷士が、隣家の同族渡辺団次の長男右内と源太の妹やゑとの婚姻問題のもつれから、団次邸内で妹を討ち果たした事件である。綾足は、源太、団次を大森彦七の末裔大森七郎と従弟大森八郎という武術にすぐれたますらをに設定し、宇須美とかへの純愛をはさんで七郎一家の運命の転変を描き出す。この七郎一家の運命を左右するものとして、大森家の祖先伝来の宝刀の崇りがからむ。この太刀は湊川の合戦の折に楠正成の血がついたもので、彦七が戦場から持ち帰ったところ、以後数々の変事が起こったので七代にわたって寺に奉納されていたが、七郎の手許に戻ったために七郎は出世の道を断たれ、貧窮の底に落ちたのであるという。八郎がかへの縁談を断ったのも占師の予見が凶と出たためであり、かへが七郎に首を打たれたのも、すべては正成の亡霊の崇りであった。この作品は題材を実事件に得て、古典的な情趣をただよわせた見事なロマン的世界を形成したのであるが、彦七伝来の宝剣奪取とその崇りという芝居めいた構成が作品を通俗化させたことも否めない。なお岩瀬文庫に綾足作の『大森物語』なる読本があるがこれは、天明六年桂庵周斎による『西山物語』の写本である。『西山物語』と同じ明和五年に刊行された富川房信画の黒本『鬼女物語』は別名を『大森彦七二葉ノ前鬼女物語』といい、浄瑠璃の『車還合戦桜』と同じく、坊門宰相の謀反を尊氏・正行が協力して滅ぼすまでを、正成の娘二葉の前の許嫁であった
彦七が正成に託された名刀を正行に渡すまでの苦心談を中心に描いている。また、作者不明の『大森彦七』という写本も残されているが、これは冒頭に宝剣の由来を付して『太平記』巻第二三の記述をそのまま引き写したものである。仮名草子の一形態とも考えられる。

 俳諧・川柳

 次に俳諧を見ると、正徳四年(一七一四)刊の里冬編俳諧撰集『七さみだれ』五に「こちらむく皀を見たれば二度びくり 胴骨すえて彦七が恋」とあり、享保一三年(一七二八)刊の越人編『庭竃集』に「大森彦七化生ヲ負ウ図 橘もこちらむく子に枳穀哉 芝響」と見えている。いずれも化生の女と対して動じない彦七の姿である。
 一方、川柳になるとその滑稽化は辛らつである。岡田三面子編『日本史伝川柳狂句』一五によって挙げておく。

 彦七も初手は業平気取也
 『伊勢物語』第六段で、業平は女を盗み出して芥川のほとりを背負って行くが、あばらなる蔵で女は鬼に食われてしまう。
 コレお半などゝ彦七初手ハしやれ
 歌舞伎『桂川連理柵』の、長右衛門がお半を背負って出る心中道行に擬した。
 ばけ物ハとかくゆふしにおぶつさり
 戻り橋の鬼女と渡辺綱伝説への連想。
 人をゑらんでばけものハおぶっさり
 戻り橋の鬼女と渡辺綱伝説への連想。
 拙者も似た事と惟茂へ彦七
 謡曲『紅葉狩』への連想。
 彦七の奥ハ当分里へ行キ
 美女再来を願って奥方を里に帰す意。
 三蔵と彦七般若背負てゐる
 三蔵法師は般若経を背負って帰り、彦七の背中の美女は般若になる。

 彦七が皃

 江戸時代になると、「彦七が皃」または「彦七が顔をする」という諺が生まれた。当時の百科事典である寺島良安の『和漢三才図会』(正徳二年序)によると、物事に動じない人をいうとある。『太平記』に鬼女に襲われた時に「某心飽マデ不敵ニシテ、力尋常ノ人ニ勝」れていたので泰然として退散させたと記される、彦七の剛勇ぶりをたたえたものである。当時の作品を見ると、まず寛永年間(一六二四~)烏丸光広作と伝えられる仮名草子『仁勢物語』の、夜毎に通って来る男のしわぶきを嫌って女が去ってしまう話に、「彦七が顔をするとも咳気故隠れぬ咳を今は止めてよ」とある。この話は生白堂行風の編で寛文五年(一六六五)刊の狂歌集『古今夷曲集』巻七にも出る。また、同じ行風編の狂歌集『後撰夷曲集』(寛文六年)巻七には「難面恋 なびかざる君と申さば楠の木の石よりかたき彦七が皃」「花厭風 彦七が皃して風に動ぜざる花もあれかし大森の木に」とある。彦七には西鶴も関心が強く、延宝三年(一六七五)の序を持つ俳諧『独吟一日千句』の第八には
  彦七が皃つきをする猫の声
   真葛葉分て大森の陰
  稲光すこし木深きやしろ也
とある。前者は「彦七が皃」から大森彦七を連想した付けで、意味は『夫木抄』巻二七源仲正の「真葛原下這ひ歩く野良描のなづけ難きは妹が心か」の歌によっている。後者は彦七が楠正成の亡霊に悩まされる場面によった付けであろう。天和元年(一六八一)刊の『大矢数』一の二にも

  けさの月富貴のさじき取れたり
   扇を置て彦七かかほ
  さく花に思日より有そうな

とある。前者は中央の桟敷に座を占めた彦七の悠然たる姿であり、後者は句会で他に先んじた得意げな表情の意であろう。一方、天和二年(一六八二)刊の浮世草子『好色一代男』になると、一代を好色に生きた主人公世之介の父親の夢介が遊女のもとに通う場面に「それも彦七が皃して、願くは咀ころされてもと通へば」と出る。異様な伊達風俗をして通う夢介の平然とした表情に隠された遊女への思い入れに、美女を背負った彦七の浮き立つ思いが重ねられてぃる。その他、貞享三年(一六八六)刊の無色軒三白居士の浮世草子『好色訓蒙図彙』には、血気さかんな色狂いはいかなる教誠も「いかなかな、彦七が顔して、伊勢嶋ぶしや、なげぶしにてぃらるゝ也」とあり、翌貞享四年の序を持つ三夕軒好若処士の浮世草子『男色十寸鏡』では、色道の情誼をわきまえない男を「彦七がかほしてゐらるゝ男」と評している。