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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

三 四国遍路案内書

 江戸期に入って世情が安定するとともに四国遍路は広まり、寛永一五年(一六三八)の空性法親王の四国霊場巡行、承応二年(一六五三)の澄禅の『四国遍路日記』の旅を経て、貞享四年(一六八七)には四国遍路二十数回に及んだと伝えられる真念の遍路案内記『四国遍路道指南』が刊行されて一般に普及していくことになる。次いで、元禄二年(一六八九)刊の寂本の『四国偏礼霊場記』、真念の『四国偏礼功徳記』(元禄三年)の刊行により、四国八十八か所巡拝は強固な庶民信仰として定着することになった。以後、江戸中期の『四国偏礼道指南増補大成』をはじめ、携帯用の簡略な案内記や心得、絵入り解説書など、多種多様な案内書の板行を見ることになる。

 四国遍路道指南

 延宝から天和(一六七三~八四)のころに四国を巡ること十数回に及んだ宥弁真念が貞享四年(一六八七)に遍路の利便のために書いた『四国遍路道指南』は、遍路に関して初めて刊行された著作として遍路の定着・普及に大きな力をなした。高野山奥の院の僧洪卓の序によれば、四国遍路は「多岐羊腸、行脚のきもをけし、杏に人家なくしては岩もる水に枕をかたむけ、遠く客舎を絶ては、山を帯雲をしとねとせられしまゝに、迷方をあはれむ心せちにして」遍路の案内記を編集したのであるという。その前書に「此道しるべの中には拝所ごとの外村つゝき旧跡并由来諺等を書載せたり」とあるように、八十八か所の札所名が現行の順番どおりに配列され、札所の地勢と本堂の向き、所在地名を記して、次に本尊の図様を掲げて、その立坐の別、本尊名、作者名を示し、御詠歌を載せる。更に、札所から札所への道案内として、経路の村落名と道の遠近、曲直、峠、坂道、山道、浜辺などの道路の態様、橋の有無や舟渡しの便、徒渉などの河海の案内、路次の堂屋(大師堂、薬師堂、地蔵堂など)、茶店、道標などを丹念に記している。遍路宿については各地の篤志の人名を掲げ、土地の雰囲気も記している。また、道筋に著名な伝説や由来譚も簡単に紹介しており、伊予関係では四〇番観自在寺の項に篠山の矢はづの池の中の怪異の石の伝承、四七番八坂寺の項にゑわら村の右衛門三良の塚のこと、五一番石手寺の項に湯月城、一遍上人の寺、道後の湯などの由来、伊予の湯桁の伝承などが記されている。作者宥弁真念の履歴はつまびらかではない。
 この『道指南』は四国遍路の最初の刊行物ということもあって版を重ね、改訂本、増補改訂版と見るべき多くの異本を生んでいる。元禄一〇年(一六九七)に出版された曳尾子(雲石堂寂本)編の『四国偏礼手鑑』もその一つである。これは真念の依頼によって寂本が『道指南』を改編、簡略化したもので、本尊の図様、詠歌、功徳譚、伝承、地名の由来、さし絵など道案内に関係のないものを省略し、部分的に加筆している。また、『道指南』を減丁した別版本をもとにして、明和四年(一七六七)前後から洪卓の『四国偏礼道指南増補大成』が出版されている。これは増補大成と銘うっているが、別版本をさらに減丁したもので、多くの改版本がある。さらに、『道指南』を携帯用に簡略なものにした文化一一年(一八一四)刊の『四国遍路御詠歌道案内』や、その異版『四国偏礼道案内』(刊年不明)、内題を「四国偏礼道指南増補大成」と銘うった『四国遍路道しるべ』(刊年不明)、明治一三年(一八八〇)松山善之助編集兼出版の『四国八十八ヶ所道中独案内』(内題「四国偏礼道案内」)、「編輯人故人真念法師」と明記した明治一三年(一八八〇)刊の『四国遍路御詠歌道中記』、明治一七年(一八八四)刊の『明治新刻四国遍路道しるべ』に至るまで、真念の『道指南』は基本文献として後世に影響を及ぼしている。

 四国偏礼霊場記

 真念は『道指南』を出版してのち、案内記にあきたらず、札所諸寺の由来や霊験譚、什物などを調査してまとめることを意図していたが、ある時高野山宝光院の阿闍梨雲石堂寂本を訪ね、その編集を求めた。元禄二年(一六八九)刊の『四国偏礼霊場記』七巻は、真念の依頼に応えて寂本が巡拝の功徳を説き、遍路行を宣伝し、その普及をはかったものである。真念の札所の知識と、真念と遍路行をともにした高野山奥の院の洪卓の仮写生図をもとに、寂本がその広範な学識と秀れた画技とをかたむけて記したもので、四国霊場の記述の中でも最も詳細な資料である。その編集方針は「あやしき事ありといへども、其伝ふるまゝに書侍つ」とあり、真念、洪卓らの話とそれらの提供した縁起や伝承に作為は加えられていない。また、「聖語本説にたがひ又は道理に応ぜざる事はとらず」、「浮説妖妄にわたる事は、いまのとらざる所なり」と述べて、道理にたがうことには批判も加えている。大師賛仰の縁起を多く記しているが、寂本の大師崇敬の念は「八十八番の次第、いづれの世、誰の人の定めあへる、さだかならず、今は其番次によらず、誕生院は大師出生の霊跡にして、遍礼の事も是より起れるかし。故に今は此院を始めとす」と述べて、善通寺から記述を始めていることにも現われている。
 伊予の霊場に関する記述では、それぞれの寺の縁起、本尊の作者名、霊場のたたずまいなどを記し、さらに、開基説話、伝承、寺の興廃の歴史的変遷などに筆を費している。四一番稲荷の項では大師と稲荷の神の出会いを記して、「愚人を惑はす」浮説の類を批判しており、『邪排仏教論』『神社邪誣論』の著者らしい厳しい態度が示されている。それは、五一番石手寺の項に、和銅五年白山権現を勧請したという伝承を、年代的に大きな齟𪘚があり「あやしまざる事を得ず」と指摘しているところ、五七番八幡宮の項に衣干の伝承を記すに「予章記」の記述を踏まえているところにも認められる。叙述は平明で格調高く、四四番菅生山の地名説話、四五番岩屋寺の景観の描写、五一番石手寺の右衛門三郎説話、六〇番横峯寺の開基石仙菩薩に関する記述、六四番前神寺と石鎚山を練苦の場としたと伝えられる役の行者の話などが詳しい。また、五五番光明寺の項では能因の雨乞いの歌の伝承、藤原佐理の掲額説話なども記されて、伊予霊場に関する最も重要な資料となっている。

