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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

二 伊予の名所

 近世において各種の文学に登場する伊予の名所について概観する。ただ、伊予、伊予の海、松山といった一般的な地名は省き、県外人(特に中央の)の文学に登場するものを主に紹介する。

 西行松

 西行が崇徳上皇の御陵を訪れ、善通寺など讃岐に足を留めたことは『山家集』や『保元物語』に見えるところであるが、さらに足を延ばして伊予を訪れたという跡が残っている。川之江長須村の西行松もその一つである。芭蕪門人支考が伊予に来遊した時の『乙酉紀行』(『六華集』所収。宝永二年)に「是より長洲の松見せんとて小舟にもの好きて漕ぎはなしたるに」云々とあって、「西行の松かげ涼し別れ好き」と詠んでいる。北条団水の浮世草子『一夜船』巻三の二(正徳二年)にも「伊予の国宇摩郡川野江のほとりに西行松とて古き根あがりのさかえだうつたりし木つき。いかさまかの法師の植しといひ伝へたるもげにくしく覚えけるに」とある。『愛媛面影』には絵も載っている。土居町関の戸の峠には西行腰掛石もある。

 石鎚山

 石鎚山は「伊予の高嶺」として、歌枕、名所和歌に取り上げられているので、ここでは冷泉為村と来遊の俳人について記すにとどめる。
 為村は冷泉家中興の祖と言われ、伊予にも多くの門人を持っていた。周円法師もその一人で(145参照)、為村に石鎚の詠を乞うた。

    見おろすもへだてぬ四の国中にいよいよたかき伊与の大嶽
    八月より五月をかけて消ずてふ雪の大獄伊予にこそあれ

 この二首は前神寺に納められ、その直筆も同寺にある。これに答えた周円法師の歌は「かしこくも世々に伝へて仰がなん君が言葉の露の恵を」「此道の恵にかかるかしこさに小倉の山の松の下露」の二首である。
 来遊の俳人では、天和二年(一六八二)岡西惟中が「それより鉄牛和尚の開き給ふ観念寺を見やりて、石鉄山の麓を通りし、この山四国第一の高山にして白雲とこしなへにめぐり翠黛遠く見ゆ」云々と述べて、赤人や為世の歌をあげている(白水郎子記行)が、みずからの句のないのが惜しまれる。次いで大淀三千風は「○国分寺、香園寺、氷見横峯より見れば、是ぞ四国第一の高山、伊予の高根、常は石鉄山といへり、此本院前神寺、宥清法印所望に当山の記を書」として「鷲の山やまの端かはる月かげも伊与の高根を尋ねてやすむ」「石鉄の山どよむまで響くかな鉄床おろしとがる秋風」(日本行脚文集)と俳味をおびた二首を詠んでいる。(なお石鎚山については、和田茂樹『愛媛文学の史的研究』、西園寺源透編『石土資料』巻四、五、一一参照。)

 つばきの森

 説経浄璃璃では最も古い『かるかや』寛永八年(一六三一)刊本の「神おろし」に「つばきの森」が登場する。「神おろし」は誓約する時に全国の神々をあげて、その名にかけて誓うことであるその中に「いよにつばきの森の大明神、讃岐の国に志度の道場」とあり、伊予豆彦命を祭る椿神社のことと思われる。「神おろし」は浄瑠璃では語りの面白さを聞かせるものであるので、以後も『さんせう太夫』寛文七年刊本、『木曽物語』『公平かぶと論』などの「神おろし」に「つばきの森の大明神」が取り上げられている。伊予には「三嶋宮(大山祗神社)」を初め大きな神社が多い中で、これは注目されてよいことであろう。

 伊予湯

 近世になって作られた謡曲の中に『伊予湯』がある。ワキは都白河に住む者、病を賀茂社に祈り、伊予湯に入るべき由瑞夢を蒙る。舟にて伊予に着き石手寺に参り、シテ老翁に温泉の在所を問うと、老翁は湯の由来を語ってきかせる。大穴持・少彦名命、源氏物語の湯桁などを語って老翁は消える。後シテは崇徳上皇で、石手寺で車返の桜を詠んだ歌(伝説)の縁で、登場させられたのであろう。上皇は、かかる霊泉は二つとなし、汝の病も平愈すべしといって白峯の方に去る。これは『予州道後温泉由来記』などの記述を踏まえながら伊予湯の効験を宣伝しようとする意図も見受けられる。物知りの文人の戯作であろう。
 しかし伊予湯の名は広く知られており、諸書に散見する。『阿国歌舞伎歌』は、例のお国が歌舞伎踊りの時に歌った歌であるが、この中に「おれが往の時や、伊予へ往の、伊予の道後の、湯の町へ。」という一首がある。後の半太夫節でも「湯女の遺恨放下僧初段温泉揃」では「それ国々に。出湯多しと申せどもまづ四国には伊予の。湯の湯桁の数は左八つ右は九つ中は十六ありとかや」と冒頭に取り上げられている。
 伊予の湯桁も古典的風流の種として俳諧等に詠まれる。維舟編『時勢粧』の風虎の句に「伊予鷹をうたば湯桁の数もがな」とあり、『大坂檀林桜千句』では西鶴の「橋を八つ目ふる間にかけられて」に対し、夕烏が「湯桁の内は養生のため」と付けている。幽山編の『俳枕』にも「立つや霞湯桁の三十三天まで」は伊予道後にての作。
 狂歌では『徳和歌後万載集』に「伊予守何がしのもとにてはたしろといへる魚を味噌吸物にしていたしければ」として「これも又いよの湯桁の馳走とて十はたしろのみそになりけり」(山手白人)と詠み、『狂歌若葉集』では「盃に伊予ならぬ柚の匂ふかないざ傾けん桁のかずかず」と詠んでいる。伊予の湯は、その古さと効験、そして源氏物語ゆかりの湯桁でもって、歌俳に格好の素材を提供したといえる。

 十六日桜

 孝子伝説で有名な十六日桜は、一茶が寛政七年来遊し、樗堂に案内されて観桜したことでも有名である。正月十六日「名だゝる桜見んと、とみに山中に詣で待りきに、花は咲き満ちたる芝生かたへにささゑなどして、人々の遠近に集まりたるを見て、玉櫛筍二名の島のむつみ月むつむや花のもとにつどへり」とある。また冷泉為村の詠については『松山叢談』九下にあるが、橘南蹊の『東西遊記』にも次のようにある。

  伊予国松山の城下の北に山越といふ所あり、此所に十六日桜とて、毎年正月十六日には此桜満開して見事なり。松山より花見とて貴賤群集す。寒気面をそぎ、余雪梢を封ずる頃に、此桜のみ色香めでたく咲き出れば、遠近の人ともにもてはやして、殊に其名高し。過し年先大守(定静)より、和歌の御師範京都の冷泉家へ此花を贈り給ひし事あり。其時冷泉殿より御返事の御和歌あり。
  十六日桜といふ花を、頃しも睦月半のたよりに打越せしを、末の四日に都に来りつきて、色もうるはしく、驚くばかりの初花桜の花になん、賞翫の辞、
   消えのこる 雪かと見れば 年々の 睦月半に 咲くといふ 初花桜 初春の 柳の木の芽 それもまだ 色別けそむる ころにはや 若葉催し ほころぶを 散らさぬ風の 便りもて 心は人の 見せばやと 折りこせばこそ 今日見そめつれ
    反歌
   初春の初花桜めづらしき都の梅のさかりにぞ見る

 南蹊が訪れたのは四月半の頃ではなかったが、孝子伝説や伊勢、薩摩の早咲きの桜を紹介している。十六日桜については明月上人の『桜溪記』、西村清臣『十六日桜碑文』(愛媛国文研究第六号)など参照。
 なお、為村には実報寺(東予市)の一樹桜を詠んだ歌も残っている。