 四国偏礼功徳記

 真念は四国遍路にまつわる霊験譚も信仰倍増の功徳のためには有益であると寂本に懇請し、その序文を得て元禄三年(一六九〇)に『四国偏礼功徳記』を著し、遍路をすることの功徳、遍路を厚遇することの功徳を説いた。この『功徳記』に収められた霊験譚のいくつかはすでに貞享四年刊の『道指南』にも記されており、はやくから編集を意図していたことが窺われる。寂本は俗説や浮説は採らない人であったが、大師の恩徳をおもう真念の熱意に感じて、功徳譚に短評を加えている。収められた功徳譚は全部で二四話、うち四国内のものが一七話あり、伊予関係は五話である。その一は、宇和島三間村で大師が宿を借りたところ、貧しいためにせめての馳走に出した山の栗をその家の子らが欲しがったので、大師が山の木を加持すると毎年四季ごとに実って今に至っているという。その二は、越智郡今治内の余村の治右衛門は遍路に宿を貸しいたわる信心深い男であったが、捨てておいた家の前の不毛の畑に遍路に与えるために芋を植えたところ、豊かに実ったのでよろこんで遍路にすすめた。遍路人のほかは味なくて食べられなかったという。その三は、宇和郡野井村のたなべ伊左衛門が寛文一〇年の夏に遍路の途中、土州野根村の大師堂に宿ったところ、夢に僧があらわれて「八日の内に汝が家にさいなんあり、はやくかへるべし」との夢告があったので急いで札所を巡って帰郷したために本当に災難をのがれることができた。そこで感謝をこめて七年間遍路人にはき物を施したという。その四は、宇和島下村のこんや庄兵衛は病身のため遍路がかなわないので、遍路に宿を貸し、馳走をしていたところ病気が平癒し、夫婦で遍路できたという。その五はいわゆる衛門三郎発心譚であるが、寂本は

  右衛門三郎事を聞に、大師其名を書付、石を握らしめ給ふといへは、大師の御在世のやうにもあり、遍礼廿一反せしといふをきけは、大師後の事なり、年久しくなりぬればあやしむへき事おほし、一説のはちをこひ給ふは、大師にて、かれを化し玉はん方便にて、八人の子を大師とりころし玉ふなどいふ事、なを是応ぜぬ義なり、所詮むつかしきゆへ、石手寺の記に略して書たり

と述べて、疑義をはさんでいる。
 なお、四国遍路案内の絵図には各札所の配置の見取図を添えた寂本の『四国偏礼霊場記』(元禄二年)に次いで、宝暦一三年(一七六三)には細田周英の『四国偏礼絵図』が出ている。これは、延享四年の春に真念の『道指南』を道中案内として四国霊場を巡拝した周英が、「西国卅三所等には絵図あれとも、四国偏礼にはなきことを惜んで略図となし」「一紙して細見図となし、普く偏礼の手引にもなれかしと願」つて出版したものであるという。寛政回一年(一八〇〇)に九(木の上に白)主人が筆写した『四国八十八ヶ所名所図会』は、霊場の実際の様を写したものとみられる秀れた写生画であり、名札所の境内の説明、札所から札所への適切な案内も記されている。
 その他、各地の各所や霊場を解説した『南海道名所志』(陰山梅好・白縁斎選、寛政四年【一七九二】刊)や、宇和島ひやうぐや新七板元で寛政八年(一七九六)刊行の携帯用案内記『四国八十八箇所道中記』(下村宮吉著、画工中村新右衛門)なども知られている。明治一六年(一八八三)刊の中務亀吉編『四国霊場略縁起道中記大成』は、六五度の霊場巡拝の経験をもとに、「自己が実地経験せし道のくまくまを書綴り、いまだ行ざる人にも、目に此書を接へさせ、其境に人の念を発起せしめ、苦行く大には諸郷に至りて問ふ事を労せずして、霊蹟に登る事を得さしめ」んとしたものというが、基本的な形式、内容は真念の『道指南』を襲用している。また、明治一九年(一八八六)には繁田空山の『見聞問答四国霊験記』が、二五年(一八九二)には住田実鈔の『四国霊場記』が、さらに三五年(一九〇二)には宇和島の篤志家石崎忠八の『改正四国霊場遍礼順路指南増補大成』が出ている。石崎の著は洪卓の『四国偏礼道指南増補大成』の明治版である。